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福重の名所旧跡や地形

正蓮寺跡(聖蓮寺跡)(寿古町)
正蓮寺跡(聖蓮寺跡)(しょうれんじあと) 場所:長崎県大村市 寿古町(民家周辺)

  この『正蓮寺跡(聖蓮寺跡)(しょうれんじあと)』の場所について、地元では大村市寿古町の民家周辺と言われてきました。寺の創建は、不明です。

 江戸時代の古記録、大村郷村記によれば寺院名称は、「聖蓮寺」となっています。(現在は「正蓮寺」と呼ばれています) また、場所は、「長松」と書いてあります。この仏教寺院について、詳細な古記録や伝承も少ないため、今回の紹介は限定的な内容であることは、あらかじめ、ご了承願います。

 ・正蓮寺跡の場所は、写真中央部左にある民家周辺と地元で言われてきた。(左側に白く大きく見える右側の民家周辺) 写真右端は国道34号線、その左側で大きな屋根のある建物は、「 天理教玖島分教会」である。(左写真はグーグルアースより)



大村市、郡地区にかつて存在した仏教寺院の名前と場所
(『おおむらの史記』18ページより。注:海・川・国道などは彩色加工した)

正蓮寺跡の場所について
 この正蓮寺跡(聖蓮寺跡)(しょうれんじあと)場所について、まず右側の「郡地方の寺院群」の地図を参照願います。やや左側上部に無量寺(右側=東側)と、正蓮寺(左側=西側)、済福寺(下側=南側)の文字と黒丸印があります。この黒丸印がある場所は、全て地元伝承と同じです。

 つまり、今回紹介しています寿古町の民家周辺が、正蓮寺跡(聖蓮寺跡)です。この場所は、国道34号線の左側(西側)脇に「天理教玖島分教会」があります。ここから、さらに小さな池、用水路や農道を挟んだ反対側(このページ左側最上部写真)に写っています民家(農家)が、その正蓮寺跡(聖蓮寺跡)と言われたきました。

 また、江戸時代の古記録、大村郷村記によれば寺院名称として、「聖蓮寺蹟」として紹介され、その場所は、字(あざ)長松」と書いてあります。この字は、現在もほぼ同じ場所と思われます。

 あと、なぜ、この場所に仏教寺院があったのか、いくつか考える事柄があります。私は、既に掲載中の「古墳と神社仏閣の場所 、古墳と神社仏閣の場所は、なぜ共通項が多いのか?」ページに、その共通項を5項目あげています。

 その5項目の中でも福重、松原、萱瀬のような丘陵地帯にある神社仏閣跡は、総じて二つの理由「2)見晴らし(眺望)が良い所であること。 3)泉(小川含む)が近くにあり水が入手しやすいこと。」を書いています。

 今回の正蓮寺跡(聖蓮寺跡)は、平地なので「2)見晴らし(眺望)が良い所」と言い難いのですが、「 3)泉、水が入手しやすい」所には、根拠があります。なぜならば、先に紹介しました用水路の水源は、この周辺にある泉からと言われてきました。ご参考までに、何十年か前までは、現在よりも、もっと豊富な水量だったと聞いています。さらに、字の「堀池」は、この泉や池が由来と思われます。

 また、この正蓮寺跡(聖蓮寺跡)は、古代の道跡、その後の長崎街道跡の直ぐ近くでもあります。この古代の道は、肥前国時代の長崎県央地域の県庁みたいな役所=彼杵郡家(郡衙)の寿古町説(好武にあったと言われている)が正しければ、そこに通じていた可能性が大きいと言えます。

 以上のようなことから、寺院の創建年代は不明ながら、この寺院跡だけでなく、無量寺や済福寺など含めて狭い地域で同じような場所にいくつも寺院があったのは、分かりやすいものです。

大村郷村記内容について
 この正蓮寺跡(聖蓮寺跡)について、復刻版=活字版の大村郷村記(発行者:図書刊行会、編者:藤野保氏)第2巻(福重村)133ページに聖蓮寺蹟として記述されています。

正蓮寺跡(聖蓮寺跡)(写真中央部左にある民家周辺)

 その記述内容を下記に太文字で書いていきます。普通文字部分は、他に紹介している寺院含めて合計六ヶ寺院共通のことがまとめて記述されています。 念のため、引用、参照される方は、必ず大村郷村記の原本から、お願いします。今回、現代語訳も青文字で大村郷村記下部に書いています。

・大村郷村記、福重村の聖蓮寺蹟について
 一 聖蓮寺蹟  長松にあり 寺領四石九斗九桝四合と伝
    右六ヶ寺由緒・宗旨不知

・現代語訳
  一つ 聖蓮寺蹟
      (聖蓮寺跡は)長松にある。寺領は四石九斗九桝四合と伝わっている。
 (右記の六ヶ寺とも寺の)由緒(歴史など)や、宗旨(宗派など)は不明である。

 上記の通り、短文で分かりやすい記述内容ですから、詳細な補足も必要ないと思われます。ただ、寺領(寺の領地)での米(コメ)の生産高は、約5石ですから、東光寺(130石)龍福寺(33石)弥勒寺(21石)などに比べたら、そう大きな仏教寺院ではなかったと推測されます。

 ただし、昔は、1石で大体、人が1年間で食べる量近くともいわれています。5石ならば一家族で食する米の量、あるいは暮らせる生活費は充当できたものと思われます。

補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)




(初回掲載日:2016年11月16日、第二次掲載日:11月24日、第三次掲載日:11月26日、第四次掲載日:11月 日、第五次掲載日: 月 日、第六次掲載日: 月 日)

  

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