大村の溶岩流跡 |
大村の溶岩流跡 |
も く じ |
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主 な 内 容 |
状 況 |
用語解説 | 掲載中 |
注意 | 掲載中 |
はじめに | - |
大村の溶岩流跡の代表例 |
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あとがき | - |
草場町の馬込川、馬込の溶岩留跡 | 原町の郡川の石場橋上流の溶岩流跡 | 重井田町と立福寺町、御手水の滝(裏見の滝) 巨大な岩壁(断崖絶壁) |
上諏訪町、山田の滝周辺の岩壁 | 武留路町、鳴滝の岩壁 | 黒木町、鮎がえりの滝の岩壁 |
用語解説(一部) 溶岩流(ようがんりゅう) =火山噴火の際、火口から流出する溶岩、またはその冷却固結したもの。(広辞苑より) 火山(かざん)==(volcano)地下の深所に存在する溶融したマグマが、地殻の裂け目を通って地表に噴出して生じた山。地形によって分類されることがある。(広辞苑より) 多良山系(たらさんけい)= (解説文を準備中) |
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注意 注1:このページのタイトルは、標題なので短く「大村の溶岩流跡」と書いている。ただし、この表現を作成者の上野は、「大村市内で溶岩流跡が見学できる場所」という意味で書いている。念のため、当然、全部ではなく、割り合い簡単に見れる場所を中心に本ページでは紹介している。 注2:上野は、素人の郷土史愛好家であって、火山学とか地質学などの専門家でもないし、それらの分野から「大村の溶岩流跡」について詳細な調査をしたこともない。 注3:上記のことから、このページの内容に過不足あるいは事実誤認もあるかもしれない。もしも、そのよう事項があればメールにて指摘して頂ければ再検証後、改訂したい。 注4:引用・参考文献などについて-------このページは、既に「福重ホームページ」の「大村の土地の形成」ページ作成の元となった大村史談会発行の書籍類、特に、『大村史話 上巻』の「大村の自然」や「福重郷土史講座」の「史跡探訪」報告ページなどからである。 |
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はじめに----なぜ溶岩流跡を調べてようと思ったのか
日本は、春夏秋冬、全国どこでも美しく自然豊かである。そのことは、万葉の時代から現代まで文化人や風流人が、それらを数え切れないほど歌いあげておられる。また、我が国は、世界有数の火山国でもあり、その恩恵として温泉を始め様々な恵みの源でもある。 しかし、一方では、「日本は災害列島」とも呼ばれている。それらは、震災、津波、火山噴火、水害、土砂崩れ、台風、干ばつ(渇水)、豪雪、竜巻などである。その発生件数も、まるで春夏秋冬(あるいは毎月のように)全国のどこかで起こっている。 そのようなことから、日本人は大昔から自然に対し、畏敬(いけい)と畏怖(いふ)の念を持って生きてこられた。それは、山神から水神、土地の神、海神に至るまで、それこそ八百万(やおよろず)の神を全国至る所で祀ってこれたことでも良く分かる。決して、「人は自然を、災害を征服できる」みたいな傲慢(ごうまん)で愚かな考え方ではなかった。 また、自然の大きさや、その力は、人智を超えた圧倒的な力であることも知り、完璧な対策は不可能であることも先人は知っておられた。だからこそ、犠牲者が出た災害では、可愛い子供・孫や後世の人への注意喚起(ちゅうい かんき)を込めて、たくさんの災害記念碑が建てられている。この記念碑内容を守って、「2011年3月11日の東日本大震災」時に、大津波が押し寄せて来ても犠牲者を出さなかった地域もあったと聞く。 以上述べた通り、どんなに科学や土木技術が進んだとしても、現在も将来も「日本は災害列島」そのものは変わらないし、ましてや人の力だけでは、自然の力に到底及ばない。しかし、全国どこでも何かの災害が起こる可能性を知りつつ生きたり、その対策を練るのと、逆に災害に遭ったり、近くに犠牲者が出てから初めて考えるのとでは、これまた雲泥(うんでい)の差があることも確かであろう。 この項目で、私が一番申し上げたいことは、「災害列島」に住む以上、どなたでも「災害は他人事ではない」ということである。そして、このことは、大村市民も例えば「1957(昭和32)7月25日の大村大水害」 「1962(昭和37)年の大村水害」 「2020年7月6日の大村水害」で、直接間接を問わず経験されていると思う。そのようなこともあり、先のリンク先各ページも、さらに「大村の溶岩流跡」も調べて、本ページも作成しようと思った理由のひとつである。 2) 住んでる地形を知ることは災害時に役立つ (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) |
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大村の溶岩流跡の代表例
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) |
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