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福重の名所旧跡や地形

松尾神社(草場町)
松尾神社(まつのおじんじゃ) 場所:大村市 草場町
 大村市草場町にある松尾神社(まつのおじんじゃ)は、今富町にある大神宮と同じく、旧・福重村の守り神様です。1548(天文17)年からの長い歴史がある神社です。

 松尾神社は、当初、松尾権現として、1548(天文17)年大村純前が、現在地より北に建てました。

 その後、大村純忠時代にキリシタンにより破壊されましたが、1670(寛永17)年現在地に草場郷の鎮守として再建されました。境内の広さは、約1680平方メートルあります。

 明治時代の初め「松尾神社」と名前を改め、1874(明治7)年から今富の大神宮とともに福重村の氏神となり、1年交代で秋季例祭をおこなっています。

子ども相撲大会
 この松尾神社は、「酒の神様」でもあります。重井田町の御手水の滝(おちょうずのたき)=通称「裏見の滝」から水を汲み酒を造っていたとの古記録もあります。

 なお、社殿は 1924(大正13)年に改築された以降風雪に耐えていましたが、痛みが激しいため、80年ぶりに新しく建て変えられ、2004年秋に完成しました。(参考資料:『福重のあゆみ』より)

 ここには、掲載写真の通り、境内には土俵もあり、子ども相撲大会などもあります。(掲載日:2005年6月12日)

松尾権現の大村郷村記の記述
 松尾権現について、大村郷村記に次のように書いてあります。文章は縦書きの旧漢字で、下記の太文字です。
草場鎮守
一松尾権現 神躰石坐像中彩色 例祭九月廿八日 妙宣寺勧請 氏子中祭之
右同殿に唐金座像一躰あり 神殿壱間ニ 七尺 瓦宇 
拝殿弐間ニ 三問萱宇 
石鳥居壱基
境内六畝程内入七間横六間社地外は山なり
当社は寛永十七庚辰年八月建立先年は今の処より北の方にあり宝暦三癸酉年再建

 
上記を現代風に口語訳すると次の< >の通りと思われます。ただし、念のため、正式なものではなく、あくまでも上野の便宜上の訳ですから間違いあるかもしれませんので、ご注意願います。

 草場郷の鎮守神社
一つ 松尾権現(まつのおごんげん) ご神体は中間の彩色をした石の坐像がある。例祭は9月28日に妙宣寺に来てもらって執り行っている。氏子で祭っている。神殿には唐金坐像が一体ある。神殿の大きさは横1.8メートルに、奥行き90センチメートルの瓦屋根である。

拝殿は横3.6メートルに、奥行き5.4メートルの萱ぶきである。
石の鳥居が一基ある。

境内は180坪(595平方メートル)ほどである。その内、横12.6メートル、奥行き10.8メートルの社殿以外は山林である。
当神社は1670(寛永17)年8月建立され、以前は現在地よりも北の方にあった。1753(宝暦3)年に改築された。 

(掲載日:2009年1月22日)

旧・松尾神社について(松尾神社の追加文章)
  上記の松尾神社境内の中には、拝殿に向かって右側に石祠があります。ここを地元の方は、「元権現」、「旧の松尾権現」や「奥の神社」とかも呼ばれる方もいました。なお、下記の項目にも書いていますが、この石祠は大正時代に建立されたものです。ただし、ご神体そのものは、この当時のものか、それ以前のものか、いつの時代か不明です。 <詳細は「(松尾神社の)元権現の石祠」ページ参照

 明治時代になり権現と言う形式ではなく神社としていますので、明治時代からの呼称は、正確には「松尾権現」ではなく、松尾神社(まつのおじんじゃ)と思われます。あと、戦国時代に現在地より「北の丘にあった頃」や現在地に江戸時代再建された後から明治時代初期に神社に変わるまでの呼称は、松尾権現(まつのおごんげん)が正しい呼び方と思われます。

(通称)「元権現」の石祠(旧・松尾権現)
 (現在の)「元権現」の石祠(社の中にある)

  また、この石祠の右側面に彫られている文字を2009年1月16日に拓本化したところ、次の<>内の太文字のように判別できました。まだ、検討が必要ですが、大きな間違いはないと思われます。実物は、4行の縦書きで彫られています。

   草場郷中 建立 松尾宮 大正七年旧九月廿八日  

  上記の解釈は、「草場郷(現在の草場町)の郷民(町民)が、松尾宮'(まつのおぐう、松尾神社)の石祠を1918(大正7)年の旧暦9月28日に建立した」と解釈されます。

  あと、この石祠の右前(大村湾側)方向には、拝殿の改築記念碑が立っています。この時は「大正13年11月」(1924年11月)と彫られています。ちなみに、この拝殿は、2004年に現在のものに改築されるまで続きました。

  この石祠1918(大正7)年に建立、1924(大正13)年に拝殿改築と、比較的短期間に両方建てられています。ここからは私の推測ですが、この当時の草場の方々が何年間の計画で浄財を募り、石祠も拝殿も建てられたのではないでしょうか。現在は使用されていませんが、榊などを飾る容器類にも大正時代の年号が入っているものもありました。

