大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など |
(野田地区専用)水道記念碑 |
名称や経過について | 掲載中 |
概要紹介 | |
1)碑文内容について | 掲載中 |
2)大きさ、緯度経度など | |
緯度経度など | |
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まとめ | |
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。 |
(写真1) 中央左側が野田水道記念碑(のだ すいどう きねんひ) 右側は貯水タンク | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<この簡易水道組合の名称や経過について> ・(この水道事業発足の1977年当時)記念碑建立者名は「福重地区簡易水道組合野田工区」である。 (念のため、この簡易水道組合は最初、野田町と立福寺町の上地域の共同でスタートした) ・その後、水の使用量増(世帯数増)により、新たに野田町にボーリングをした。 ・そして、しばらくして先の両地域は各々独立した運営となった。 ・いつの時点からか定かではないが、当初の水道組合の名称は使用されず、「野田地区専用水道組合」をはじめ「野田専用水道組合」「野田簡易水道組合」「野田水道組合」などと呼称されてきた。 |
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概要紹介 |
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1)碑文内容について まず、下記の右側の碑文写真を参照願いたい。これは、水道記念碑・正面側の碑文である。次に左側が、先の碑文を活字化した画像である。さらに写真の下側が縦書きの碑文を横書きにしたものである。
上記の横書き 上記の写真でもお分かりの通り、碑文の本文は漢字、カタカナ文である。その活字版からホームページ用に横書きに直したものが、次の<>内の青文字である。なお、改行、句読点などは、上野の方で変えている。 < 水道記念碑 大村市長 高木隆虎書 水道施設沿革 野田地区ハ従来ヨリ水源ニ乏シク殆ドノ家ニ井戸モナク四「キロ」米上ノ重井田ヨリ重井田井手ニテ導水シ赤仁田溜池用水ヲ利用、水田傍ニ出ル湧水等ニ頼ツテオリマシタガ近年環境ノ悪化ニ伴ナイ赤仁田溜池汚染、水稲時期ニハ農薬使用ニ因ル悪水ガ侵入シ且又渇水期ニハ湧水も渇果テ保健衛生上好マシクナク此等を憂慮 大村市当局ニ御願シタ結果本地ノ現況ヲ観察サレ佐奈河内水系ニ水源ヲモトメラタ処秀水ニ恵マレ立福寺上地区ト共ニ給水ノ運ビトナッタノデアリマス コノ間関係各位ノ御盡力特ニ市当局ノ深キ御理解ト御配慮ニヨリ水道施設ノ完成ヲ地区民一同感謝シ 永ク其ノ実情ヲ後世ニ伝ヘ此処ニ碑ヲ建立ス > 上記の口語訳 上記の記念碑の建立年月日は、昭和52(1977)年9月17日であるので、難しい漢字などはないので、碑文だけでも分かりやすいものである。ただし、文章節が長いことと、(石工が彫りやすくするためもあり)カタカナ交じり文であるので、次の<>内に上記の碑文を口語訳をしている。また、口語訳の点線より下段の補注も参照願う。
< 水道記念碑 大村市長 高木隆虎書 水道施設沿革 野田地区は従来より水源に乏しく(補注1)殆(ほとんど)の家に井戸もなく、4キロメートル上の重井田町より重井田井手(用水路)にて導水した赤仁田溜池(あかにたためいけ)用水(補注2)を利用(して水田に使っている) 水田の傍(かたわ)らに出る湧水(わきみず)などに頼っておりました。 (しかし)近年(になり)環境の悪化にともない赤仁田溜池(補注2)の汚染(があった。また)水稲時期には農薬の使用もあり(生活用水に)悪い水が侵入した。かつまた、渇水期には湧水も渇きはて、保健衛生上、好ましくないなどに憂慮(ゆうりょ)した。(そのようなことから)大村市当局に、お願いした結果、本地(野田町)の現況を観察され、佐奈河内(さながわち)水系に水源を求められた(探された)(補注2)ところ、秀水(飲料水に最適な水)に恵まれ、立福寺(町)の上地区と共に給水の運びとなったのであります。 この間、関係各位の御尽力、特、市当局の深き御理解と御配慮により水道施設の完成を地区民一同感謝して、永くその実情を後世に伝えるために、ここに記念碑を建立した。>> ------------------------------ 補注1:「野田地区は従来より水源に乏しく」とあるが、数カ所の泉(湧水)はあったが、その水量では数所帯分位しかなかった。また、農業用水も不足だった。そのようなことも大昔から分かっていたので、例えば江戸時代初期の寛文年代(1661年から1670年頃)深澤儀太夫勝幸(深澤家の二代目)が築堤した赤仁田堤、元倉堤、元倉小堤はじめ野田町には、(圃場整備=基盤整備されるまで)ため池の数が30堤ほどもあった。 補注2:赤仁田堤は福重地区では最大の堤(ため池)である。この堤に溜める水は、重井田町にある佐奈河内川の取水口(井堰)から通称「重井田井手」(用水路)によって供給されている。そして、いったん赤仁田堤に貯水後、野田町を東西に縦断して隣町の今富町近くまで続く長い用水路がある。 補注3: 「佐奈河内水系に水源を求められた」の場所について、最初の簡易水道のボーリング(井戸)の場所は、野田町と立福寺町の境界を流れる佐奈河内川の近くなので、この文章表現となっている。この水源は、現在も立福寺町の上地区の水道に供給されていると思われる。なお、後年、野田町は専用として、町の小高い所=今回紹介の碑文(本タンク)近くで、新たに地下150m位ボーリングして、その水を利用されてきた。 |
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大きさ、緯度経度など
その後、しばらくして市の予算化もでき2022年頃より、野田町へ水道本館工事、2023年度中に各世帯への工事なども終了しました。そして、残るは水道組合で設置していた補助タンクの撤去作業などでした。それらも2024年春には作業終了しました。 |
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