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福重の名所旧跡や地形

寿古の狼煙場跡(寿古町)
寿古の狼煙場(すこののろしばあと) 場所:長崎県大村市 寿古町(郡川河口近くの右岸)

  この寿古の狼煙場跡(すこののろしばあと)場所について、大村郷村記、「福重の史跡」(福重小学校所蔵の史跡アルバム)と、寿古町の伝承を参考にしました。先の大村郷村記の項目名は狼煙場之事とあり、「福重の史跡」では(写真)名称として、狼煙場跡となっています。

・左側の写真説明:中央の木立周辺が狼煙場跡。右端側は郡川河口近くの右岸。左奥側の山は郡岳(こおりだけ、826m)、右奥側の三角に尖った形状の山は経ヶ岳(きょうがだけ、1076m)。

 <注:「のろし(狼煙、烽火)とは、合図や警報のために、薪(たきぎ)・火薬などを用いて高くあげる煙。とぶひ。ろうえん」のこと。国語辞典の大辞泉より>


概要紹介
 
江戸時代に編さんされた郷村記(大村郷村記)によれば、郡川河口近くの右岸側、「下河原(しもがわら)」に狼煙場(のろしば)があったこと、築かれた年代、実際に活用された例なども記述されています。<大村郷村記内容の詳細は後の項目を参照>

郡川河口近くの右岸側に(寿古の)狼煙場があった(写真中央部やや右側、一部の高い木がある周辺) <撮影場所:弥勒寺町、撮影日:2006年10月24日>

  大村郷村記を参照しますと、その築かれた年代は、文化6(1809)年4月26日、長崎で異変が起こった場合に合図を送るために造られたものです。(玖島城の)城内で鐘(かね)を鳴らし、それを受けて円融寺、長安寺でも鳴らし、船役所から臼嶋(うすしま)へ行き、狼煙(のろし)を燃やし、村中(むらじゅう)へ知らせていました。

 そして、この(寿古の)狼煙場でも燃やし、そこから妙宣寺脇の「畠原(?)」で受けて、そこから各村へ伝えていたように記述してあります。

 また、一説によりますと、長崎県内の狼煙場は、古代からあった場合もあります。<例えば地元の伝承ながら、大村市内、「鉢巻山(はちまきやま、335m)頂上にあった狼煙場跡」などが、昔残っていたと言います> 

 しかし、別の説では、「狼煙場は古代からあったが、江戸時代に発生したフェートン号事件<文化5 (1808) 年8月 15日イギリス軍艦『フェートン』号が突如長崎港に侵入した事件。(国語辞典の大辞泉より)>を契機に、県内各地で整備がなされた」とも言われています。<この件、長与町ホームページ「琴ノ尾岳烽火台跡(ことのおだけ、ほうかだいあと)」などを参照>)

  (寿古の)狼煙場が何故、郡川河口(寿古海岸)近くに設置されたかという理由についてです。その記述がないので上野個人の推測ながら、この場所は、丘陵地帯からならば当然のごとく、また平野部からも良く見えていたためと推測されます。(ご参考までに、各種の建物が多くなった現在でも、この郡川河口近く=寿古海岸線近くは、丘陵地帯からは良く見えています。<右上側写真を参照。郡川に架かる郡大橋の右岸側の袂(たもと)上部に一部の高い木がある周辺が、(寿古の)狼煙場跡

大村郷村記の記述について
 
(寿古の)狼煙場跡の件は、復刻版(活字版)大村郷村記・第二巻・福重村123〜124ページに、「狼煙場之事(のろしばのこと)との名称項目で記述されています。原文は、縦書きの旧漢字体などです。念のため、できるだけ原文は生かしたいのですが、ホームページ表記できない文字もあるため、それらと同じような漢字に上野の方で変換しています。また、不明文字は、「?」にもなっています。

北東(郡大橋)側から撮影した寿古の狼煙場跡周辺
寿古の狼煙場跡周辺の木立の中(ただし、狼煙場の石垣とは無関係と思われる)

 なお、見やすくするため太文字に変え、さらに改行したり、文章の区切りと思えるところに空白(スペース)も入れています。ですから、あくまでも下記は、ご参考程度にご覧願います。引用をされる場合は、原本から必ずお願いします。「 」内の太文字が、大村郷村記からの引用です。

 「 狼煙場之事
一 郡村狼煙場下河原にあり、文化六己巳年四月廿六日、 新に長崎異変の節の相圖を極む、先白帆注進有之節ハ、 城内に貳ッ續の鐘を撞立、圓融寺・長安寺にて請之、 緒士中へ相圖相立、諸村ヘハ郡代郡屋より飛脚を以觸出すなり、

