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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など (赤似田堤)用水路改修工事記念碑
 概要紹介
掲載中
 1)碑文内容について 掲載中
 2)記念碑のの大きさなど
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   緯度経度など
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 まとめ
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・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。

概要紹介
 大村市野田町には、福重地区最大のため池である赤似田堤(あかにたつつみ)があります。この堤(ため池)の築堤は、江戸時代初頭の寛文年代(1661年から1670年頃)に、野岳湖などをつくった深沢義太夫の二代目(弟の)深沢勝幸にて出来たと伝承されています。(この赤似田堤詳細は、ここからご覧下さい)

 古記録がないので正確さがありませんが、築堤当時は近くの笠山(かさやま)や花尾ノ辻
(はなおのつじ)などの山に降った雨の流れ込みで、貯水していたと思われます。しかし、満水時面積1.5ha 貯水量104,000立方メートルもある大きなため池であることと、耕作地の使用量などの関係から、取水の水量が不足していたと思われます。

(写真1) 赤似田堤の脇、水路改修工事記念碑(裏面にも碑文あり)

 そのため、江戸時代(工事年は不明ながら)、重井田町にある佐奈河内川(さながわちがわ)から取水し、約4kmも距離がある井手(用水路)にて、水を赤似田堤へ引いていました。この井手(用水路)の工事は、江戸時代当時のことと、距離が4kmもあるので、なかなかの難工事であったと地元では伝わっています。

 当然、この長い井手(用水路)の造りは、当時のことゆえ石垣などが中心でした。そのため、毎年、水利組合員が交代で当番となって水路の漏水(ろうすい)や状況を確認し、保守点検、あるいは軽微な損壊は、自ら直していました。

 それでも、毎年に一回は、改修工事が必要で、その時は水利組合員総出で壊れた所を直していたようです。そのようなことを続けていても、用水路を造ってから数百年以上経ちますので、各所で漏水などがヒドクなり、全面改修工事が迫られていました。

 そして、 1988年(昭和63年)4月の赤似田堤水利組合総会に於いて水路改修工事を決定して、大村市へも補助金を申請しました。次の1989年度から地元請負にて用水路改修工事を着工しました。その後の1997年3月に工事は完了し、竣工式典は同年6月に挙行されました。

1)碑文内容について
 (写真2)は、用水路改修工事竣工記念碑表面です。この表面には、次の<>内の碑文が彫られています。ただし、 (写真1)で、お分かりの通り、縦書きの碑文は、最初から最後まで改行も句読点もなく続いています。そのため、ホームページ用の横書きに直しますと、読みにくくなりますので、今回、私の方で文章の区切りと思えるところは改行したり、空白(スペース)や句読点なども入れています。

(写真2) 用水路改修工事記念碑、表面
 
(写真3) 用水路改修工事記念碑、裏面 

・表面の碑文内容
  < 用水路改修工事竣工記念碑 
 赤似田溜池は江戸時代初頭寛文年代に、二代目深沢儀太夫勝幸にて築堤され、野田部落の丘陵地を開いて、水田稲作が始まったものと思われる。

 其の後、水源確保のために重井田橋の上流より四キロ米に及ぶ井手にて導水し、二キロ米地点落場にて溜池にも落水調整利用されていたが、近年漏水甚たしく毎年四月家族総出で三日間出夫し粘土にて補修せしも其の効なく 昭和六十三年四月総会に於いて水路改修工事の具体策について検討し 改修工事を行うように決定。市当局へ請願し年次計画を立て平成一年度より地元請負にて着工。
 主要工事用水路延長四○○○米コンクリート三面張り二○○○米U字溝二○○○米を施工

 平成九年三月完工同年六月竣工式を挙行す >


・口語訳
 上記の碑文を口語訳しますと、次の「」内と思われます。なお、( )内は、上野が分かりやすく補足などをして、長文行は句読点で区切っています。

  赤似田溜池(あかにた ためいけ)は江戸時代の寛文年代(1661年から1670年頃)二代目の深沢儀太夫
(ふかざわ ぎだいゆう)の二代目(弟の)深沢勝幸にて築堤(建造)され、野田郷(町)の丘陵地を開いて、水田稲作が始まったと思われる。

