最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク

大村の馬頭観音

菅無田の馬頭観音
菅無田の馬頭観音

菅無田の馬頭観音のデータ

 (1)石仏名称 菅無田の馬頭観音(すがむた の ばとうかんのん)
 (2)所在地 大村市宮代町(萱瀬小学校の東側約90m、矢房神社の入口)
 (3)本体の大きさ 高さ51cm、横幅35cm、胴囲96cm
 (4)土台の大きさ 高さ22cm、横幅43cm、周囲172cm
 (5)制作年代 明治32(1899)年11月19日
 (6)主な特徴  (基本形は)三面六臂
 (7)特徴点の補足 高さは普通ながら、横幅が広い。
 (8)感想、その他 極一部欠けた部分もあるが彫像全体の保存状態は良い。


 土台にある碑文:
(次の太文字)   (正面に)明治三十二年十一月十九日 菅無田郷

・上記の現代語訳:(次の「」内、ご参考程度に)「(馬頭観音)を明治32(1899)年11月19日に菅無田郷で建立した」

左側、石垣上部:菅無田の馬頭観音、奥側:矢房神社と鳥居
菅無田の馬頭観音の土台の碑文(拓本作業中)

<補足説明>
・所在地関係(地名や建立場所など)
  まず、この馬頭観音のある地名=菅無田の呼称について書きます。上記のデータ表には、大村市内で一般に呼ばれている通り、「すがむた」と私は送り仮名を書いています。ただし、市内でも広い範囲で「すげむた」と呼ばれる方もおられます。私の推測ながら地名の呼称にも様々な歴史があり、今回の場合、どちらも昔から呼ばれてきたと思われます。

 また、建立者名の菅無田郷は、色々な郷が一緒になって現在は宮代町です。この馬頭観音のある現在地と字(あざ)「菅無田」は隣の字のようです。そのため菅無田の馬頭観音は、建立年当時から現在地にあったのか、はたまた、どこからか運ばれてきたのか不明と推測されます。

 元々、馬頭観音は、「一般に村や町(集落)の外れで道路脇に建立された」と言われてきました。この例として既に掲載中の「野田平原の馬頭観音」や「南川内の馬頭観音」などが分かりやすく、道路の横にあります。そのようなことから、この菅無田の馬頭観音のように村(郷)の中心というべき矢房神社の境内入口付近にある例は、江戸時代ならば少なかったかもしれません。

 ただし、江戸時代や近代でも、神社や権現の境内にも祀られている例もありますので、「村や町(集落)の外れの道路脇」だけに建立したと一概に言えない状況もあります。この菅無田の馬頭観音建立場所について、何か記録や情報などが見つかれば、追加掲載も考えています。

・土台の碑文
 右側2番目の拓本写真を参照願います。この土台にある碑文について、上記データ通り、明治三十二年十一月十九日 菅無田郷で、その現代語訳は、「(馬頭観音)を明治32(1899)年11月19日に菅無田郷で建立した」と思われます。

 この碑文で注目すべきは、「11月19日」という月日です。大村市内の馬頭観音には、建立年は各々違うのですが、この月日が同じというのが多いです。一例として、同じ萱瀬地区内の「権田の馬頭観音」、竹松地区にある「黒田の馬頭観音」も「11月19日」です。あと、月違いで「19日」だけ同じも、いくつかあります。

 馬頭観音と、この「11月19日」や「19日」と何か関係あるのか、現時点では調べきれませんでした。ただし、数の多さからして、何かの意味はあるのではと、推測はしています。何か分かれば、このページも追加、改訂したいと考えています。

(初回掲載日:2016年9月23日、第二次掲載日:9月25日、第三次掲載日:9月26日 )

仏の里 福重』ページへ CG石仏写真ページへ


最新情報 行事 福重紹介 仏の里 福小 あゆみ 名所旧跡 写真集 各町から 伝統芸能 産業 リンク