彌異船打拂に相決し警固の趣申來る節ハ、城内鐘・太鼓打交、圓融寺・長安寺鐘に角板打交、船役所より定役の者臼嶋に至り、兼て用意の篝火焼立、則彼の火を此處に請、狼煙を擧て變を村中にしらするなり、此火妙宣寺脇畠原へ請取、夫より段々諸村へ通するなり  」


・現代語訳
 上記の大村郷村記を現代語訳しますと、下記 < >内の青文字通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度に、ご覧願えないでしょうか。見やすいように太文字や改行など変えています。( )内は、私が付けた補足や注釈です。また、大村郷村記は、今回の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。

 < 狼煙場のこと
一つ 郡村(こおりむら)狼煙場は、下河原(しもがわら)にある。文化6(1809)年4月26日、新たに長崎で異変のおり(異変が起こった時期)に合図をきめた。先年(発生した) 白帆注進(フェートン号事件のことと推測)のあった時に、(玖島)城内に二つ続きの鐘(かね)をつき、(その音を) 圓融寺と長安寺で受けた。(そして)関係者へ合図を送った。

各村へは郡代(代官)が群役所より飛脚(手紙や書類などを配達する者)を出して、ふれまわった。緊急の外国船打ち払いが決定すれば相対して警護の趣旨が来た場合は、城内の鐘(を鳴らし)・太鼓を打ち、圓融寺・長安寺の鐘に(加えて)角板で打ち交えて、船役所から(事前に)決めていた者が臼嶋(うすしま)へ渡り、かねてから準備していた篝火(かがりび)を燃やし、直ぐに、この場所(寿古の狼煙場)で受けて狼煙を上げて村中に知らせた。この火は、妙宣寺脇の「畠原」で受けて、そこから各村(各郷)へ連絡した。  


大村藩領絵図について
 
下記画像は、大村藩領絵図<九葉実録・別冊(大村史談会1997年3月発行 、附図・写真版(写真撮影者:神近義光氏)>の郡川河口近くを中心にトリミングしたものです。この絵図完成年は、従来説では「1800年頃の大村領を描いたもの」と言われてきました。しかし、私は10年程前から、松原八幡神社が現在地で描かれていないことなどから、「もっと早期、例えば1700年〜1750年頃に完成したのでは」との説を多くの方へ知らせていました。

郡川河口近くの大村藩領絵図。ただし寿古の)狼煙場は描いてない。(左側と手前側の紺色は大村湾、中央部、紺色のほぼ直角な太い幅が郡川。この郡川河口から右岸上流部へ約280m地点に後世、狼煙場が築かれた)

 あと、私は市内の史跡を調べる時に、大村藩領絵図に注目しています。なぜなら、大村藩領絵図 は、今ならば技術者(専門職人)が作成したからです。そのため、技術者らしく、できるだけ地図は正確に、役所や史跡関係表示位置も、その地元で調べながら素直に描いているからです。それに比べ、大村郷村記は、創作(偽装)の歴史記述が多いのは、ご存じの通りです。

・絵図にない寿古の狼煙場

 右側の大村藩領絵図に、今回紹介の寿古の狼煙場は、描かれてないようです。この絵図には、城、村名、庄屋、寺社、川、その他にも大村藩と関係ある重要場所や諸施設などは、多くの場合、描いてあります。例えば、右側絵図でも、ご覧になれば分かりますが、既に廃城になっていた「好武城(よしたけじょう)」も、中央部やや左側に、その標記文字が見えています。

 狼煙場は、現代風に言えば「緊急時連絡発信所」みたいなもので、しかも、諫早市の「琴尾岳烽火台跡」ページ掲載写真を参照しますと、やや大きな石垣などがあったことが分かります。なぜ、そのような大事で、やや大きな緊急時施設が、先の大村郷村記に記述してあって、この大村藩領絵図には描いてないのでしょうか?

 その答えは、上野の推測ながら、フェートン号事件<文化5 (1808) 年8月 15日)>の前に、大村藩領絵図は、完成していたためと思っています。つまり、この事件の後、県内各所の狼煙場が新設、整備されたので、それよりも先に完成していた大村藩領絵図には、載っていないということです。

補足


(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)



(初回掲載日:2017年4月4日、第二次掲載日:4月10日、第三次掲載日:4月13日、第四次掲載日:4月21日、第五次掲載日:4月22日、第六次掲載日:4月23日、第七次掲載日:2023年12月27日、第八次掲載日: 月 日)

  

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