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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 天正遣欧少年使節顕彰之像(てんしょう けんおう しょうねん しせつ けんしょう ぞう)

(説明板)天正遣欧少年使節顕彰之像(てんしょう けんおう しょうねん しせつ けんしょう ぞう) 
 名称:天正遣欧少年使節顕彰之像  様式:説明板
 場所:大村市森園町(森園後援の最西北端、通称「長崎空港入口)  設置者:大村市教育委員会
 設置年:正確には不明だが 1982(昭和57)年か?  GPS実測値:32度55分13.37秒 129度56分13.35秒
 全体の大きさ:高さ205cm、横幅215cm  国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ80cm、横幅190cm  グーグルアース用数値:32°55'13.37"N,129°56'13.35"E
(写真1) 中央部が遣欧少年使節顕彰之像説明板
 注意1:ここには歴史事項のある史跡などはない。ただし、天正遣欧少年使節顕彰之像」 「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメントなどはある。
 
注意2ここに天正遣欧少年使節顕彰之像南蛮船モニュメントあるが、この地からヨーロッパに出発したのではなく、長崎港から
 注意3天正遣欧4少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)に現在の大村市内の出身者は一人もいない。
 注意4上記通りだが、この遣欧少年使節の渡航費用などは戦国時代の大村純忠が負担している。

・関係ページ:天正遣欧少年使節顕彰之像」 「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント

説明板写真周辺の説明
 まず、(写真1)と(写真2)の右側に写っているのが、天正遣欧少年使節顕彰像の説明板です。また、この説明板の周辺には、天正遣欧少年使節顕彰之像 「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメントがあります。

(写真2) 左側は天正遣欧少年使節400年記念碑右側が説明板
 
 (写真3) 天正遣欧少年使節顕彰之像
左側から伊東マンショ千々石ミゲル原マルチノ中浦ジュリアン
 (写真4) 西面側(大村湾側)の天正遣欧少年使節400年記念碑
 (写真5)本説明板の前にある天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント
 
(写真6) 遣欧少年使節顕彰之像説明板の右側(全体の約2/3) 
 改めて、戦国時代の天正遣欧少年使節について、今風に言いますと、日本からヨーロッパへの旅行(往復約8年間)は、現在なら「月旅行」に匹敵するともいわれています。また、出発前と帰国後(禁教の時代)の日本の情勢変化は、あまりにも大きいものでした。ただし、この項目は、天正遣欧少年使節の功績などを詳細に書く目的では無いので、下段の説明板の内容、または沢山ある書籍類などを参照願います。

 説明板のある場所は、大村市森園町、森園公園の最西北端部(通称の「長崎空港入口」が分かりやすい)にあります。

 あと、見学者の中には、色々と誤解されている方も話しに聞きますので、あえて次のことも書いていきます。冒頭のと重複しますが、天正遣欧少年使節がヨーロッパへ旅立った所は、現在の長崎市の長崎港からです。当然、この場所から天正遣欧少年使節が旅立った所でもないし、また、他の歴史事項も無かった所です。

 その一つの根拠として、江戸時代の後期(1750〜1800年頃か?)に作図されたと推測される大村藩領絵図では、この地は海(大村湾)もしくは海岸線のようです。つまり、元々、何も無かった土地柄と推測されます。それに、天正遣欧少年使節の4少年(伊東マンショ、千々石ミゲル、原マルチノ、中浦ジュリアン)に現•大村市の出身者は、一人もいません。ただし、千々石ミゲルは大村純忠の甥、原マルチノと中浦ジュリアンは、戦国時代当時の大村領内生まれです。なお、主席正使の伊東マンショは、現在の宮崎県西都市出身です。

 あと、それでは、何故この場所に先に紹介している3基の記念碑類があるかというと、ここは長崎空港の出入口(箕島大橋の陸地側)で、大村市の玄関に当たる、目立つ場所だからと思われます。それと、戦国時代、大村純忠が、天正遣欧少年使節の渡航費用を負担したことや、それに基づいて遣欧少年使節の功績の400周年を顕彰する趣旨があったことも大きかったのではないでしょうか。

説明板の内容
 このページ(写真6)、または(写真1,2)の右側に写っています遣欧少年使節顕彰之像の説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。なお、先の写真をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。

 また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。そのようなことと、私の転記ミスもありますので、もしも、引用される方は、必ず実物の説明板からお願いします。

 < 遣欧少年使節顕彰之像
 天正遣欧少年使節は、日本で初めてキリスト教に改宗した大村の領主「大村純忠」らが一五八二年にローマ教皇
(キリスト教カトリック教会の最高指導者)の元へ派遣した四人の少年です。彼らは日本から初めてヨーロッパを公式に訪問したことでも知られています。この像は彼らの出航から四百周年を記念し、建てられました。

 この派遣計画は、当時日本でキリスト教を布教する責任者だったヴァリニャーノ神父の発案で、少年たちはキリシタン大名「大村純忠」「大友宗麟」「有馬晴信」の代役という形で派遣されました。

(写真6) 遣欧少年使節顕彰之像説明板の右側(全体の約1/3) 
 
(写真7) 遣欧少年使節顕彰之像説明板の左側(全体の約1/2) 

 キリシタン大名大名とは昔日本の地方を治めていたリーダーのことで、仏教からキリスト教に改宗した大名はキリシタン犬名と呼ばれました。

 目的は、大きく二つありました。一つ目は、日本の布教活動の成果を示すためにセミナリョ
(キリスト教の学校)の優秀な少年達をローマ教皇に会わせ、日本での布教活動資金をお願いすること。 ニつ目は、少年達を優秀な宣教師として育てるために、ヨーロッパのキリスト教社会のすばらしさを直接見せることでした。

