福重の名所旧跡や地形
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済福寺堰(へいしろう せき))=済福寺井手(へいしろう いで<郡川にある堰=渕、井手の一つ> |
(写真1) 川の左右:済福寺堰(さいふくじ せき)=済福寺井手(さいふくじ いで) 場所:長崎県大村市 皆同町(郡川) 福重橋の上流約120mの所にある済福寺堰。左側が井手(用水路)の取水口(写真最上部はJR大村線の郡川に架かる鉄橋の極一部) |
(写真2) 中央部が済福寺堰の取水口、川にあるのは井堰 | (写真3) 中央部用水路は済福寺井手 | ||||
概要紹介
堰(井手)の名称である「済福寺(さいふくじ)」は、この井堰の下流の右岸側(福重橋の周辺)にあった「済福寺」からと思われます。この寺院のあった場所は、2説ほどあるのですが、済福寺井手周辺にあったのは、間違いないと思われます。 |
済福寺井手(西福寺井手)の紹介 今回紹介中の(現在呼称で)済福寺堰(さいふくじ せき)=済福寺井手=西福寺井手(用水路)は、先にも書いた通り、江戸時代に大村藩が編纂した(大村)郷村記に記述されています。現在、一般には活字版の「大村郷村記 第二巻」(藤野保 編)「福重村」100ページに下記内容が書いてあります。
<注:下記はホームページ用に見やすいように上野の方で太文字にしたり、一部、昔の漢字をパソコン用の漢字に直したり、改行や空白(スペース)は変えているので、あくまでも参考程度にご覧願いたい。もしも、引用などをされる場合は、必ず原本からお願いしたい> 一 西福寺井手 懸田七町七畝拾歩 内六町六段六歩半 蔵入 同三段弐畝拾四歩半 私領 同壱段四畝拾九歩半 竹松村分 ・現代語訳 上記「(大村郷村記」を現代語訳にしますと、次の青文字の通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。下記は、見やすいように普通文字、太文字や改行など変えています。 ( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。 一つ 西福寺井手(用水路)=(済福寺井手) 懸田(耕作地=水田面積)は約70,145平方メートル その内、約65,469平方メートルは蔵入(直轄地)<注:下記用語解説参照> その内、約3,219平方メートルは私領(武士などの個人所有地) <注:下記用語解説参照> その内、約1,451平方メートルは竹松村分(竹松村の所有地) <注:下記用語解説参照> <注:用語解説>---下記の用語は古代・中世・江戸時代別でも、全国各領地別でも意味が違う場合がある。 ・上記の場合の「蔵入」とは、(この耕作地は)「大村藩の直轄地」と思われる。 ・上記の場合の「私領」とは、(この耕作地は)「大村藩の武士などの個人所有地」と思われる。 ・上記の場合の「竹松村分」とは、あくまでも上野の推測ながら、この井手(用水路)は福重村の皆同郷や寿古郷に流れていたので、当時この井手(用水路)の耕作地内に、竹松村か、その村在住者の所有地があったと思われる。 補足 ・関係ページ:「済福寺跡」 「郡川」 「本庄渕(本城渕ほんじょう ふち)=本城堰(ほんじょう せき)」 (初回掲載日:2021年6月22日、第2次掲載日:6月27日、第3次掲載日:6月29日、第4次掲載日:7月6日、第4次掲載日: 月 日) |