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法養の碑(表側)
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概要紹介
名称:法養の碑(ほうようのひ)裏側碑文 、 所在地:黒丸町・法養堂敷地内
碑文石の大きさ:高さ約118cm、横幅約70cm、胴囲約170cm
概要:大村市黒丸町、黒丸公民館・法養堂の敷地内に法養之碑(法養の碑)があります。この法養は中国地方の浪人だった人で、(大村)郷村記によれば佐賀の須古村 (現在の佐賀県白石町)から大村領に来ました。そして、(寿古踊) 沖田踊、黒丸踊を教え最後は黒丸郷で没しました。現在ある法養の碑の以前にも、碑があり、それは法養の墓碑と推測されます。
私の想像ながら、その石は、現在の記念碑の下側にあるのかもしれませんが確認されていません。以前の墓碑が、荒廃したため下記の碑文通り昭和4(1929)年1月8日に、再建され現在の記念碑になったと思われます。
右側写真は、法養の碑の表側を写したもので法養之碑(法養の碑)と彫ってあります。今回は、この碑の裏側に彫られている碑文について書いていきますので、後の項目でそのCG写真も掲載予定です。なお、詳細は、次の項目から順次紹介していきます。
はじめに
郡三踊(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の郡(こおり)は、昔の呼称である郡村などと関係があります。なぜ、郡村(枝村として竹松村・福重村・松原村があった)と言うかについて、古代からあった肥前国の役所=彼杵郡家(そのぎぐうけ)の郡からと言われています。寿古踊(寿古町)と沖田踊(沖田町)が福重地区で、黒丸踊(黒丸町)が竹松地区です。そのため三踊りの名前も総称して、郡三踊りと古くから呼称されてきました。
また、この郡三踊りは、三つで一つの踊りと言われ、江戸時代の(大村)郷村記によれば踊る順番も決まっていました。一番目が寿古踊、二番目が沖田踊、三番目が黒丸踊です。なお、歌や踊り方そのものは当然違っていても、郡三踊を教えた法養(ほうよう)や踊りの歴史事項などは細部を除けば、ほぼ同じです。 前書きが長くなってしまいましたが、今回のテーマは郡三踊りの内、当時の黒丸郷(現在の黒丸町)で黒丸踊を教え、その地で没した法養の碑(裏側碑文)についてです。
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法養の碑案内門柱(黒丸町)
後方左側:黒丸町公民館、右側:法養堂
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黒丸踊
(2005年9月4日開催の本経寺400年祭)
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私は郡地区の福重の出身で現在も同じなので、当然、郡三踊りは何十回となく子どもの頃から見てきました。また、現在では三踊りがいっぺんに披露されるのは大変珍しいですが、2005年9月4日開催の本経寺400年祭と、2007年12月1日開催の郡地区公民館開館記念式典で三踊りが同時出演した行事も興味深く見て写真も多数撮ったことがありました。
そのようなことからしばらくたった2011年9月頃から私は全く別の目的で市内各所にある近世や近代の石仏・石像を計測、撮影や拓本化などをしていました。たまたま黒丸町で石像情報提供者の方から次のような話がありました。それは、「上野さん、法養の碑の裏側に碑文があることを知っているか?(調べてもらえないかなあ)」と言う主旨の内容でした。直ぐに私から「その碑の表側は何回か見ましたが、裏側に碑文があることは知りませんでした。後で拓本化か何かして調べてみたいですね」と言う返事をしました。
2011年11月29日、拓本作業のため1時間近く碑文の彫られた自然石をクリーニングしたところ岩苔や汚れで見えていなかった文字が鮮明になって、目視でも確認できました。そして、拓本作業もおこないました。その後、寿古町在住の増元さんのアドバイスも参考にして碑文解読をしました。その結果は、後の項目の「1)法養の碑、裏側CG写真と全文紹介 」を参照願います。
法養の碑、裏側碑文で明らかになったこと
極簡単に言えば江戸時代編纂の(大村)郷村記や近代に発行された書籍類の記述内容と法養関係については、ほぼ同じでした。ただし、下記の3点については、今回の拓本や碑文解読により明確になったものと思われます。
(1)法養の碑の建立年や建立者が、「昭和4(1929)年1月8日 黒丸郷中」であったこと。
(2)法養の最初の墓碑が荒廃したため(その上に)再建されていることが明確に分かったこと。
(3)全体通して、法養の碑(表側)紹介は、今までの書籍類やホームページに写真付きも含め多数あるが、裏側の碑文全文紹介については、今回の調査報告が初めてであること。
などです。あと、この再建碑をもってしても、法養の没した月日=「霜月(陰暦11月)28日」は分かっても、肝心な没年が不明な点であることは、ある意味不思議な感じもします。この点と郡三踊りの起源について、後で書いていますので参照願います。
なお、今回は、裏側碑文がテーマなので歴史関係などは概要紹介程度に留めていますので、あらかじめ、その点はご容赦願います。(郡三踊りの詳細は「大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について」と「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”」ページを参照)
