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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 富の原開墾記念碑
 概要紹介
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 大きさ 掲載中
 碑文内容 掲載中
 まとめ -
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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(写真1) 富の原開墾記念碑(正面) (写真2)<合成> 左側:右側面と裏面、右側:左側面

概要紹介
 名称:富の原開墾記念碑(とみのはら かいこん きねんひ)
 建立年:1951(昭和26)年12月
 建立者:竹松農耕組合(組合長 原口 富一含め合計20名の氏名あり)
 所在地:大村市 富の原2丁目公民館前の敷地
 本体のみの大きさ:高さ126cm、横幅61cm、奥行34cm、胴囲183cm
  注:このページ内容は、「むかしの竹松」
(1997年12月20日、編者:竹松を語る会)を参照及び補足して書いているので、引用にされる方は必ず原本から願う。
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画像A:中央部の大きい紫色の敷地が主に草地の飛行場=大村海軍航空隊のあった所。
<この地図は「放虎原は語る」(1999年3月31日発行)の付録地図を、上野がトリミングや一部彩色加工した>

 この富の原は、元々、旧・竹松村の主に農業地帯で当然、農家や農地(耕作地)などもあった。ところが、旧・今津郷や旧・大川田郷などの地に、1922(大正11)年、大村海軍航空隊が開隊された。当初の広さは、主に芝生(草地)の飛行場1100m×1200mだった。その後、1938(昭和13)年に旧・今津郷や旧・黒丸郷の一部も含めて拡張され、1600m×1400mの広さとなった。

 あと、先の戦争中は、この大村海軍航空隊
(飛行機と飛行場など)の破壊を目的にアメリカ軍機から何回となく空襲があった。そして、終戦となり、今度はアメリカ軍により占領された。1946(昭和21)年秋に、土地の返還を求めて元の土地所有者など地元の農民は、竹松農耕組合(組合長:原口 富一 氏)を組織した。

 その後、アメリカ占領軍と何回なく請願や折衝を繰り返した。様々な経過がありながらも、1947(昭和22)年5月、ついに返還許可の通知を得た。返還面積は、175町歩4反(174ヘクタール)であった。それから、土地の配分や飛行場から農地への開墾作業などの苦労も続いた。その結果、肥沃な農地に生まれ変わった。

 この開墾地の名称は、土地返還交渉や払い下げに絶大な尽力を果たされた原口 富一 氏の功績を永久に讃えるため、同氏の「富」の一文字をとって「富の原」となった。現在では、農地だけでなく大村有数の住宅地や工場地域などになっている。

記念碑の大きさや緯度経度など
 このページの(写真1、2)を参照願います。白色の御影石風の角石柱が、富の原開墾記念碑本体部です。そして、その下側が、台座です。さらに、その下側が土台が二段(二層)になっています。それらの大きさと、緯度経度は、下表二つを参照願います。あと、下表の数値は、あくまでも参考程度に、ご覧願います。また、数値未記入欄は、ご容赦願います。

 なお、大村市内には、例えば建物、道路、橋、公共工事などの竣工記念碑は、沢山あります。造りは似ているのもあれば、他の記念碑類と特徴あるものもあります。今回の富の原開墾記念碑は、この当時(1951年)の建立されたもの
(上質の石材など)として、あるいは農地開墾記念碑としては、なかなか立派なものです。
富の原開墾記念碑の大きさ
 全体  高さ:2m16cm  -  -  -
 本体(加工石)  高さ:1m26cm  横幅:61cm  奥行:34cm  胴囲:1m83cm
 台座(加工石)  高さ:35cm  横幅:98cm  奥行き:60cm  周囲:3m14cm
 土台その1  高さ:21cm  横幅:1m55cm  奥行き:1m20cm  周囲:5m40cm
 土台その2  高さ:34cm  横幅:1m55cm  奥行き:1m25cm  周囲:5m40cm

富の原開墾記念碑の緯度経度(GPS実測値)
 名称:富の原開墾記念碑  場所富の原2丁目公民館前の敷地
 GPS実測値:北緯32度56分45.97秒 東経129度56分19.59秒
 (国土地理院)地図検索用 
 グーグルアース用数値:32°56'45.97"N,129°56'19.59"E  標高:GPS高度計は13m、気圧高度計は未計測、地図上の標高はm

