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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 本城水神(ほんじょう すいじん)
 概要紹介
掲載中
 水神の大きさ 掲載中
 水神の碑文 掲載中
 まとめ -
・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
掲載中
(写真1) 左側が本城水神、中央部右側は倉庫など。 (撮影者側の後方=南側方向に郡川があり、そこに本城堰(本庄堰)もある)
(写真2) 本城水神 (写真3) 郡川の中にある本城堰(本庄堰)

本城水神(ほんじょう すいじん)

 
用語開設
 ・水神
(すいじん)とは、広辞苑を引用すると「水、特に飲用水・灌漑用水などをつかさどる神。また、火災を防護する神」である)

 井堰・堰(いせき、せき)とは、広辞苑を引用すると「水を他に引くため、川水をせきとめた所。井手。せき」である)

注:(写真4)の本城水神(本体部)の碑文(文字)は、肉眼では見えにくいので、上野がデジタル写真から文字部(線)をなぞってCGで描いたものである。あくまでも、参考程度に閲覧願いたい。

(写真4) 本城水神の本体部:文字はCG 


概要紹介

 
本城水神(へいしろう すいじん)は、郡川の寿古町側にある本城堰(本庄堰)(写真3参照)にある取水口から堤防(道路)、畑や道路を挟んで北北西側に約115m行った所にある。(写真1、2、4参照) あと、この水神本体から北北東側へ、井戸、倉庫などがある。

 この本城水神は、その名称通り、郡川にある本城堰(本庄堰)及び、そこから取水された水を耕作地に引くための井手(用水路)を守る水神である。 この本城水神の東側115m、郡川にある本城堰(本庄堰)〈本庄渕(本城渕)とも言う〉は、本城堰(現在は、(写真3の通り)新しい可動堰
(かどうぜき)になっている。元々は固定式(石垣)であった。なお、後でも関連したことを書くが、この本庄渕の由来は、(彼杵郡家という)「役所(本庄=本所)前の渕」との意味である。つまり、古代肥前国時代より、この小高い「好武」には、役所があったということでもある。(この件の詳細は「彼杵郡家」ページを参照)

 先の古い堰形式(石垣)の完成年は正確には、不明である。しかし、江戸時代の(大村)郷村記には、「本城井手」として記録されている。ここからは上野の推測ながら、この堰と井手(用水路)の完成年代は、速ければ古代以前で、遅くても古代の前期に造られ、同時に初期頃の水神も建立された可能性もあるが、不明である。

 郡川には、この本庄渕(本城渕)=本庄堰(本城堰)をはじめ上流側の済福寺堰、沖田堰、九郎丸堰、さらには下流側の平四郎堰などがある。(大村市内では)これら大きい井堰郡の中で、本庄堰(本城堰)は、初期に造られたと思われる。何故なら、先に述べた通り寿古町の好武周辺には、古代・肥前国の彼杵郡家 の役所があったともいわれ、さらにはその後、東福寺の荘園(管理事務所)もあった地域である。

 そのようなことが可能だったのは、この周辺が穀倉地帯だったからである。つまり、この本庄渕(本城渕)=本庄堰(本城堰)が相当古い時期から存在しないかぎり、コメ(米)ができないので穀倉地帯にならないと思われるからだ。そのようなことから考えて、現在見る形式や場所ではなかったかもしれないが、本城水神の初期のものは、現在地周辺にあったと推測される。なお、今ある本城水神は、好武城(かつての彼杵郡家=役所跡)の入口にあたる真正面の場所という点も興味深い。

水神の大きさと緯度経度

 このページの(写真1、2、4)を参照願う。最上部の自然石が、本城水神の本体部である。そして、その下側が、自然石で囲んだ土台がある。さらに、その下側にも自然石が周囲にある。それらの大きさと、緯度経度は、下表二つを参照願う。あと、下表の数値は、あくまでも参考程度に、ご覧頂きたい。また、数値未記入欄は、ご容赦願う。

本城水神の大きさ
 全体  高さ:1m60cm  -  -  -
 本体  高さ:68cm  横幅:45cm  奥行:  胴囲:1m30cm
 土台1(自然石)  高さ:27cm  横幅74cm  奥行き:  周囲:1m80cm
 土台2(自然石)  高さ:50cm  横幅:90cm  奥行:  周囲:1m60cm


本城水神の緯度経度(GPS実測値)
 名称:本城水神  場所寿古町、本城堰の取水口から北北西に約115mの所
 GPS実測値:32度57分50.42秒 129度56分20.70秒  国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用 
 グーグルアース用数値:32°57'50.42"N,129°56'20.70"E  標高:地図上の標高は3.7m


 

(写真4)本城水神の表面(碑文はCG)  (写真5)本城水神の裏面(碑文はCG)

水神の碑文
 
この本城水神表面(写真1、2、4参照)と、裏面(写真5参照)には、下記の太文字碑文が彫ってある。実物は、縦書きだが、下記はホームページ用に横書きに直している。

<表面>

 本城水神

<裏面>
   
昭和三十五年八月
  総反別 十五ヘクタール
  総人員 四十四人


口語訳訳

 上記は分かりやすい碑文だが、あえて口語訳すると次の「」内の
青文字通りと思われる。なお、< >( )内は、さらに分かりやすいように、上野が補足した。

 表面:
本城水神」 
 裏面:「昭和35(1960)年8月に建立した。 
<本城堰(本庄堰)や本城井手(用水路)から水が供給されている>総耕作地(田畑)の面積は15ヘクタールである。 その(耕作者=用水路の受益者の)総人員は44名である」

まとめ


 (この原稿は準備中。しばらくお待ちください)


関係ページ:「平四郎堰(げいしろう せき)(平四郎井手)


(初回掲載日:2021年12月23日、第2次掲載日:12月27日、第3次掲載日:12月28日、第4次掲載日:12月30日、第5次掲載日:12月30日)

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