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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 延命寺跡
注意:既に掲載中の(紫雲山)延命寺(詳細)ページは、以前の「立札」風説明板だったが、主な内容は同じである。
(史跡案内門柱・説明板)延命寺跡
 名称:延命寺跡  様式:説明板
 場所:大村市松原3丁目(十二社権現のある所)  設置者:松原宿活性化協議会
 設置年::2021年3月31日  GPS実測値:32度58分33.74秒 129度57分22.40秒
 全体の大きさ:高さ170cm、横幅70cm  国土地理院の地図 (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm  グーグルアース用数値:32°58'33.74"N,129°57'22.40"E
(写真1) 中央部の白板が延命寺跡史跡説明板 左奥側は十二社権現である。

史跡説明板写真周辺の説明
 (写真1)の中央部と、(写真2)の右側(東側)の白板が、松原宿活性化協議会設置の延命寺跡の史跡説明板です。この説明板の左奥側には、十二社権現があり、地元の方々が祀っておられます。さらに、十二社権現の敷地内右側(東側)には使われていない鳥居や五輪塔などがあります。

(写真2) 中央部は十二社権現、右側は延命寺跡の史跡説明板
 あと、この場所から南東側方向へ数十メートル登りますと小高い丘があります。その周辺には、墓碑や石塔、その他がいくつかある所があります。この場所について、江戸時代の(大村)郷村記内容が正しければ現代語訳で次の<>内が書いてあります。

 <この敷地(墓地)内は一般の人の墓地とも思えない。おそらくは(大村)純治の墓地かもしれない> つまり、この<>内のことを分かりやすく書きますと、戦国時代に佐賀から大村に来た大村純治(すみはる)の墓地ではないかともいわれています。

 なお、私が、たまたま、この周辺を調査していたところ、地元の方から「この延命寺跡は、元々この場所ではなく、あの小高い丘(=上記で紹介した墓碑や石塔がある場所)付近ではないかとの言い伝えがある」と聞きました。

 それは、その通りで現在、十二社権現がある所より、ずっと見晴らしも良く、その話を聞いて当時は納得していました。いずれにしても、延命寺は、福重町にある妙宣寺から発見された紫雲山延命寺の標石内容=(現代語訳で)「紫雲山延命寺の創建は、天平二十年(748)年8月」であり、(郡岳にあった)太郎岳大権現とともに(大村)郷村記内容が正しければ大村市内最古級で、奈良時代創建の寺院と言えます。

史跡説明板の内容
  このページ(写真1)中央部と、(写真2)の右側に写っています延命寺跡の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。先の説明板を拡大したのが、(写真4)です。

(写真4) 松原3丁目、延命寺跡史跡説明板(本体部)
  なお、(写真4)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

 < 延命寺跡
 旧松原村北木場今山(現松原三丁目)にあった禅宗の寺院。創建年代は不明ですが、郡七山十坊の一つ。

 「紫雲山延命寺縁起」によると「この寺は元来法相宗であった」とあり、その後、真言宗に宗旨替えがあり、さらに禅宗に替った。奈良時代に興った南部六宗という古い宗派の一つ。

 天正二年(一五七四年)キリシタンにより破壊される。天保四年(一六四七年)この地に十二社権現が建立された。

 令和三年三月三十一日
 松原宿活性化協議会 >

  注:既に掲載中の各史跡説明板(もくじ)で、その内容中に例えば江戸時代に編纂された(大村)郷村記などの記述や、近代、現代でも難しい用語があれば、その解説も含めて書いている場合もあります。

 しかし、今回は(写真4)や上記の横書き内容でも、お分かりの通り、大変分かりやすい文章なので、補注その他は今回書いていません。

補足
 現在、


・関係ページ:(紫雲山)延命寺
・詳細な関係ページ: 『紫雲山延命寺跡』 、 『大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など

(初回掲載日:2021年5月18日、第2次掲載日:5月22日、第3次掲載日:5月26 日、第4次掲載日: 月 日) 

 

大村の史跡説明板・案内板シリーズ(もくじ)
「大村の歴史」シリーズ(もくじ)


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