はじめに
・軍事施設が多かった大村市内で、空襲も多かった
長崎県大村市は、先の大戦時、第二十一海軍航空廠(航空機製造工場、以降「21航空廠」と称す)、大村海軍航空隊、福重飛行場、第三五二海軍航空隊(迎撃戦闘機部隊で通称「草薙部隊」)、高射砲陣地(砲台・機銃台)など、多くの軍事施設がありました。それは、逆にアメリカ軍の攻撃目標でした。そのため、多くの犠牲者や罹災者が出た空襲も何十回となくありました。このような状況がありながら、これまで大村市が作成され、誰にでも直ぐに分かりやすい大村市ホームページやパンフレット類には、軍需工場の「21航空廠」だけの内容掲載です。
・軍需工場以外の犠牲者や罹災状況を広報しない大村市
しかし、「21航空廠」以外でも(市統計によると)空襲で59名の方が犠牲になられ、634世帯(約2900人)が罹災されています。<注:他の書籍類や聞き取り調査をすると、実際の犠牲者数は、例えば軍人や日本人以外の人などを含めれば、もっと多いようです。あと、罹災(火災・損壊)世帯数は、どの資料でも数十戸程度の差がありますが、それは集計の年代差から来ていると思われます>
戦後75年以上経ても、このような事実を大村市は、ほぼ全く広報されてなかったのです。私は、上記のような犠牲になられても、なお大村市による差別的な扱いではなく、できる範囲内で公平を期して調査できた順から掲載していきたいと考えています。
・大村市による「21航空廠(航空機製造工場)」の大間違い記述
長崎県大村市による設置・作成による、例えば、史跡説明板、市ホームページ類、書籍・パンフレットに書いてある第21航空廠'(航空機製造工場)についての内容で、大きな間違い記述があります。この間違い記述は、5年程前からアメリカ公文書館に眠っていた日米(日本語・英語の記録)の一次資料をもとに、5年前から正しく改訂すべき事項でした。
注意:この中間原稿は、いずれ大幅に追加していく予定。
このような事実を大村市は、ほぼ全く広報されてなかったのです。ですから、当然、長崎県内のマスコミも、そのような報道は、今までされていないのです。
私は、上記のような犠牲になられても、なお大村市による差別的な扱いではなく、できる範囲内で公平を期して調査できた順から掲載していきたいと考えています。これらの詳細は、もくじページのリンク先に掲載していきます。ただし、どの空襲も戦争遺跡や遺物も広範囲で、しかも数が多いため、調べながらの掲載となりますので、気が遠くなるほど日時を要することでしょう。
また、それらの事柄・場所・数値なども、その都度改訂していきますので、決して固定的に考えないように願います。 以上のことから、どうか、気長にお待ち下さるようにお願いします。(一部、他のページ掲載中の項目は、リンク先から閲覧願います) 注:町名(地名)は、現在の町名に変えている。
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<古写真や資料提供のお願い>
また、全て上野の一人作業のため、戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) <念のため、下記枠線内の色分けは見やすくしているだけで何の意味もありません> (初回掲載日:2020年8月14日、)