 日本出発から三年五か月でようやくヨーロッパに到着。ポルトガル国王•スペイン国王に面会し、少年達が行く先々で日本ブームが起こったといわれるほど熱烈な歓迎を受けました。ローマ教皇(グレゴリュス十三世)に面会する時は、「帝王の間」に通され、国王級の扱いを受け、ローマの市民権まで与えられました。

 一五九〇年(出発から八年五か月)四少年は遂に帰国を果たしましたが、四人を派遣したキリシタン大名のうち大村純忠と大友宗麟 はすでに亡くなっており、日本はすでにキリスト教が禁止された後でした。四人はそれぞれ追放されたり、キリスト教信仰をやめたり、処刑されるなど、苦難を強いられ、せっかく学んだキリスト教を満足に布教できないまま生涯を終えたのでした。

 しかし、少年達は大きな功績を残しました。活版印刷機、西洋楽器など、ヨーロッパの進んだ技術や文明を持ち帰り、日本が海外と断行した(鎖国)後も日本が広くヨーロッパに知られ続けた大きな きっかけを作ったのです。


4少年の説明書き
 上記で書いた説明文の下部(写真6参照)に、4少年が一人づつ日本語・英語・中国語・韓国語で紹介されています。この項目は、左側上部から氏名別に、その説明書きを下段の通り、青色文字で記述していきます。もしも、引用される場合は、私の転記ミスもありますので、必ず実物の説明板(文章)から願います。
伊東マンショ

 正使 伊東マンショ(1569-1612)
 日向国(宮崎) 都於郡
(とのこおリ)出身。
 大友宗餌の親戚にあたる。4人の少年の中で最年長。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。
 1601年マカ才で神学を学び、1608年長崎で司祭となる。布教活動の長旅で体を壊し、1612年.43黛で長崎にて病死する。

 
千々和ミゲル

 正使 千々和ミゲル(1569-1633)
 有馬領千々和出身
 釜蓋
(かまぶた)城主千々石直貝(なおかず)の子。有馬晴信のいとこ、大村純忠の甥にあたる。
 帰国後、.1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年頃、イエズス会を脱会。清左衝門と名乗り、大村喜前
(よしあき)に仕える。1633年死去。

原マルチノ

 副使 原マルチノ(1569-1629)
 
大村領波佐見出身。
 原中務
(はらなかつかさ) 大輔純一の子。4人の少年の中で最年少。帰国侯、1591ヰ大草の修練院でイエスス会に入会。
 1608年長崎で司祭となる。布教活動を行うが、徳川幕府の禁教令によりマカ才に脱出。1629年マカオにて病死する。

中浦ジュリアン

 副使 中浦ジュリアン
 大村領中浦出身(現在の西海市)。
 中浦領主中浦甚五郎の子。帰国後、1591年天草の修練院でイエズス会に入会。1601年マカオで神学を学び、1604年長崎に戻る。1608年、司祭となる。徳川幕府の禁教令後も日本に残り、布教活動を続け、1633年、64才で長崎西坂にて殉教する。

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<中浦ジュリアンの補足>
・今富キリシタン墓碑の一瀬栄正の奥さんは中浦ジュリアンの叔母さんに当たる
 上記の説明版「中浦ジュリアン」の項目に記述されていないことで、福重地区(今富町)とも少し関係ありますので、下記に、その内容を書いていきます。この事柄について、「福重のあゆみ(筆者は増元義雄氏、発行は福重地区町内会長会)によれば、次の<>内の青文字が記述されています。
(写真A) 今富のキリシタン墓碑
(
「夫婦墓」との説もあり) 
 (注:今富のキリシタン墓碑」ページは、ここからご覧下さい。)

 < (前略) )大村純忠の使者の中浦ジュリアンは詳しい身元が分からず、中浦の領主・甚九郎の子とだけ伝えられていました。ところが最近になって中浦城主・小佐々甚九郎の子の小佐々甚吾であることが分かりました。後で述べる「今富のキリシタン墓碑」は今富の一瀬さんのご先祖の一瀬栄正の墓ですが、その一瀬栄正の奥さんが小佐々甚九郎の妹です。中浦ジュリアンの叔母に当たるのです。 (後略) >

 なお、「今富のキリシタン墓碑」そのものについて、従来説ではない説もあり、それを参照すれば「一瀬栄正の墓ではない別の人かもという説」もあります。このページでは、「福重のあゆみ」から引用しているので、あえて「今富のキリシタン墓碑」の件も書きました。

 ただし、上記<>内の系図的な事柄部分は、「今富のキリシタン墓碑」の新旧両説とは無関係です。そのようなことから、上記の<>内通り、その一瀬栄正の奥さんは中浦ジュリアンの叔母さんに当たる方ということです。

補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:天正遣欧少年使節顕彰之像」 「天正遣欧少年使節400年記念碑」 「天正遣欧少年使節の南蛮船モニュメント

・関係ページ:
(初回掲載日:2023年8月1日、第2次掲載日:8月4日、第3次掲載日:8月6日、第4次掲載日:8月10日、第5次掲載日: 8月28日、第7次掲載日:8月30日、第8次掲載日:9月4日、第9次掲載日:9月7日、第10次掲載日:9月16日、第11次掲載日:0月23日、第12次掲載日:9月26日) 

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