(大村市)松原地区公民館連絡協議会、松原地区の史跡巡り(概要報告)
日時:2018年2月11日、12時00分〜14時15分 場所:松原地区住民センター・和室、松原地区の各史跡(一部を除き下記の史跡名称など) 参加:10名
|
松原住民センターで打ち合わせ中
|
|
野岳湖と郡岳をバックに記念撮影 |
概要:松原地公連(松原地区公民館連絡協議会)の年間計画に研修の項目があります。そのことから今回、地元の各史跡を知ろうと言うことで、上野が案内役で下記の各史跡見学をおこないました。この日、寒い風もふく中でしたが、当初予定のコースは、ほぼ終わりました。
現地の見学後、松原住民センターで若干の質疑応答もおこないました。松原地公連の皆様には、大変お世話になり、ありがとうございました。 (今回の史跡巡りの概要は下記の通りです)
史跡巡りの場所:(注:順不同、下記の太文字は現地見学箇所、一部説明のみで見学していない所も含む)
1、野岳湖周辺の史跡
(1)鉢巻山:狼煙場跡、虚空蔵菩薩<寛政11 (1779)年> 狼煙場は古代肥前国時代の説があり、国の緊急事態などに火を燃やして知らせたのではないか。虚空蔵菩薩を整備されるまでは、その跡があったと聞いている。
(2)野田平原の馬頭観音:姿は三面六臂(さんめんろっぴ、顔が3面、腕・ひじが6本)で、美しい石像である。野田平原の人たちで建立されている。建立年は昭和4(1929)年3月吉日で旧・福重村の石工・吉田若松さんの制作である。馬頭観音の最も古い形は前後左右の四面六臂(よんはちひ、顔が4面、腕・ひじが8本)形は様々ながら額(ひたい)に馬のマークがあるものもある。
(3)野岳遺跡:公園管理事務所の下側から(1万3千年前)旧石器時代の遺物が発見された
(4)野岳大堤(野岳湖):寛文3(1663)年に深澤儀太夫の築堤(詳細は、案内板参照)
(5)野岳大堤、木井樋(きいび)の工事記念碑2基<寛保2(1742)年、寛政2(1790)年>がある。これは、は木製の井樋なので、何十年かごとに、けっこうな金額で建替えられたと思われる。
(6)旧・野岳村の庄屋跡(大村藩領絵図に図示されている)
(7)大切間:井手用の水を三方(野岳、石走川、弥勒寺)へ、耕作地面積に合わせて水量配分していて、先人の知恵と思われる。
(8)野岳の馬頭観音(石像本体は大村最小と思われる。詳細調査は未実施だが江戸時代の建立である)
2、東光寺跡の史跡
(1)東光寺跡:創建は不明だが、推測ながら平安時代であろう。、寺の石高は130石で大村最大だった。薬師如来。
(2)宝塔:正和五年(1316)銘のある石塔(市内最古の年号が彫ってある)
(3)三伯:伝承では「馬の神様」などの説もあるが、謎の「漢字二文字の石塔」である。同じく「漢字二文字」は、松原に「陽白」、福重に「陽林」、「道看」がある。4基とも様々な説があるが謎である。(詳細は「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?」ページを参照)
3、今山周辺の史跡
(1)紫雲山延命寺跡:奈良時代初期に創建、宗派は最古の法相宗、この寺の創建年=天平年間の文字が彫ってある標石が福重の妙宣寺・本堂下から見つかっている。地元では、寺跡は、この場所より、あの墓の周辺(個人宅や田畑など)ではないかとの説もある。
(2)大村純治(?)の墓:江戸時代に編纂された(大村)郷村記によれば、あの小高い所は、大村純治(すみはる)の墓地とも推測されている。仮に、この説が本当なら戦国時代の重要な転換点の武将である。大村純治は佐賀から来て、寿古町にある好武城を築いた、さらに変名して大村純伊(すみこれ)になったのではないかとの説もある。
4、武留路周辺の史跡
(1)武留路の馬頭観音:これは三面六臂(さんめんろっぴ)の石像である。建立者は武留路の人たちで、建立年は大正6(1917)年1月19日である。
(2)三社大権現:創建は不明である。鳥居には「享保」の年号もあるが、もっと古いと思う。あと、ここからは上野の推測だが、元々ここから500メートル先の岩場にある仏岩三社大明神を祀っていたが、行きにくい所にあるので、ここで祀るようにしたとも思われる。
|