教通寺跡の場所について
この教通寺跡の場所については、基礎史料(資料)が、ほとんどなくて今回は福重郷土史同好会の推測を交えて紹介していきます。その前に下図をご参照願います。
(1)右図は、『おおむらの史記』(大村史談会青年部、1982年9月発行)18ページの「郡地方の寺院群」(地図)です。この図の上部に教通寺という文字が描いてあります。その文字の左側の黒丸部分が、教通寺跡と図示されています。ただ、『おおむらの史記』には、この図のみで教通寺跡の説明文はありません。
(2)左図は、長崎県文化財調査報告書第一五四集 長崎街道―長崎県 歴史の道(長崎街道)調査事業報告書(長崎県教育委員会、2000年3月発行)に掲載されている古代の道と駅跡を示すための字(あざ)です。念のため、下図の古代の道と、今回の教通寺跡とは直接的には関係なく、分かりやすい地図として掲載しています。
この図の赤い線を引いています中央部付近に「京辻(きょうつじ)」という文字があります。この字(あざ)の「京辻(きょうつじ)」は、推測するに仏教寺院の「教通寺(きょうつうじ)」からと考えられます。一般に地名は、「山、川、海、森」など自然と関係している所は500年位では付かない」と言われています。寺院は自然の名称とは違いますが、基本的には、この場所に仏教寺院の「教通寺(きょうつうじ)」があったからこそ、その呼び名と似ている「京辻(きょうつじ)」が、字(あざ)=地名として出来たと推測されます。
それは、同じ福重地区内の「立福寺(りふくじ)町の由来は仏教寺院の龍福寺(りゅうふくじ)から。 弥勒寺(みろくじ)町の由来は仏教寺院の弥勒寺(みろくじ)から」と同様でしょう。
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赤い線の中央部付近に「京辻(きょうつじ)」という文字に注目を ((長崎街道―長崎県 歴史の道(長崎街道)調査事業報告書より) |
大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した) |
先の(1)と(2)の項目から、寿古町の増本氏は、「福重のあゆみ」(初版、2003年2月10日、 福重地区町内会長会・発行)の15ページに「12)教通寺〜草場の京辻」にあったと書いておられます。あと、私は『福重ホームページ』の「古墳と神社仏閣の場所」ページに、丘陵地帯にあった神社仏閣跡は、要約すれば「眺望の良い所。泉などがあり水が入手しやすい所ではないか」との主旨を書いています。
そのようなことから、今回の教通寺跡の推定地も考え、寺のあった場所を字(あざ)「京辻(きょうつじ)」に絞って探してみました。結果、数軒の民家が、その候補地としてありましたが、(2017年1月現在)場所を特定するに至りませんでした。後で、有力な情報が寄せられれば、また、この項目は追加、改訂もしたいと考えています。
大村郷村記内容について
この教通寺跡について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)133ページに教通寺蹟として記述されています。ただし、郷名(町名)を書いただけの大変短いものです。
教通寺跡(右側写真中央部の数軒の民家周辺)の記述内容を下記に太文字で書いていきます。普通文字部分は、他に紹介している寺院含めて合計六寺院共通のことがまとめて記述されています。念のため、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。今回、現代語訳も青文字で大村郷村記下部に書いています。
一 教通寺蹟 草場にあり
右六ヶ寺由緒・宗旨不知
・現代語訳
一つ 教通寺蹟
(教通寺跡は福重村の)草場(郷)にある。(右記の六ヶ寺とも寺の)由緒(歴史など)や、宗旨(宗派など)は不明である。
念のため、上記の大村郷村記は、省略したものではなく、記述内容自体が先にも述べたように短いのです。また、上記の通り、短文で分かりやすい記述内容ですから、詳細な補足も必要ないと思われます。
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教通寺跡近くにある単体仏との関係
まず、最初に平安時代の末期、あるいは鎌倉時代初期に末法思想が流行しました。この件の詳細と、経筒、経塚、(経塚の上に乗っていたという)単体仏の関係などについては、「大村の経筒」ページを参照願います。(右側に掲載中の経筒と単体仏写真も参照願います)
先の「大村の経筒」ページと、(草場町にあった)「如法寺跡(にょほうじあと)」ページにも、この寺院近くから出土した「草場の経筒その1」、「草場の経筒その2」を掲載中です。
ただし、「如法寺跡(にょほうじあと)」の創建年が不明なため、時期的に「草場の経筒その1」、「草場の経筒その2」と関係あるか、どうかまで分かっていません。あと、(経塚の上に乗っていたという)「草場の単体仏」も、草場町にはあります。この単体仏の元々あった場所は、不明です。
しかし、この単体仏が現在ある場所は、「如法寺跡」よりも、今回紹介中の教通寺跡の方が近い距離です。ただし、この教通寺も創建年が不明なため、時期的に「草場の単体仏」と関係あるか、ないかは判断できない状況です。
しかし、「草場の単体仏」(滑石製の石仏)は、何らかの形で仏教寺院と関係していると考えられますので、どの寺院かは別としても、末法思想が流行った頃の寺院を考える意味で重要とも思えます。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
(初回掲載日:2017年1月23日、第二次掲載日:1月24日、第三次掲載日:1月25日、第四次掲載日:1月26日、第五次掲載日: 月 日) |