碑文内容
 この記念碑の碑文ついて、ほぼ毎回のように実施している拓本作業などをしなくても、目視だけで表面・側面・裏面に彫られた文字は、いずれも良く見えています。ただし、長文の碑文がある裏面は、(写真1)でもお分かりの通り、金網の柵があるため、この網越しに見ざるを得ないです。あと、縦書きの内容をホームページ用に横書きにしてみました。しかし、横書きは今回の場合、見づらいものでした。

 そのため、碑文全文が、冒頭のでも紹介しています「むかしの竹松」(1997年12月20日、編者:竹松を語る会)の188~189ページに転記されています。そのため、今回は、先のページにある文章を下記二つの画像に変えて表示しています。なお、念のため、ほんの一部、碑文と先の「むかしの竹松」の文章とは違う箇所もあるかもしれません。そのため、もしも、何かに引用参照されr場合は、必ず富の原開墾記念碑本体から願います。

下記の画像は左・右側面の碑文(内容)がまとめてある 下記の画像は正面と裏面の碑文(内容)がまとめてある

碑文内容の口語訳(意訳や補足含む)
 上記項目の碑文(原文)は、縦書きで、数文節を除き、ほぼ全部が続き分で改行や句読点も、ほとんどありません。また、石材に彫ってある碑文のためカタカナも多いです。(この当時、石碑店は機械彫りではなく、まだ手彫り=手作業だったことも反映か?) これらのことから戦後間もない頃、つまり比較的新しい時代の文章ながら現在では、なかなか分かりづらい内容です。

 (中央やや右側が)大村海軍航空隊 1994年の航空写真
<上記写真は「軍都」大村の歩みと市民の6~7ページの写真をトリミングしたもの>

 そのようなことから、毎回このシリーズで紹介しています碑文の直接現代語訳(口語訳)ではなく、碑文の趣旨は変えずに、できるだけ分かりやすくするため、一部に意訳、補足、句読点や改行も含めて下記に青文字で書いていきます。念のため、素人の口語訳のため参考程度にご覧になり、もしも、引用される方は、必ず記念碑の碑文から直接お願いします。

開墾記念 富の原
 昭和20年(1945)8月、第二次世界大戦終了直後、連合軍
(アメリカ軍)は、当地(大村海軍航空隊跡地、竹松地区)に進駐してきたので民心は安定した。

 しかし、食料の逼迫(不足)が大きかった。よって、食料増産の意図(目的)から翌年(1946年)の初秋、原口富一氏は、占領軍のスターンズ大尉に飛行場(元の大村海軍航空隊の敷地)の返還を懇請(要望)した。(その結果、大尉から回答があり)快く
(こころよく)承諾(許可)を得た。

 その手続き上、原口、瀬戸口、宮本、松本の5人が竹松農耕組合を組織した。(そして)同大尉経由で占領軍最高司令官宛に(元の大村海軍航空隊敷地の)土地返還の願い書を提出した。(その結果)10月に許可となった。そのことによって、直ちに実行組合長を委員として組合を拡大して開墾の準備中、(先の)許可の取り消しに遭ってしまった。

 しかし、(大村)市の総務課長の田添廣次氏の示唆
(アドバイス)により、委員の(署名活動の)努力の結晶としての1万人(筆)署名請願と、杉山(長崎県)知事、松本(大村)市長などに絶大なる尽力をして頂いた。そのような効果があったため、翌年(1947)5月に(土地)返還の決定を見たのであった。

 (松本氏の提供写真)1955(昭和30)年頃の富の原開墾地 (ほぼ全部が当時は畑だった)
<中央部に11名と車が7台が写っている。最後方は郡岳経ヶ岳の山並>
(同写真が「むかしの竹松」や「新編大村市史第五巻の口絵にも掲載されている)

 (元の大村海軍航空隊敷地の)土地配分は吉川•竹松出張所長、堀池•農業会長、田添氏などの斡旋に基づき、旧土地関係者(所有者、地主)6割、海外からの引き揚げ者2割、一般2割と決定した。 (そして、開墾用の)トラクター2台で7月から開墾を開始し、11月に完了した。

 なお、組合側および田中•出張所長などの意図(目的、計画)のもと、竹松農地委員会に委嘱し、返還面積175町4反の内、農道を残し、168町6反の個人配分をおこなった。 しばらくして、農民各自の涙ぐましい努力により、秋の種蒔きが可能となった。(昭和)24年(1949年)8月に(全部の返還土地)売り渡しの完了となった。

 天皇陛下が西九州の御巡幸(視察旅行)の時に(昭和)24年(1949年)5月25日、親しく御視察の光栄を浴びた。

 熾烈なる(激しい)空襲後の広い野原は、今や豊かな農地に変わり、母国の食糧増産に貢献するところは大きくなった。ああ、平和の涼風が、ゆるやかに吹き(未来)永劫にたたかう。