 あと、何故この「元権現」とか「元の松尾神社」が存在しているのかと言うことですが、色々な地元の古老にお聞きしたのですが今となっては、どうも不明のようです。上記の項目の通り戦国時代にキリシタンによって破壊された松尾権現を江戸時代に再建したのですが、明治時代になり神仏混合の権現が許されず、ここでは権現から神社に変わっています。(他の地域では権現が破壊もされました)

 ここからはあくまでも私の推測ですが、この時期に何らかの理由で、ご神体が隠されたり、あるいは現在の松尾神社のご神体に変わった時に別の形で祀られていた可能性もあるような気がします。この書き方は推測の域を出ませんので正確さに欠けた記述になっていることは、あらかじめご了承願います。

 いずれにしましても、現在地元の方は、今でも、この石祠周辺を大事にしておられます。行事などで松尾神社にお参りされる時には、まず、先にこの石祠ご神体を拝み、次に現在の松尾神社と言う順番だそうです。

 なお、 2009年1月から2月頃までに福重神社総代会の方で、この旧・松尾神社の石祠と、その横の「草場の二体仏」含めて、周辺に社(やしろ)を建てられます。 <詳細は「(松尾神社の)元権現の石祠」ページ参照

(掲載日:2009年1月20日、第二次掲載日:2018年3月21日)

戦国時代にあった松尾権現の推定位置について
  これからの記述は、一部をのぞき全て私の推測、推定にもとづく事柄ばかりですので、ご注意をお願いします。普通、郷土史と言えば推論などではなく、文献、遺物・石塔類などに基づいて書いてあります。しかし、今回「戦国時代にあった松尾権現の推定位置」を書いていますのは、いくつか理由もあります。

  まず、歴史的な経過からですが、草場町は肥前国時代、古代の道と駅があったと言われている所です。(詳細は『大村の古代の道と駅』を参照) また、平安時代末期頃の草場の経筒2個も出土して、その上にあったと思われる草場の単体仏もあります。そのような土地柄の地に時代は相当下って先の事項と直接的な関係は少ないと思われますが、1548(天文17)年大村純前が松尾権現(まつのおごんげん)を建てたと言うのは興味引くものです。

a=現在の松尾神社、b=水神様が横にある泉、c=水が染み出している付近の田んぼ (写真奥は大村湾)
水神様と泉(写真:右下側の黒く見える所)

 あと別の「古墳と神社仏閣の場所は、なぜ共通項が多いのか?」ページに書いていますが、松原地区や福重地区の丘陵地帯にあった神社仏閣などは、いくつかの共通項もあります。そのようなことから、今回「戦国時代にあった松尾権現の推定位置」を探して書くことを思い立ちました。当然、今後新たな史料、その他が発見されれば、このページも改訂したいと考えています。

 戦国時代にあった松尾権現の場所の推定にあたってのヒントは、いくつかありました。それは、主に下記の事項
・大村郷村記に、現在地より北にあったと記述されている。
・御手水の滝(おちょうずのたき、通称「裏見の滝」)から水を汲み、この松尾権現で酒を造っていた。
・丘陵地帯の神社仏閣は見晴らしが良くて、水の確保が出来る場所に多くあった。
などでした。

 上記の中で、一番確率の高い史料は、大村郷村記です。しかし、これだけの記述だけでは、あまりにも大雑把すぎて、しかも地元にこの史料に結びつく伝承も何ら残っていないため、場所を探すことさえ出来ませんでした。

 次に丘陵地帯に神社仏閣の多かった共通項の理由の一つの見晴らしの件です。これは現在地含めて、この草場周辺は、どこも眺望がいい所で、どこでも候補地になりゆる地域でもあり、これまた特定に至りませんでした。

 最終的に考えたのが、水の確保の問題です。結論から先に言えば、どこか現在地周辺に泉や小川がないか探しました。一番最初の頭に浮かんだのが、『馬込水源』でした。ここは水量豊富でいいのですが、ニ方向からの小川もあり、しかも場所全体が谷筋に当たるために神社建設には不向きと思われました。また、距離的にも現在地より、やや遠い位置になります。

  次に、他に泉などがないか探したところ現在地より約160m東側に泉が湧き出ていて横に水神様が置かれている所がありました。さらに、その右上方向の田んぼ上側に水が沁み出している所もありました。 (右上側の写真では、=水神様が横にある泉、c=水が染み出している付近の田んぼ、a=現在の松尾神社の位置となります)

 ここは両方とも見晴らしも良く、距離的にも現在地から近い所になります。また、現在は、この水も利用されて田畑になっています。<地元の方は、この泉周辺を「くさきはら」(草木原のことか?)と呼ばれたり、その泉近くにある石を日陰石(ひかげいし)とも呼ばれているようです>

 この周辺なら、「戦国時代にあった松尾権現の推定位置」として、ひとつの有力な候補地としてなりうるのではないかと思い、今回書いてみました。念のため、決して確定した場所ではありませんし、大村郷村記に書いてある方角とも違った位置になります。

 以上が、「戦国時代にあった松尾権現の推定位置」の内容です。私が調べた他の『重井田町の天狗伝説』の「あとがき」にも書いていますが、色々な物知りの古老が、この福重地区でも少なくなってきています。たとえ推論・推定も含めたとしても、何らかの形で情報を現時点でまとめておけば、次の確かな、新たな情報提供もあるかもしれないと思い書いてみました。

(掲載日:2009年1月25日)



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