大村発電所 |
写真集その4 |
役目を終えて 大村発電所
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大村発電所2号機
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九州電力・大村発電所2号機の建設が始まったのは、 1962(昭和37)年3月からでした。その前に、なぜ2号機が建設されたのか、その背景から書きたいと思います。 当時(昭和30年代半ば)は、高度経済成長期で九州の電力需要は毎年発電所156MW1基分程度の急激な伸びを示していました。 発電所の候補地はいくつか挙げられていましたが、大村発電所1号機横に建設用地として可能であったこと、石炭が2号機分含めての年間90万トンの確保と輸送が容易だったこと、灰捨て場の拡張も容易だったこと、既存の送電線との連携や郡川の水量が豊富だったことなどがあったようです。 1962(昭和37)年3月1日に2号機建設所が開設され、建設工事費約72億円と約2年間かけて発電所本館、煙突その他の諸施設が建設されました。2号機の運転開始は、1964(昭和39)年8月20日でした。 出力は、156,000kWで、当初の燃料は石炭でしたが、重油の燃焼にもなりました。しかし、1973(昭和48)年に起こったオイルショックなどから、その後、また石炭燃焼(専焼)になりました。 これら燃料の変遷は、その時代の石炭産業の変遷、オイルや石炭価格の動向さらには国のエネルギーや石炭政策の変化の影響からと思われます。 最後の方では、九州で最後に残った池島炭鉱から産出されていた石炭を使っていました。その関係からか、池島炭鉱の閉山前後には、それらの報道とともに長崎県内のテレビや新聞などに、大村発電所の名前も出ていました。 この2号機は、1962年の初運転から2002年の運転最後まで通算して約40年間稼動し、火力発電所としては、けっこう長寿命と言われていました。 これからは、私の感想などを書きます。私は、1号機の建設は全然覚えていませんが、この2号機を建てる時は、福重小学校の高学年の頃でした。それで、丘の上にある自宅付近からも通学路の坂道からも建設時の鉄筋が、徐々に高くなっていくのが見えていました。 さらには夏休みの時など、松原の鹿島海水浴場などに行く途中、近くに見えましたので建てている時の風景も、それなりに覚えています。既に真横に1号機がありましたので、煙突の高さそのものにそんな驚きはなかったと思います。 ただ子供だったので建設時の鉄骨のやぐら自体は、大きく見えました。また、工事用のトラックや車の出入りが頻繁に国道沿いからも見えました。(マダマダ、自家用車も普及していなくて耕運機も走っていた、のどかな頃です) あと、私の大村発電所の全体印象として、学生時代に見慣れていた、あるいはその後大阪に25年間居住していたので大村での空白期間の影響もあり、どちらかと言うと「2本煙突で1、2号機同時操業していたイメージ」が、強く残っています。
また、今回、大村発電所から発行されていた(「はじめに」のページで紹介しました)二つの記念誌を拝見して改めて、この2号機の長期間運転実績からか、この期間地元との関係も様々あったのだなあと思いました。 中には「郡川に親しむ会」に稚アユを3000匹寄贈とか、ソフトボール・ゲートボール・夏越祭りなどに参加、所員の方が周辺のゴミや空き缶拾いをされたとか、色々な記述がありました。2号機だけで約40年間の歴史ですから、ここには到底書ききれない様々なこともあったことと思われます。 <なお、2006年2月現在、この2号機は、今年夏の解体工事終了に向けて作業中です。このページ、追加原稿も含めて検討中です> (掲載日:2006年2月15日) |
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