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大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した) |
済福寺跡の場所について
まず、右図=『おおむらの史記』(大村史談会青年部、1982年09月発行、18ページから複写して見やすいように彩色した)「郡地方の寺院群」を参照願います。この地図では、中央部やや左上側(北西側)に済福寺という文字が見えています。この場所は、ご覧の通り、郡川の右岸で、JR大村線と国道34号線に挟まれた所に図示されています。
しかし、この地図では、済福寺跡の場所について、後で詳述しています地元の二説の内の一つだけしか表示されていない点は、あらかじめ、ご了承の上、ご覧願います。
また、この寺院跡を調べる史料として、江戸時代に作成された大村藩領絵図と、(大村)郷村記があります。ところが、寺院のあった場所が一番分かりやすい大村藩領絵図には、図示されていません。
あと、(大村)郷村記の方も、(現代語訳で)「川端(川のほとり)にあり」、「今、済福寺の地名が残っている」と書いてあるのですが、具体的に、どこなのか分かりにくいものです。そこで、地元の伝承を参考にしますと、主に次の(1)と(2)の二説がありますので、紹介します。
(1)郡川の飛び石があった右岸横(市道脇)の民家周辺にあった説
この説は、1番目(空中)写真の上部(北側)に写っています国道34号線の上側(北側)にある民家周辺です。寿古町の増元氏が書かれた「福重のあゆみ」には、この個人宅であると記述されています。
(2)郡川の右岸で、現在、福重橋の南東側にある畑、日蓮宗の記念碑(注1)や藪(やぶ)のある周辺にあった説
この記念碑周辺にあった説は、福重小学校(校長室)の書庫に(2冊のアルバム式)「福重の史跡(1)、(2)」に書いてあります。
その内容は、上から2番目の左側写真に写っています同様の記念碑写真説明文に、「済福寺跡(10) 創建の時期、その他不明。郡橋(注2)きわの国道付近で、温石(おんじゃく)(注3)の墓石があったのを先の方に移してある。西福寺井手(注4)というのもある」と書いてあります。
(注1):先の記念碑の表面には大きな文字で、「南無妙法蓮華経」と彫ってある。本ページでは、この記念碑を「日蓮宗の記念碑」と称している。
(注2): 「郡橋」は通称で、正式名称は福重橋である。
(注3):
「温石(おんじゃく)」とは、西彼杵半島で産出されている変成岩の一種で加工しやすい石である。
(注4): 「西福寺井手」は才福寺井手のことである。
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済福寺跡周辺にある日蓮宗の記念碑 |
才福寺井手(用水路) 最上部はJR大村線で、日蓮宗の記念碑は手前側にある。 |
念のため、この(正面に)「南無妙法蓮華経」と彫ってある記念碑は、右側面、裏面にも大きな文字があるので分かりやすいです。ただし、ここからは上野の推測ながら、済福寺(この寺の創建は不明)があった当時の宗派は、日蓮宗ではないと思われます。
なぜなら、大村は戦国時代(大村純忠の頃)天正2(1574)年にキリシタンによる他宗教弾圧事件(仏教僧侶の殺害、寺社の焼き討ち、破壊、略奪など)の起こる前にあった仏教宗派は、この弾圧事件によって全てなくなりました。そして、江戸時代、慶長7(1602)年の創建で日蓮宗の寺院として妙宣寺が創建されてからの宗派とは、それまでと全く違うからです。
なお、ご参考までに、済福寺跡周辺に立っている日蓮宗の記念碑の建立は、「昭和13(1028)年10月」(記念碑の裏面の碑文より)です。私の調査不足もあり、この記念碑の建立目的が、先に紹介した福重小学校(校長室)の書庫に(2冊のアルバム式)「福重の史跡(1)、(2)」に書いてある通りなのか、はたまた、別の意味があったのか、2017年6月現在で詳細には分かっていませんので、ご注意願います。
上記の(1)と(2)の地元の二説は、その間の距離を測ると最大でも100mは、離れていません。石仏など比較的小さな史跡に比べれば寺院跡(敷地)ですから、先の距離間隔は、あってないようなものかもしれません。
いずれにしても、今の福重橋の北東部で国道34号線周辺に、済福寺はあったものと思われます。その意味からして、右側2番目画像=『おおむらの史記』、「郡地方の寺院群」地図上での済福寺のあった場所は、正確と言えます。
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済福寺跡周辺、畑の奥側中央部に日蓮宗の記念碑も見えている。(畑や記念碑の写真上部はJR大村線の盛土、さらにその奥側上部は工事中の新幹線の橋脚)
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済福寺跡周辺にある日蓮宗の記念碑 |
才福寺井手は、2番目右側と4番目右側写真の中央部に流れている農業用水路です。福重地区内には、かつてあった寺院名として、例えば弥勒寺や立福寺(龍福寺)の町名とか、あるいは正蓮寺、冷泉(寺)など通称の地名も残っています。
しかし、この済福寺は通称の地名みたいな呼称も現在はなく、唯一(ゆいつ)この才福寺井手に、その寺院名が残っているだけです。このことから想像しても、この井手(用水路)周囲に、かつて済福寺が存在したことを物語っているのではないでしょうか。
大村郷村記内容について
済福寺跡について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)133ページに記述されています。まず、その全文を下記の太文字で書いていきます。原文は、縦書きの続き文で旧漢字体などです。
念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。 また、見やすくするため太文字に変えています。引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。
なお、大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。下記は、見やすいように太文字や改行など変えています。 ( )内は、私が付けた補足や注釈です。
一 済福寺蹟 川端にあり、今地名を済福寺と伝
・現代語訳
< 一つ 済福寺跡
(この寺跡は)川端(川のほとり)にあり。今、(この周辺の)地名(注1)を済福寺と言っている。 >
(注1):この記述には地名(小字や通称名など)があるように書いてあるが、現在では、そのような地名はない。ただし、先述通り、井出(農業用水路)の名称に済福寺井出はある。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2017年5月17日、第二次掲載日:6月2日、第三次掲載日:6月7日、第四次掲載日:6月9日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日)
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