 ここに(富の原)開墾記念碑を建立して碑文とする。

組合長 原口 富一
トラクター担当者 末岡 滝十
委員 今里 定、土本 嘉次郎、松下 喜作、入口 正重、田川 善吉、篭田 秀一、原口忠太郎、津田 一郎、宮本 久作、八反田広治、久保勝真、満居徳見、大杉弥左門、山口 牛男、島原閃太郎、渡辺 伝作、 松本国太郎、瀬戸口大作
昭和26年(1951年)12月 建立
矢次 熊雄 書


補足や評価などについて
 開墾地であった元・大村海軍航空隊の敷地は、上記項目通り全体で約175町歩=約53万坪=約174万平方メートルです。また、芝生(草地)の飛行場は、「1600m×1400m」あったといわれています。私は、まず、このような広い面積を平和的な交渉によって、返還できたのは大きな意義があると思いました。

 富の原開墾記念碑)

 この土地返還の中心的な役割を果たされたのが、竹松農地組合長の原口 富一(旧・原口郷に在住)で、「むかしの竹松」184ページに、同氏は「アメリカのスタンフォード大学で学び」、つまり、(戦前の大村では珍しく)留学されていたと書いてあります。ここからは、上野の推測ですが、この留学時に学ばれた英語を活かして、占領軍のスターンズ大尉と直接、交渉されたのでしょう。

 当時、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、日本の民主化のため、例えば農地改革(農地開放)、婦人参政権の承認、軍国主義教育の廃止、財閥解体など、次々と実施していました。(ご参考までに、GHQの政策の中には大村に関係して、「戦時中に強制合併した市は旧町村住民の意思により、元に戻って良い」というのもあった。詳細は「福重(松原)再分村運動の概略史」ページを参照)

 GHQといえども人がすることですから、何事も良い政策もあれば、そうでもないこともあったでしょう。しかし、先の碑文内容の口語訳でスターンズ大尉の土地返還について、「(その結果、大尉から回答があり)快く
(こころよく)承諾(許可)を得た。」という内容は、注目に値すると思われます。日本では、国(軍)の強制買い上げか、適正料金での売買契約かは別にしても、一旦手放した土地を取り戻す(返還)させることは、当時も今も、難しい問題といえます。

 しかし、戦前、事実上、軍に強制的に取り上げられた大村海軍航空隊の敷地ゆえに、原口 富一氏が、それまでの歴史はじめ筋と道理を通されたからこそ、スターンズ大尉は、「快く(こころよく)承諾(許可)」されたのではないでしょうか。この回答を得るまで、当時の長崎県知事や大村市長の動きは、碑文にありません。

 しかし、その後、先の口語訳で「開墾の準備中、(先の)許可の取り消しに遭ってしまった」の内容もあります。そして、この取り消しに対しては、知事も市長も竹松農地組合のために「絶大なる尽力」をしておられます。なぜ、一旦は許可した返還が「取り消し」になったのでしょうか? 私は、この点が疑問で、地元の方々へ聞いたのですが、(2020年現在)「分からない。当時のことを知る人は、いない」との返事ばかりでした。

 私は、この土地返還について、占領軍の大尉が許可したのを、その後、一旦「取り消し」をしたのは、占領軍側の事情というより、日本側(政府)の国内事情からではないだろうか?」とも推測しました。だからこそ、この時は、知事も市長も全面的に動かれたのではないでしょうか。しかし、これ以上は、さらに想像の繰り返しになるので書かないことにします。

 いずれにしても、戦後の混乱期に一から立ち上がり、様々な交渉を経て、土地返還に成功し、さらには開墾して肥沃な農地に変え食糧増産に寄与された竹松農地組合などのご努力は、大村の歴史上からも特筆、称賛すべきことと思われます。

まとめ
 


   (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)




関係ページ:
(大村の偉人・有名人・活躍人シリーズ)原口 富一」 、(大村空襲・戦争遺跡・遺構など)大村海軍航空隊 、(大村空襲・戦争遺跡・遺構など)第三五二海軍航空隊(三五二空、草薙部隊)

(初回掲
載日:2020年6月12日、第2次掲載日:2021年1月16日、第3次掲載日:1月19日、第4次掲載日:1月23日、第5次掲載日:1月27日、第6次掲載日:2月1日、第7次掲載日:2月6日)
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