 その後、(取水量の不足が続くため)水源(水量)確保のため(重井田町にある)重井田橋の上流(佐奈河内川の上流域)より
4キロメートルにおよぶ井手(用水路)で導水(水をみちびいて流し)2キロ地点の(水を)落とす場所からため池にも落水調整させ利用されてきた。

 (しかし)近年、漏水(ろうすい)が大きくて、毎年4月、(水利組合員の)家族全員で3日間作業してし、粘土(ねんど)にて(用水路)を補修しても、その効果がなかった。 (そのため)昭和63(1988)年4月、(赤似田堤水利組合)総会において水路改修工事の具体策について検討し、改修工事をおこなうように決定した。

 (そして)(大村)市当局へも(改修工事をするための補助金の)請願をした。年次(改修工事)計画を立て、平成元年(1989)より地元の請負(うけおい)で、(その工事は)着工となった。

 主要工事の用水路の長さは4000メートルである。(その内)コンクリート三面張りで2000メートル、U字溝が2000メートルで施工した。

 平成9年(1997)3月(用水路改修工事は)竣工し、同年6月に竣工式を挙行した。 

裏面の碑文内容
 右側の「(写真2) 用水路改修工事記念碑、裏面」には、この工事に関係してる事項が縦書きの漢字などで彫ってあります。その上段右側部分が、(赤似田堤水利組合の)組合長・庶務会計・幹事などの役員名(4名)(注1)です。

 上段左側部分は、工事費関係で次の< >内の碑文があります。ただし、漢数字は、ホームページ上で見やすくするため、アラビア数字に変えて表記しています。

  工事総額 34、776、600円   市補助金 18、669、000   地元負担金 16、107、600円  出夫日数 645日(注2) 

 碑文の下段全部は、当時の工事関係者(赤似田堤水利組合の組合員名)13名の氏名(注2)が、彫ってあります。
 (注1:この裏面碑文に彫ってある氏名は全て肉眼でも読めるが転記するのは省略。なお、既に亡くなった方が数名もおられる)
 (注2:この出夫日数(しゅつぶ にっすう)とは、現在では工事のために働いた日数のことと思われ、その合計が645日である。年から年中忙しい地元の農家にとって、この8年越しの645日は、かなりの作業日数である)

(写真1) 赤似田堤の脇、水路改修工事記念碑(裏面にも碑文あり)

2)記念碑の大きさ、緯度経度など
 右側
(写真1、2、3)に写っています用水路改修工事竣工記念碑を計測した結果は、下表の通りです。なお、本体の石碑は、ご覧の通り分かりやすいです。しかし、土台になる石は、長方形の御影石、大きな自然石、さらに、その下側(最低部)にある車座に配置された自然石など三重になっています。

 また、記念碑本体の水準を合わせるため、高さ調整もしてあるようです。先の状況から、計測がやりにくい部分もありました。
そのようなことから下表の数値は、あくまでも、ご参考程度に願います。

 あと、この記念碑の完成時、除幕式などはありませんでした。ただし、私は石碑店から運搬時に記念碑面の保護カバーなどを取り除く作業時、当時の赤似田堤水利組合・組合長と一緒に作業しました。そして、写真撮影も依頼されました。

(赤似田堤)用水路改修工事記念碑の大きさ

 全体  高さ:約2m  幅:170cm -
 本体  高さ:93cm  幅:72.5cm 厚さ:25cm、胴囲: 1m95cm
 土台1  高さ:13cm  幅:15cm (左右と全体の高さ調整用でもある)
 土台2  高さ:55cm  幅:170cm 胴囲:4m70cm(大きい自然石)
 土台3  高さ:35cm  幅:133cm -


(赤似田堤)用水路改修工事記念碑、GPS実測値
 名称:用水路改修工事記念碑  場所:大村市 野田町 (赤似田堤の洪水吐の脇)
 GPS実測値:北緯32度57分35.74秒 東経129度58分27.60秒  (国土地理院)地図検索用  32度57分35.74秒 129度58分27.60秒
 グーグルアース用数値:32°57'35.74"N,129°58'27.60"E  標高:GPS高度計は121m、気圧高度計は122m、地図上の標高は124m


まとめ



 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)



・関係ページ:赤似田堤(あかにたつつみ)

(初回掲
載日:2018年12月22日、第二次掲載日:12月23日、第三次掲載日:12月27日、第四次掲載日:12月28日、第五次掲載日:2019年1月26日、第六次掲載日: 月 日、)

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