大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など | 山口幸太夫祖母の墓碑 |
概要紹介 | |
・調査の事実経過 | |
・概要 | |
1)墓碑の大きさ、緯度経度などについて |
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2)墓碑の碑文ついて | |
3)大村大村権七郎との関係について | |
後書き | |
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。 |
概要紹介 調査の事実経過:この墓碑について、2016年4月に妙宣寺のご住職から上野へ、先に掲載・紹介中の大村権七郎の墓碑について(文字解読含めた)調査依頼がありました。その後、今回紹介中の山口幸太夫祖母の墓碑と併せ、2基とも4月29日の拓本作業含めて、大きさ、緯度経度などの計測を数日かけておこないました。その後、墓碑に彫ってある文字解読は数か月かかりました。この解読作業時、大村市文化振興課の山下氏からアドバイスして頂きました。
概要
2)墓碑の碑文ついて |
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碑文の活字化と横書き
上記を現代語訳して、まとめてみますと、次の<>内通りと思われます。 < (山口幸太夫祖母の墓碑は) (頭字、戒名が)妙法 得来院妙舩霊尼である。 (この祖母の命日は)天和(てんな、てんわ)4年(西暦1684年)甲子(きのえね、こうし、かっし)2月9日である。 > なお、補足ですが、上記通り、墓碑に祖母の名前(女性名)が彫ってありません。この種の例として、(墓碑ではないですが)「伊勢山大神宮跡の参道石垣碑文」(この碑文は工事の竣工記念碑みたいなもの)の中にも、女性名がなくて、「母」としか彫ってありません。当然、江戸時代でも女性の名前はあったにも関わらず、このような実例通りです。 ここからは私の推測ながら、上記の江戸時代の墓としては立派な墓碑(=祖母)、あるいは先の竣工記念碑みたいな碑文(=「母」)に彫ってある女性ですので、それ相当の経済力含めた実力や実権のあった方々と思っています。しかし、江戸時代のことゆえ、この種の碑文には、女性名が彫っていないのでしょう。 |
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3)大村権七郎との関係について
ここからは、先の二つの墓碑に彫られている両名について、関係のある事項や補足を書き、後日新たに調べが進めばページ内容の改訂もしたいと考えています。なお、私が引用・参照しましたのは、(江戸時代、大村藩作成の)新撰士系録(以降、略称で「士系録」と称す)、九葉実録、大村郷村記です。 <補足や注釈>
上記から単純計算すれば、23年違いです。あくまでも私の推測で普通に考えるならば、この年代差は「親子」関係と思われますが、「夫婦」の場合もあるかもしれません。 後書き |
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