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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など
久保勘一先生の銅像
 久保勘一氏の人物紹介 掲載中
 概要紹介 掲載中
 1)碑文内容について 掲載中
 2)大きさ、緯度経度など
掲載中
   緯度経度など
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 3)久保勘一氏と長崎空港建設
掲載中
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 まとめ
準備中
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
(写真1) 中央部:久保勘一先生の銅像 (大村市森園町、森園公園の北側、通称「空港入口」近くにある)
本碑の右横側で2本のソテツ間にあるのは、「長崎空港顕彰碑」である。
 注1:この碑の正式名称は、「久保勘一先生」である。普通、書籍やホームページ類で記念像などを紹介する場合、「銅像」とか「記念像」などを付ける方が分かりやすいので、上野も補足して書いている。

 注2:この銅像の正面向かって右横(空港側=西側)に、長崎空港顕彰碑がある。この碑と、今回の銅像と関係あるが、別ページに掲載予定である。

 
概要紹介
 この久保勘一先生の銅像のある場所は、大村市森園町、森園公園の北端部(通称「長崎空港の入口周辺」)にある。本像の制作者は、日本を代表する美術家、彫刻家の一人で長崎平和記念像で有名な北村西望氏である。

 本像は、久保勘一 氏の生前の人柄も含めて柔和で優しい姿が、そのまま表現されている胸像といえる。さすが、北村西望 氏の作品だなあと感心するような雰囲気が、直に伝わってもくる。

 銅像本体部の大きさは、高さ57cm、横幅54cm、胸部の周囲:約1m50cm、底部の厚さ(奥行):33cmで、土台部含めた全体高は約2m5cmである。

 なお、久保勘一氏の略歴は、土台の裏面碑文を参照し省略して書くと、次の< >内などである。 <1910(明治43)年長崎県三井楽町生まれ。長崎師範学校本科に学び、1950(昭和25)年に長崎県議会議員に当選、その後、参議院議員、農林政務次官、参院文教委員長、長崎県知事として30年以上、県政国政に尽力、さらに1975(昭和50)年5月開港の長崎空港建設に貢献された> (詳細は、下記からの各項目を参照)
久保勘一氏の人物紹介
 まず、次のページ内容が、分かりやすので紹介します。それは、「わたしたちの五島市」の「郷土出身の偉人たち、久保勘一」ページには、同氏の銅像写真とともに、次の<>内文章(青文字)が掲載されています。(なお、下記の「明治43年」は、西暦1910年、「昭和25年」は1950年、「昭和45年」は1970年、「昭和55年」は1980年である)

 
(写真2) 久保勘一先生の銅像
  明治43年9月25日、三井楽村浜ノ畔ごう(はまのくりごう)に生まれました。

 昭和25年県会議員せんきょで当選し、県議会議長もつとめました。その後、参議院議員せんきょに当選し、国会議員になりました。昭和45年参議院議員をやめ、長崎県知事に立候補(りっこうほ)、当選しました。12年の長い間、県の政治をとりしきり、世界初の海上空港(長崎空港)や平戸大橋のかんせい、り島道路・空路の整び、石油びちくなどに力をつくしました。

 旧三井楽町は、昭和55年町制40周年を記念して彼に「名誉(めいよ)町民賞」をおくり、その像をたてています。 


 上記内容とは、別に同氏の長崎県知事時代、長崎空港建設工事に関して大変尽力され、大きな功績があった方です。ですから、大村市内で空港入り口とも言われている森園公園の所にも、久保勘一氏銅像も建立されているのです。 (注:この「久保勘一氏と長崎空港建設」については、後の項目に詳細に紹介)

1)碑文内容について
 本像の下部の表面と、裏面にある碑文や写真は、下記の通りです。なお、表面・裏面の碑文は、上野が書き写して画像化しています。そのため、転記ミスなどもあるかもしれませんので、あくまでも参考程度に閲覧願います。念のため、もしも、引用、参照されるならば、必ず実物の碑文から、お願いします。

