3)寄せられた情報3説の内容、分析と結果
冒頭のはじめににも書きましたが、この盗人島の飛び石をいっぺんに有名にしたのが、西日本新聞2010年5月13日と5月19日の写真付きでの報道です。この直後あたりに、私の方へ口頭、電子メールあるいは雑談含めて様々な情報が寄せられました。その内容についても、単に「盗人島は、”どろぼう島”と呼んでいたバイ」と言う島だけの話から、「飛び石」の工事年代についての各種の説までです。
その中には「かなりの重たい石なので、重機(クレーンなど)がない時代に工事するのは無理だったと思う」と言う工事方法から推定される方もいました。(この件は後で上野の反論を書いています)それらを工事年代別の区分けで、大別すると、主に次の3説でした。ただし、分かりやすくするため、番号や表現方法は、私の方で整理しました。
(1)「江戸時代に作られたのではないか?」=江戸時代の工事説
(2)「戦前の明治・大正・あるいは昭和の初め頃ではないか?」=戦前の工事説
(3)1952(昭和27)年の「大村ボート場開設時頃、競艇場への橋渡しのための石である」=(1952年頃)大村ボート開設時の工事説
などでした。
上記に対して、私も上記<2)大村郷村記の関係記述と大村藩領絵図>から、このことを考えたり、また、何人かの方とも話しや連絡頂いたりして、これらの説を分析・検討してみました。一つひとつ書けば長くなりますので分かりやすくするため、下表の通り一覧表にしました。念のために、この表だけ見ると、まるで”木で鼻くくった”みたいな文章になっていますが、人の話はどなたの、どんな情報や説でも、それなりに由来や経緯があり、また様々な表現力で語られていることは当然のことです。
3 説 の 内 訳
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情 報 の 検 討 内 容
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上野の判断
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(1)江戸時代の工事説 |
・江戸時代作成の大村藩領絵図と(大村)郷村記には記述なし。 |
<上記2)項目を参照> |
(2)戦前の工事説 |
・明治・大正・あるいは昭和の初め頃に工事した記録なし。 |
<戦前の工事記録がない> |
(3)(1952年頃)大村ボート開設時の工事説 |
・「大村ボート場開設時頃、競艇場への橋渡しのための石である」と話しされる人も実際にいて、また市役所内の歴史専門家は、「競艇場への橋渡しのための石であり、謎でも何でもない」と言われている。 |
一番有力説と思われる |
補足として、あと、先に書きました「重い石なので重機(クレーンなど)がない時代に工事するのは無理だ」とか言う話について、それは私の考えでは間違いと思います。なぜなら、例えば同じ飛び石でもある江戸時代の郡川の飛び石は、大きさも当時決まっていて「1個の長さ2m10cm、幅84cmで、合計46個」でした。この大きさは、「盗人島の飛び石」の約2倍から3倍ありました。郡川と大村湾岸と言う場所の違いはあっても近代的な重機のない時代でも「工事しよう」と言う計画さえあれば、工事自体は可能だったと思われます。
さらに
話しは大阪城のことですが、ここの石垣には蛸石(たこいし)や肥後石と言うタタミ何十畳の広さ、重さ推定トン数で2つとも百数十トンと言う巨石があります。これらは瀬戸内海周辺の島から運んで置いたと言われています。また、大村の玖島城(大村城)でも、「盗人島の飛び石」よりも何倍も大きな石が数え切れないほど沢山使用されています。このようなことから、今回の件とは違いますが、重機(クレーン)のない時代でも相当大がかりな工事自体は可能だったとも思えます。
以上のようなことも述べつつ、2010年10月現在において、「盗人島の飛び石」の工事年代は、やはり先に述べた通り<(3)1952(昭和27)年の「大村ボート場開設時頃、競艇場への橋渡しのための石である」=(1952年頃)大村ボート開設時の工事説>が、一番有力だと私は思います。ただし、今後これらのことをくつがえすような工事記録などの新しい資料(史料)などが、何らかの機会に発見されれば、その年代に改めることは当然のことだとも思っています。
(掲載日:2010年10月27日)
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