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皆同郷当時の福重小学校跡(滑走路の一部から写真中央部と上部、さらに写真左側で白く写る道路近くまで) (右端側が郡川、白く見える道路の左側に福重出張所=元・福重村役場も写っている) |
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中央が皆同町にある福重小学校跡の記念碑(御影石の記念碑で、個人宅の生垣の中にある) |
当時の学校紹介
上記にも書いていますが、福重小学校の開校当初の場所(当時の福重村寿古郷)は、1891(明治24)年9月、郡川の水害で流されました。そして、新校舎できるまで間、今富郷の民家を改造して仮校舎で勉強したと言われています。そして、1893(明治26)年9月、本校校舎ができたため、名実ともに皆同郷「城の前」(当時の福重村役場の南側付近)に学校が、移転しました。
そして、ここでの本校は、1995(昭和20)年春、福重飛行場が学校敷地内にできため、当時の矢上郷(現在の福重町)に移転せざるを得なるまで続いたことになります。つまり、この地で福重小学校は、約52年間の歴史があったことになります。
そのため、(2016年現在で85歳以上の)高齢者の方にはなじみ深い校舎でもあったので、今でも「校舎の前には大きなセンダンの木があってなあ」とか、「福重飛行場ができる時には子供でも郡川から滑走路建築用の石運びをさせられた」などと話しされます。
この当時は全て木造の校舎でしたから、当然その間に何回か建て替えられていました。その中で、(右側1番目写真参照)「1923(大正12)年頃の福重小学校、校舎全景写真」が現在のところ、現存する最古の写真と思われます。
また、上記左側写真は、1941年11月頃に作成された(福重村写真集)「銃後の郷土」の「国民学校生徒のラジオ体操」ページに納められたものです。奥側が2階建ての本館校舎、左奥側が1階建ての別館校舎です。
そして、運動場でラジオ体操をしていますが、手前側は背丈が小学生にしては高いので青年学校の生徒と思われます。奥側=本館校舎前付近が、小学生だと推測されます。
航空写真に写る学校跡
右側2番目写真は、戦後間もない頃に撮られた福重飛行場写真の極一部です。(この写真全体や福重飛行場の詳細は、ここからご覧下さい) この写真中央部やや右側に白く上下に長方形に写っているのが、福重飛行場(滑走路)です。
そして、福重小学校跡地は、滑走路の一部から写真中央部と上部、さらに写真左側で白く写っている三叉路の道路近くまでです。ただし、学校跡地は戦後になると、個人宅や田畑に転用されていますので、この航空写真だけで、実際の学校敷地跡を正確かつ詳細に表示するには難しい状況です。
あと、ご参考までに、白く写っています三叉路の道路は少し拡幅された以外、現在も形状は同じです。また、この道路の左側に今は福重出張所や福重地区住民センターがありますが、同じ場所に元。福重村役場だった建物も、この写真には写っています。このことから、大村市合併(1942年2月11日)以前の福重村役場と福重小学校は、かなり近かったことも良く分かる写真と言えます。
記念碑について
開校後、当時の福重村寿古郷にあった福重小学校が、1891(明治24)年9月、郡川の水害で流された後、1893(明治26)年9月、当時の皆同郷「城の前」に校舎ができました。そして、それから1995(昭和20)年春、福重飛行場が出来る前まで、本校が、この地にあったことは先の項目で述べた通りです。
その学校跡地に、福重小学校100周年記念事業として、1973(昭和48)年2月19日に記念碑が建立されました。それは、現在の大村市消防団第11分団・皆同詰所(皆同町)の南側10数メートル(道路の反対側)の民家の生垣にあります。(右側の上から3番目写真参照)
記念碑の改修
福重小学校本校跡の皆同町にある記念碑は、2016年10月頃に、右側の上から3番目写真(生垣の中にある)状況から、4番目写真の通り、見やすい所に変わりました。ただし、場所そのものは、ほぼ同じような所です。これらの作業は、福重地区まちづくり活性化委員会の予算補助にて、福重地区町内会長会が主催し、業者に依頼されたようです。
見出しでは改修と書いてはいますが、御影石を磨き上げ、さらに金文字、白色文字を塗り直しされています。そのため、昭和48年に新規設置された時と同じように綺麗になっています。この改修作業によって、今まで見えていなかった碑文まで鮮明に分かるようになりました。そのことについては、下記項目に書いています。
記念碑の大きさと碑文内容
この記念碑の大きさは、高さ63cm、横幅と奥行ともに20cmです。碑文内容については、下記の太文字通りです。
(1)正面(東面):創立百周年記念 福重小学校跡 昭和四十八年二月十九日 建立
(2)左側面(南面):明治二十六年六月 今富宅、吉川宅での仮校舎より新築移転する
(3)裏側面(西面):昭和一九年十一月空襲で校舎が破壊し分散授業を実施する
(4)右側面(北面):昭和二十年五月 校舎解体まで使用する
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中央が皆同町にある福重小学校跡の記念碑(以前は右上から3番目写真通り生垣の中にあったが2016年10月頃に、この写真のようになった。場所は以前とほぼ同じである) |
上記の(1)〜(4)について、一部補足や注釈をしながら書いていきます。
(1)の碑文について、補足も必要ないくらい分かりやすいですが、この福重小学校・百周年記念の時、同時に合計5基の記念碑が建立されました。この皆同町にある記念碑も同様に、昭和48(1973)年2月19日に立てられました。
(2)の碑文について、1891(明治24)年9月に郡川の氾濫(水害)があり、それまで使用されていた寿古郷(町)にあった校舎が流出しました。結果、1893(明治26)年9月に皆同郷(町)「城の前」に新校舎が出来るまで、今富宅、吉川宅の個人宅を利用して分散授業がおこなわれていたという内容です。
(3)の碑文について、1944(昭和19)年11月に空襲に遭い、一部の校舎や運動場に損壊があったのは事実です。そして、その間、分散授業もあったのでしょう。しかし、大きな被害ではなく、福重小学校そのものが、当時の矢上郷(現在の福重町)に移転せざるを得なかったのは、空襲の被害が原因ではなく、同じ学校敷地内に福重飛行場が建設、開港したためでした。
(4)の碑文について、1945(昭和20)年5月、「(当時の)海軍記念日に福重飛行場で一番機が飛んだ」と言われています。その前頃まで校舎もあり、授業も出来たのでしょうが、飛行場の本格運用に備えて、校舎が解体されたということです。しかし、当時の移転先の矢上郷(現在の福重町)では直ぐに授業はできず、1945(昭和20)年11月6日に本館校舎が移築、再建設されて、やっと授業が校舎で開始されました。
補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
関係ページ:「福重小学校の紹介(もくじページ)」の「福重小学校の歴史」、『(福重)国民学校生徒のラジオ体操』、『福重飛行場』、『福重小学校・立福寺分教場跡』、『福重小学校・重井田分教場跡』
(初回掲載日:2016年2月24日、第二次掲載日:2016年2月25日、第三次掲載日:2016年2月26日、第四次掲載日:2016年3月5日、第五次掲載日:2016年11月22日、第六次掲載日:2016年 月 日) |