<表面(正面)の碑文>
表面碑文の活字化 表面(正面)の碑文写真 
 
(画像A) (写真3) 
 まずは、右側の実物の写真や、活字化の画像を参照願います。なお、揮毫(きごう)された氏名は、小さくて、しかもくずし文字であるため、上野の推測も含めて見たところ、活字画像のように見えています。

 なお、この本像を彫刻・制作された「白寿西望」のお名前は、長崎原爆の平和記念像を制作され全国でも有名な彫刻家・北村西望氏の号と思われます。
注:北村西望氏の人物紹介
北村西望(きたむら せいぼう)=[1884〜1987]彫刻家。長崎の生まれ。文展、帝展で活躍。男性裸像にすぐれ、長崎市原爆中心地の「平和祈念像」で有名。文化勲章受章。(デジタル大辞泉の解説より)


<裏面の碑文>
 裏面の碑文は、(写真4)でもお分かりの通り、黒御影石の加工石に草書体(縦文字)で彫られています。それを転記し活字化したのが、(画像B)です。
 (注:建立または揮毫(きごう)年の「昭和57」は西暦1982年)

 ここからは、上野の想像です。もう、この建立当時は、碑文を機械で彫る技術もあったかもしれません。しかし、この裏面碑文は、もしかしたら石工さんの手彫りではないかと見ています。

裏面碑文の活字化 裏面の碑文写真 
(画像B) (写真4) 
 何故かといいますと、それらを裏付けるのに草書体自体も可能性あるのですが、それ以上に機械彫りならば、一行の文字数揃えや句読点の関係などが、もっと出来たと推測できるからです。

 逆に言えば、揮毫
(きごう)された北村西望先生の直筆を忠実に、石工さんの技量にて彫られたと思えます。また、文章内容も記念碑の碑文という何かと制限の多い中で、久保勘一氏の功績を良くまとめておられるとの感想も持ちました。

 なお、この碑文
(活字化の画像含め)内容には、難解を極めるような漢字はないようです。そのようなことから今回、口語訳などは、していません。その点は、ご了承願います。

2)大きさ、緯度経度など
  
<(写真1〜4)を参照>この写真に久保勘一先生の銅像(碑文石もあり)は、当然、最上部の銅像(本体部)が主です。ただし、下部の黒色の台座その1、白色の台座その2、あるいは下部の土台部も、その造り含めて、なかなか立派なものです、

 そのため、他の例より、下表は一部において違う表記もしています。大きさや緯度経度は、下表2つを参考願います。数値未記入欄は、ご容赦願います。

久保勘一先生の銅像の大きさ

 全体  高さ:約2m5cm  -  -  -
 銅像(本体部)  高さ:57cm  横幅:54cm  胸部の周囲 約1m50cm 底部の厚さ(奥行)33cm
 台座その1  高さ:33cm  上部横幅:44cm  下部横幅:50.5cm 下部の周囲:約2m
 台座その2  高さ:8cm  横幅65cm  奥行き58cm. 周囲 約2m46cm
 土台  高さ:1m8cm  横幅:78cm  奥行き70cm
周囲約2m96cm

表面の碑文プレート:高さ35cm、横幅10.5cm、厚さ約5mm
裏面の碑文プレート:高さ63cm.、横幅51cm。厚さ1cm弱

久保勘一先生の像の緯度経度(GPS実測値)
 名称:久保勘一先生の銅像  場所森園町、森園公園の北側 (通称「空港入り」近く))
 GPS実測値:北緯32度55分15.56秒 東経129度56分17.81秒
 (国土地理院)地図検索用 国土地理院の地図
 グーグルアース用数値:32°55'15.56"N,129°56'17.81"E  標高:m
 
