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福重郷土史同好会
2013年の活動報告(3)

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立福寺町老人会・郷土史講演会(概要)
日時:2013年4月5日10時00分〜11 時 05
場所:大村市立福寺町、立福寺公民館
参加: 32名  講師:上野が担当
<主な内容>
 今回はじめてということもあり、立福寺の名所旧跡などを中心にお話したい。まず、一般に立福寺町のことで知られていることを述べたい。それは、次の(1)シャクナゲ公園、(2)立福寺の龍踊、(3)龍福寺跡、(4)立福寺の馬頭観音の石仏など、(5)ハウス栽培、さらには三日月堤や佐奈河内川などであろう。

1)立福寺町の名所旧跡や有名事項

 本題の郷土史の説明時に詳細は話すが、その前にまとめ的に、ここに掲示しているA3サイズ写真を中心に立福寺町の名所旧跡などを紹介する。ただし、これらは、あくまでも一例、概要である。
 (1)シャクナゲ公園について、1988年から1989年におこなわれた「ふるさと創生事業」で松原地区・福重地区は共同で「裏見の滝自然花苑(シャクナゲ公園)」として整備されたもの。世界のシャクナゲが約5600本あり、現在も増えている。しゃくなげ祭り期間中だけでも、1万〜1万5千人もの来場者がある。

 (2)立福寺の龍踊について
、地名の龍福寺(立福寺)にちなんで始まったと言う。正確な起源は不明だが、ドラに安政6年=1865年という年号が入っている。その写真もあるのでスライドで詳細説明を後でしたい。

 (3)龍福寺跡について
、詳細は、後の項目で話すが、平安時代に創建され、戦国時代にキリシタンから焼き討ち破壊されるまで存在した寺院である。地名の立福寺(龍福寺)の由緒となった寺院である。

 (4)立福寺の馬頭観音の石仏などについて六社権現境内には、薬師如来、地蔵、馬頭観音などの石仏がある。この中で、馬頭観音は形もスマートでユーモラスなので、他の二体の石仏と併せスライドでも詳細に説明したい。

 (5)ハウス栽培について
、県下有数の規模だと思っている。私も子どもの頃から見ていたので、かなり歴史あるハウス栽培だといえる。

 あと、立福寺町は見晴らしも良い所が多いが、中でも三日月堤などの周辺風景は黄金色に稲穂が実る頃は素晴らしく、隠れた撮影スポットでもある。

2)大村原人は高地、丘陵地帯に最初住んで家族単位で移動していた

 野岳遺跡(1万3千前の旧石器時代)でも分かる通り、大村の原人は高地=丘陵地帯(250m〜300m)に住んで東西南北(東は大多武〜西は大野原周辺)を移動して木の実、植物、イノシシなどを食べていた。たぶんに野岳、立福寺、重井田、野田付近も移動していたであろう。そして、稲作が始まると、耕作しやすい平地(例えば岩名遺跡、黒丸・沖田の遺跡、富の原遺跡など)で住むようになった。その後、人口増などから丘陵地帯でも開墾が進み、現在に続く農業や生活になっていったと思う。

3)龍福寺の創建とキリシタンによる焼き討ち

 1,大村には奈良時代もしくは平安時代に仏教が伝播し、古い寺院が創建された。
 2,龍福寺は平安時代に創建されたのではないか。 平安時代の久寿(きゅうじゅ)2年(1155)に登場している古記録がある。寺領石高は33石だった。
 3,創建後、2度(1366年と1574年)にわたって焼き討ちに遭った。最初の焼き討ち後に再建されたが、大村純忠時代の天正2(1574) 年、キリシタンによる焼き討ち後は二度と再建されなかった。
 4,龍福寺跡の遺物 「五輪塔」の一部、「當寺中興」と彫られた石塔

4)立福寺の六社権現について
 (寿古町の増元さん作成:立福寺の六社権現資料によれば)元々、六社権現はない。龍福寺を守るために「七社権現」が祀られていた。七社権現は比叡山の仏を守る鎮守神である。しかし、龍福寺に関する1459年(室町時代)の古文書には「地蔵並びに六所権現」と書いてある。

 七社権現とは、1,小比叡(薬師) 2,三宮(普賢) 3,大宮(釈迦) 4,八王子(千手) 5,聖真子(阿弥陀) 6,客人権現(十一面)と7,「禅師(地蔵)」の七つを言う。その七つの内「禅師(地蔵)が独立して祀られるようになったため、残りの六つが「社(所)権現」と呼ばれるようになったのではないだろうか。

5)立福寺の龍踊について
 由緒:龍福寺があったことで地名も龍福寺郷(現在:立福寺町)となった。その地名により、立福寺の龍踊が発祥したとの伝承がある。起源は正確には不明だが、(2013年現在で)約154年以前と推定。現存している銅鑼(ドラ)の刻銘には『安政六年七月吉日 今留村龍福寺』と彫られている。(注:安政6年=1859年)

6)江戸時代の大村藩領絵図に見る立福寺郷について
  絵図に描かれている当時の立福寺郷と現在対比で見ると、いくつかの特徴点がある。それは主に次の通りだ。 ・山(林)もあった。 ・開墾が進んでいる。 ・六社権現と若宮権現が別々にあった。この当時、この周辺が立福寺郷の中心部だったのかもしれない。 ・佐奈河内川や道路は当時も現在も、ほとんど変わっていない。

7)立福寺の馬頭観音などの石仏について

 (1)馬頭観音  建立年:明治17 (1884) 年11月19日 建立者:当時の立福寺郷民であろう。
 馬頭観音の本来の意味:辞典をもとに、さらに解釈すると、「馬頭観音の本来の意味は、村(町)や集落で病気や災い(わざわい)があった場合、馬に乗った格好で一番スピード速く助けに来て下さる神様」と思われる。単に、「馬の守り神様」だけでなく、全国では農耕・交通安全・子どもの守り神様などとして祀られている場合もある。

 (2)薬師如来  建立年:正徳四甲午年五月八日(注:1714年)  施主:一瀬彦左衛門妹妙相
 (3)地蔵 (建立年、建立者などは不明のようだが、詳細調査は未実施だ)

8)立福寺の古写真について

 これからのスライド4枚写真は、1944(昭和16)年11月頃、福重村発行『銃後の郷土』(写真集)からである。「軍人家族(集合写真)」、「男女青年団(集合写真)」、「国防婦人会(集合写真)」、「男女勤労奉仕(稲掛け作業)」が、当時の立福寺郷で撮られている。そして、この小さなアルバムは、戦地の兵隊さんへの慰問袋に入れて送られたと聞いてる。

9)立福寺のハウス栽培について
  (冒頭のA3サイズ写真説明項目を参照)

10)三日月堤について
  この堤は江戸時代の(大村)郷村記に、その大きさなどが記述されている。三日月堤は堤自体もいいが、その形の影響から周囲の田んぼが半円形になっている特徴がある。そして、稲穂が黄金色に実る時季、堤の水の色、そばの白い花、山林の緑色、空の青と色彩がマッチしていて素晴らしい風景となる。市道からの撮影は、抜群にいいと思っている。

11)シャクナゲ公園について
 (冒頭のA3サイズ写真説明項目か、裏見の滝自然花苑(シャクナゲ公園)を参照)

(以上)


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