(史跡案内標柱)好武城跡
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名称:好武城跡 |
様式:案内標柱 |
場所:大村市寿古町町、字「好武(よしたけ)」 |
設置者:大村市教育委員会 |
設置年:1980年月(昭和55年2月) |
GPS実測値:32度57分51.78秒 129度56分23.10秒 |
全体の大きさ:高さ190cm、横幅15cm |
(国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:(同上) |
グーグルアース用数値:32°57'51.78"N,129°56'23.10"E |
注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差もある。グーグルアースは航空写真上に表示するため若干の誤差もあるが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)
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好武城跡(大村市寿古町)中央部左右の奥周辺 |
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彼杵郡家の郡役所に由来する
郡川の「ほんじょうふち」(本庄渕)
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史跡案内標柱写真周辺の説明
まず、右側写真をご覧願います。この写真の中央部左側当たりに好武城址の案内標柱があります。この小高い丘一帯が、好武城址とも呼ばれています。ただし、この案内門柱の北側(写真の奥側)に以前、民家があった関係上、宅地跡(空き地)になっていますので、「ここが本丸の跡ではないか」と勘違いをしておられる方もいらっしゃるようです。
確かに広範囲に考えれば、この部分も本丸周辺跡とも言えますが、場所を限定的あるいは断定的に考えるのは禁物、早計です。なぜなら、好武城址は本格的な遺跡発掘調査、その他が実施されていないからです。また、写真の中央部左右に見える石垣も好武城の築城時のものと考えるのも断定的には言えません。
なぜなら、戦国時代の城は自然の地形を生かした土塁(どるい)形式が多く、「石垣は江戸時代になってから、あるいは近代ではないか」と言っておられる方もいて明確にはなっていません。また、城跡として分かりづらい理由が、まだ発掘作業がされていないことと併せ、この周辺近くに土塁らしきものが道路脇にある程度で、根本的に城の遺構が少ないこともあります。
さらに言えば、この好武城自体、戦国時代に短期間しか使用されていないのではないかとも言えます。なぜなら、『彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった』紹介ページに詳細に書いていますが、ここは、戦国時代の城というより、それ以前の彼杵郡家の郡役所としての役割が重要だからです。
その影響もあるのか、この横を流れている郡川の堰(せき)の名前も、郡役所からの由来から「ほんじょうぶち」(本庄渕、本城渕)と呼ばれています。「城として戦国時代には短期間しか使用されていないのでは?」との疑問の答えは、先のリンク先ページに紹介しています。
つまり、この周辺近くの寿古遺跡から須恵器など古代の遺物や戦国時代以前の輸入陶磁器が大量に出土したことなどが挙げられ、戦国時代の遺物は少ないそうです。また、地形的にみても戦国時代の城としては、あまりにも狭く防御しにくいことは素人目に見ても判断できるものです。
佐賀の藤津郡から来た大村純治は、私の推測ながら一時期は好武城にいた可能性はあります。しかし、先ほどの理由から、あまり間をおかずに郡川沿い約400m上流側にある今富城に引っ越したと考えるのが普通とも言えます。
史跡案内標柱の内容
この好武城址の案内標柱に書いてある文章は、下記「 」内の通りです。ただし、毎回のごとく書いていますが、江戸時代の大村藩が創作(偽装)した内容をそのまま引用して書いてあるので間違いや問題があることは、事前にご了承の上、ご覧頂きたいと思います。私の書いた(注1)〜(注3)で、その分の解釈はしていますので、ご覧願います。
「 好武城跡
戦国時代 大村純治は有馬氏の攻撃に備えるため、本城を築き、久原城よりここに移った(注1)(注2)(注3)
建設 昭和五十五年二月 大村市教育委員会 」
(注1):この紹介文章全体について、江戸時代に創作(偽装)された大村郷村記などの古記録類を参照して書かれたものである。そのため大村純治は最初から大村の久原にいて、有馬氏の攻撃対応のために好武城に移ってきたかのように描かれている。しかし、この大村純治は近代の説では佐賀の藤津郡にいた大村純治である。大村純治は藤津郡にいた頃、何回かの合戦に敗れ、本拠地を好武城に移したとの説の方が年代的にも合っていて、今では有力とも言われている。(詳細は、「大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その1」、「大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2」を参照)
(注2):藤津郡の大村氏とは別に先に彼杵の大村にいた大村氏の存在まで私は否定しているのではない。外山幹夫氏(当時、長崎大学教授)の本『大村純忠』(1981年5月10日発行)には、佐賀、彼杵、大村周辺には大村氏の家系がいくつかあって、その一つとして先にいた大村氏の可能性が述べられている。
(注3):先の項目にも書いた通り、好武城は狭くて防御しにくい所である。そのため、大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」(純治から変名して”純伊”と名乗ったのではないか)が、短期間だけ好武城にいて、その後は郡川沿い400m上流側にある今富城を築いたとも言われている。そのため、大村純治はじめ数代の墓は、松原や今富城周辺にあった。大村氏が本当に久原城を本拠地としていたならば、先祖の墓があり、出身地近くの場所に墓があるのが普通とも思えるが、実際はそうではなかった。
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寿古町の字「好武」周辺(この一帯だけが小高いことが良く分かる。好武城の史跡案内標柱は写真中央部右側にある)
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補足
今回の史跡案内標柱のある寿古町と郡川を挟んで隣の沖田町は、土地的には平坦な町です。ただし、一か所だけ小高い場所があります。それが、寿古町の好武城址周辺です。小高いことは、当然近くからでも確認できます。私は、2005年3月7日に当時、解体工事前で、まだあった火力発電所の屋上(目測で40〜50m位の高さ)に上って、周辺の写真を沢山撮りました。(この時の写真の極一部は、ここからご覧下さい)
この時の一枚が、右側写真です。ここに写っている場所は、好武城址周辺ですが、これを見ると一帯が周囲に比べ小高いことが判別できます。そして、古代肥前国時代、周辺は全て穀倉地帯でしたから、なぜ、ここに『彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった』が置かれたのか、良く分かります。
その理由は、郡川の水害から当時、貨幣価値と同じで経済の中心的役割だった米を貯蔵していた可能性があったからです。大事なものは、水害に遭っても流されないように小高い場所が選ばれたと思われます。
そのような立地条件から、古代肥前国から戦国時代頃まで、ここは長崎県央地域の政治経済の中心地だったろうと思われます。このような経過があるので、戦国時代になって佐賀の藤津郡から来た大村純治は、ここに一時期、好武城を構えたのでしょう。
しかし、先の写真からも良く分かりますが、戦国の城としては周りがあまりにも平坦で敵から攻め込まれやすい地形です。また、場所が城としては狭いので、大村純治と同一人物と言われている「大村純伊」が、短期間に郡川上流約400mの今富城を築いたと思われます。いずれにしても、この周辺の詳細な遺跡発掘が持たれるものです。そうなれば、『彼杵郡家』のことも好武城址の件についても、もっと明確に分かることでしょう。
・詳細な関係ページ:福重の名所旧跡や地形の『』 、大村の城シリーズ『好武城』、『彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった』
(初回掲載日:2013年5月18日、第2次掲載日:5月20日、第3次掲載日:5月21日、第3次掲載日:5月24日)