(写真5) 久保勘一先生の銅像
3)久保勘一氏と長崎空港建設
 久保勘一氏の解説や紹介の書籍あるいはホームページ類に、長崎空港建設の事柄が書いてある例が多いです。また、これほどの大型公共工事ならば、地元(当時の土地所有者などの関係者)から、それなりの年月を経ても、行政側に対して批判、不満や禍根などが、大小の別なく残っているのが多くあります。しかし、上野調べの範囲内ながら、旧・箕島(みしま)の在住者(島民)の方々には、そのようなことは無いに等しいです。

 長崎空港建設を始めるならば、箕島の島民は、その宅地、農地を提供するだけでなく、農家ですから農業ができなくなる、つまり一家の収入さえ失う(生活不安)状況だったのです。そのような箕島を離れて、大村市などの本土側に移住したとしても、次の農業や他の職業に無事付けるかも不安だったことが、容易に推測できます。

 あと、農業をしている人ならば、精神的な思い(心情)もあったことでしょう。それは、先祖伝来の土地(宅地、農地)を手放すということは、分かりやすい言葉に変えれば「ご先祖様に申し訳ない」という気持ちもあったと想像できます。この心情は、何百年(あるいは数千) 前から先祖が、少しずつでも田畑を広げて、風水害にも耐えて、家族や子孫のために守り通してきた土地は、石のような無機質ではなく、長年の心もこもったものとの解釈もできるのです。

 ですから、空港建設予定地が箕島に決まって、当初の間、島民と長崎県(主に役人)が交渉しても遅々として進まなかったと伝わっています。つまり、役人独特な杓子定規のようなやり方や、接し方では、島民の心は開いて頂けるような状況ではなかったと想像されます。

島民と親身になって話された久保知事
 このままでは、他の九州各県のジェット機対応の空港の建設が進んでいる状況で、長崎県は遅れていて、その建設の目処も立たないと久保知事は、判断されたのでしょう。そして、異例ともいえる県知事自ら箕島に行かれ、何回となく島民と親身になって話されたと伝わっています。

 このようなことをされた久保氏は、どのような方だったのでしょうか? 同氏は、略歴を見ると、五島の三井楽生まれで、師範学校(現在の教育学部みたいな大学)卒業、農協組合長、参議院議員などをされたことが分かります。そして、知事に初当選された時、自民党の公認候補に圧倒的な差で当選されたことでも分かる通り、人気もあったと推測されます。

 
(写真6) 久保勘一先生の銅像
 私は、同氏の経歴それ以上に、「クボカン」との愛称で呼ばれていたように多くの人から親しみやすい人柄の方だったのではと想像しています。また、農協組合長もされていたので、先に書いた農家の心情も充分わかっておられたのでしょう。

 もっと分かりやすい言葉で表現するなら、イソップ童話の「北風と太陽」の例え通り、当時の久保知事は「北風」より「太陽」のような気持ち箕島島民に接しておられたのではないかと思えます。そのような対応は、形だけでなく、具体的に例えば土地の買収価格、あるいは大村市などの本土側での代替え地の斡旋(あっせん)専任の指導員(相談員)を付けて、移住しても旧島民が不安がないように対応されたとも聞いています。

 もしも、これが逆に、行政の立場のみで、「必要な大型公共工事だから」「条例では・・・」「裁判結果の判例では・・」「土地の強制代執行をするぞ」など、まるで「北風」みたいな行政側のやり方では、土地所有者や地域住民の心は、開かなかったとも想像されます。

 以上のような当時の久保知事のように住民の立場も考え、親身なって接するやり方や経過は、現在にも様々なことを教えているように思えます。

補足
 
 (この原稿は、現在、準備中。しばらく、お待ちください)


・関係ページ:箕島大橋の竣工記念碑」 「箕島(みしま)」 「がろう島」、「そうけ島」、「赤島天正遣欧少年使節顕彰之像」 

    、 
(初回掲
載日:2024年4月8日、第二次掲載日:5月2日、第三次掲載日:5月7日、第四次掲載日:6月7日、第五次掲載日:6月9日、第六次掲載日:6月14日、第七次掲載日: 月 日)

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