(史跡説明板)十二社権現跡と帯取殉教地(じゅにしゃごんげんあと と おびとりじゅんきょうち)
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名称:十ニ社権現跡と帯取殉教地 |
様式:説明板 |
場所:市道・歩道脇の畑(右側の緯度経度を参照) |
設置者:今富町内会、福重地区活性化委員会 |
設置年:2020年3月1日(令和2年3月1日) |
GPS実測値:32度57分21.22秒 129度57分02.79秒 |
全体の大きさ:高さ95cm、横幅70cm |
(国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°57'21.22"N,129°57'02.79"E |
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(写真1) 中央部(電柱)左側下部の白板が十二社権現跡と帯取殉教地の史跡説明板
<このページ下部右側の「大村藩領絵図の十二社権現」の場所は上記写真上部の山林右側から左側の民家敷地を示している> |
史跡説明板写真周辺の説明
まず、江戸時代、大村藩が編さんした(大村)郷村記を参照すると、十二社権現の創建は、不明です。創建後、一旦、何らかの理由で無くなり、そして、江戸時代初期の正保年間(1644~1648年)に、同じ場所に再建されたと書いてあります。先の(大村)郷村記では、地名として字(あざ)「橋口」とも記述されています。
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(写真2) 水色蛍光線の上部に十二社権現の文字がある |
この「橋口」は広いので場所の特定は、(大村)郷村記だけでは難しいのですが、それ以上に正確に分かるのが、大村藩領絵図です。この絵図には、右側(写真2)中央部下側に引いた水色蛍光線の脇に十二社権現の文字が書いてあります。
この絵図は、現在の地図と対比しても(写真1)に写っているガードレール奥の市道と、絵図の黒い線(ただし、江戸時代当時は馬車道程度の幅)は、全く同じ道路です。
また、近くを流れている郡川(こおりがわ)や佐奈河内川(さながわちがわ)の流路、さらには、十二社権現のやや左上部にある「大神宮」の位置も現在の地図と、ほとんど変わりないくらい正確なものです。
そして、この場所の説明について、(写真1)の上部右側の山林から、(写真には写っていないが)その山林の左側(北側)にある個人宅の敷地までを示しています。この絵図上の十二社権現の文字は、現在でも少しの幅はありますが、正確に創建・再建から江戸時代末期まで、この地に十二社権現があったことを示す根拠史料(資料)です。
そして、明治・大正・昭和時代と再建や移転を繰り返し、現在では帯取集会所で、十二社権現は、その氏子によって祭られています。 なお、この十二社権現跡は、先の大戦時、海軍・第二十一航空廠(飛行機製造工場)建設用の石材や石垣に使うため、山林部分は採石場となり、それまでの地形と大きく変わってしまっています。
関係ページ:「十二社権現跡(今富町) <(本当の)「帯取殉教地跡」>」ページを参照
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(写真3) 帯取殉教地の場所間違いに立つ記念碑
(金色の)碑文の意味は「この場所は帯取殉教地跡である」 |
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(図A) 現在の概略地図(A~Cの間は350m弱も離れている)
<Aは(大村)郷村記に地名=字(あざ)も「帯取」でなく橋口とある> |
・間違った帯取殉教地の場所が広報されている
念のために、先に書きますが、帯取殉教の内容<元和3年(1617)5月22日、フランシスコ会のフラーデ・ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父とイエズス会のジョアン・バティスタ・マシャード神父が殉教>自体は、正しい記述といわれています。ただし、この項目で問題にしているのは、殉教地の場所についてです。どうか、お間違いなきように願います。
次に、帯取殉教地の間違い場所を堂々と掲載してある、次の二つのサイトを閲覧願います。それは、「おらしょ 心の旅 の『帯取殉教地跡』」(長崎県世界遺産課作成)」 と 「(大村市ホームページの)帯取殉教地跡」紹介ページです。両方のページには右側の(写真3)=間違った場所に立つ間違った碑文が彫ってある大きな記念碑写真の掲載とともに、次の紹介文が書いてあります。
「大村で最初にキリスト教の殉教者を出した場所。 (中略) 現在、その付近に殉教地跡の碑が建てられている。」 「この辺りは、大村で最初にキリスト教の殉教者を出した場所です。」とあります。
(写真3)の記念碑の碑文は、「帯取殉教地跡」となっています。分かりやすい碑文(文字)ですが、あえて口語訳しますと、「この地は帯取殉教のあった場所」という断定的な意味です。普通に考えれば、この間違った碑文のある記念碑写真を使うこと自体を避けるべきです。
しかも、長崎県も大村市の両サイトとも殉教の内容や場所の根拠史料(資料)や論文名も書いてありません。歴史紹介事項の場合、その史跡の根拠史料・論文名・地域伝承などを書くのは、当然必要なことです。ただし、史跡説明板は、その面積が限られているので文字数制限が厳しく、省略する場合があります。しかし、先の県と市の紹介ホームページには、あと数行か数百文字を追加して書くことは、充分可能です。
あと、この県と市のページ紹介文の元になったと思われるのが、(大村市教育委員会作成の)「大村市の文化財(2004年3月26日発行の改訂版と、2012年3月19日発行の3訂版)」です。ところが、この本の当該紹介ページさえも、幅広い空白があるにも関わらず、たった1行さえも、その根拠史料(資料)や論文名は書いてありません。
帯取殉教地は、大村初の殉教で、市内外の関心も高いです。だからこそ、上記の大村市だけでなく、長崎県世界遺産のホームページにも掲載されています。県も市も、その根拠史料(資料)や論文名さえも記述していないので、次の項目で福重郷土史同好会や上野が調べた範囲内で、先の事柄を書いていきます。
なお、ご参考までに、福重地区の郷土史愛好家は、この記念碑(慰霊広場)のできた直後の2013年頃、あるいは「大村市の文化財(改訂版)」の発行された2014年、さらには、その後の大村市ホームページの同写真・同内容の掲載に対しても、その都度、論文作成者や大村市教育委員会へ、「この(市の広報している)帯取殉教地の場所は大間違いである。特に、この記念碑写真は間違いを助長している。全面改訂を!」と長年、何回も申し入れてきました。
しかし、何ら改訂されることなく、現在も継続されています。その結果、以前よりも長崎県はじめ他のホームページに引用・参照され、間違い情報が広がっている状況です。市内外の方で「帯取殉教地」を紹介されている皆様へ、現行(2020年5月現在)の県や市が紹介している記念碑写真や紹介文と皆様の紹介ページが同様ならば、「その場所は大間違いです」と言わざるを得ません。
なお、念のため、この件は論文作成者や市が、当初間違ったことも様々なことから問題です。しかし、それ以上に、「この場所は大間違い」と分かった時点で、再検証をもとに根本的に直さないこと、改訂しないことが、より一層大きな問題と思われます。
・帯取殉教地の本当の場所と根拠資料について
-----(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)-----
史跡説明板の内容
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
補足
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
・関係ページ:「福重の名所旧跡と地形」の『十二社権現跡(今富町) <(本当の)「帯取殉教地跡」>
(初回掲載日:2020年5月21日、第2次掲載日:6月1日、第3次掲載日: 月 日、第4次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日)
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