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(写真4) 平四郎水神の本体部 |
用語開設
・水神(すいじん)とは、広辞苑を引用すると「水、特に飲用水・灌漑用水などをつかさどる神。また、火災を防護する神」である)
・井堰・堰(いせき、せき)とは、広辞苑を引用すると「水を他に引くため、川水をせきとめた所。井手。せき」である)
概要紹介
平四郎水神(へいしろう すいじん)は、郡川の寿古町側にある平四郎堰(へいしろう せき)の取水口から堤防(道路)や畑を挟んで北北西側に約40m行った所にある。(写真1参照) この水神本体から南側へ倉庫、電気ポンプ、井戸などがある。この平四郎水神は、その名称通り、郡川にある平四郎堰及び、そこから取水された水を耕作地に引くための井手(用水路)を守る水神である。
現在は、(写真3の通り)新しい可動堰(かどうぜき)になっているが、元々は固定式(石垣)であった。なお、上流側にある本庄渕(本城渕)=本城(本庄)堰との距離は、約240mである。また、後でも関連したことを書くが、この本庄渕の由来は、「役所(本庄=本所)前の渕」との意味である。
先の古い堰形式(石垣)の完成年は正確には、不明である。しかし、江戸時代の(大村)郷村記には、「平四郎井手」として記録されている。ここからは上野の推測ながら、この堰と井手(用水路)の完成年代は、速ければ古代で、遅くても中世時代に造られ、同時に初期頃の水神も建立された可能性もあるが現在は不明である。
何故なら、先に述べた通り寿古町のこの周辺の直ぐ上流側の好武には、古代・肥前国の彼杵郡家の役所があったともいわれ、さらにはその後、東福寺の荘園(管理事務所)もあった地域である。そのようなことが可能だったのは、この周辺が穀倉地帯だったからである。つまり、近くにある本庄渕(本城渕)=本城(本庄)堰や平四郎堰などが相当古い時期から存在しないかぎり、コメ(米)ができないので穀倉地帯にならないと思われるからだ。
水神の大きさと緯度経度
このページの(写真1、2、4)を参照願う。表面が黒御影石風の自然石が、平四郎水神の本体部である。そして、その下側が、薄い平たい自然石の土台である。さらに、その下側に石垣がある。それらの大きさと、緯度経度は、下表二つを参照願う。あと、下表の数値は、あくまでも参考程度に、ご覧頂きたい。また、数値未記入欄は、ご容赦願う。
平四郎水神の大きさ
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全体 |
高さ:約1m65cm |
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本体 |
高さ:88cm |
横幅:66cm |
奥行: |
胴囲:1m56cm |
土台1(自然石) |
高さ:11cm |
横幅:1m12cm |
奥行き:60cm |
周囲: |
土台2(石垣) |
高さ:65cm |
横幅:1m5cm |
奥行1m |
周囲3m93cm |
平四郎水神の緯度経度(GPS実測値)
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名称:平四郎水神 |
場所:寿古町、平四郎堰の取水口から北北西に約40mの所 |
GPS実測値:北緯32度57分46.16秒 東経129度56分14.81秒 |
国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用 |
グーグルアース用数値:32°57'46.16"N,129°56'14.81"E |
標高:地図上の標高は2.7m |
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(写真4) 平四郎水神の表面 |
(写真5) 平四郎水神の裏面 |
水神の碑文
この平四郎水神の表面(写真4参照)と、裏面(写真5参照)には、下記の太文字の碑文が彫ってある。実物は、縦書きだが、下記はホームページ用に横書きに直している。
<表面> 平四郎水神
<裏面> 昭和六十年二月
総反別 十三町
受益者
前田組合長
外 三十七名
口語訳訳
上記は分かりやすい碑文だが、あえて口語訳すると次の「」内の青文字通りと思われる。なお、< >や( )内は、さらに分かりやすいように、上野が補足した。
「平四郎水神 昭和60(1985)年2月に建立した。 <平四郎堰や平四郎井手(用水路)から水が供給されている>総耕作地(田畑)の面積は、13町(約13万平方メートル)である。 その受益者は(平四郎井手組合の)前田組合長(はじめ)、外(ほか)37名である」
まとめ
関係ページ:「平四郎堰(げいしろう せき)(平四郎井手)
(初回掲載日:2021年6月11日、第2次掲載日:9月14日、第3次掲載日:9月25日、第4次掲載日:月6日、第5次掲載日:9月27日)
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