私は、日頃から郡三踊り各保存会のご努力やご労苦は並大抵のことではないと聞いています。そのことを知りつつも郡三踊りは、古くて長い歴史があり、また大村市民の誇りとする郷土芸能・伝統芸能と思っています。今後も三踊り保存会が、ご活躍とご発展をされますよう祈念します。 素人が調査を行い、その結果を書いたつたない文章かもしれませんが、このページが、何かのご参考になれば幸いです。
1)法養の碑、裏側CG写真と全文紹介
法養の碑、裏側碑文のCG写真は、右側画像です。念のため、この画像は碑文写真から文字部分だけに黄色の線を写真加工ソフトで描いたものです。(実物のCG画像はA3サイズ位に引き伸ばしても充分精密なのですが、ホームページ用画像のため大幅に縮小している点は、ご容赦願います)
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法養の碑、裏側碑文(CG写真)
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裏側碑文の全文
右側CG画像でもご覧の通り、実物は縦書きで1行の文字数は15〜17文字位あり全体9行です。今回、見やすいように横書きにして、次の「」内に改めました。なお、難しい漢字はパソコンで変換可能な文字に変え、さらに原文は続いていますが、文章の区切りの良いところにスペース(空白)も入れています。
「士ハ元中國ノ浪人文明ノ頃此ノ地ニ 来リ住ス 會々大村信濃守純伊公凱旋ノ祝典ヲ文明十三年旧二月擧行スル二當リ自ラ師トナリ作曲シテ黒丸踊 及び沖田踊ヲ傳ウ 依リテ禄ヲ受ク 後年霜月二十八日此處二没ス 年経テ墓碑 荒廃シタルニヨリ 郷民相謀リ茲ニ再建ス 昭和四年一月八日 」
現代語訳
上記碑文の現代語訳は、次の<>内の通りです。なお、( )内は上野の補足や注釈です。また、下段の補足事項も、参照願います。
< 彼(法養)は元中国地方の浪人で文明(年間)の頃に、この地に来て住んだ。たまたま、大村信濃守純伊公凱旋の祝典を文明13年旧2月挙行するに当たり自ら師となり作曲して黒丸踊及び沖田踊を伝えた。よって禄(法養田)を受けた。(法養は)霜月(陰暦11月)28日に、この所で没した。また、年数経て墓碑が荒廃したため郷民(町民)が相談して、ここに再建した。昭和4(1929)年1月8日 黒丸郷中 >
(注:法養の没した月日は近代発行の書籍にも書いてあるが、没年は不明のようだ)
補足:法養の記述部分は、正しいと思われます。ただし、「大村純伊」伝説(戦勝話し、郡三踊と大村寿司の起源)は、史実と全く合わないため江戸時代の大村藩による全て創作(偽装)の歴史と言われています。あと、郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は、この碑文にあるような「戦勝祝い踊り」ではなく、もっと格式の高い神事芸能踊り(神社に奉納するような踊りのこと)と、私は思っています。(郡三踊りの詳細は「大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について」と「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”」ページを参照)
2)虚構と言われている「大村純伊」伝説
このページは、大村の偽装の歴史を書くテーマではないため詳細には触れませんが、江戸時代の大村藩が創作し現在も続く<大村の二つの偽装の歴史事項(主に大村氏系図と「大村純伊(すみこれ)」伝説)>と、郡三踊りは関係しています。(詳細は、「お殿様の偽装(もくじページ)」、「大村の偽装の歴史や表現一覧表」、「大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について」、「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”」ページを参照)
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寿古踊(ゴザ一枚敷くのは神様の依り代で、ここに神様が降りてくることを意味していると言う)
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沖田踊(長刀などは神様に捧げる神事と言う)
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そのようなことから、ここでは概略のみを書きます。 結論から先に書けば、この「大村純伊」伝説(戦勝話し、郡三踊りと大村寿司の起源)は、史実と全く合わないため江戸時代の大村藩による全て創作(偽装)の歴史と言われています。つまり、「大村純伊」や大村氏を偉大に見せるために地元にあった郷土芸能(郡三踊り)や郷土料理(大村寿司)などを、あたかも「大村純伊」と関係あったかのように箔付けとして江戸時代の大村藩が創作(偽装)したのです。
あと、大村氏の始祖から大村純忠より数代前位まで史料で実在が確認されていないにも関わらず創作されたのが大村氏系図です。その系図全体に対し、戦前は大村の偉人とも言われている黒板勝美氏(波佐見町出身、東京帝国大学教授、肩書きは全て当時のもの。以降同じ)、日本最高の系図の名著と言われている姓氏家系大辞典を書いた太田亮氏(立命館大などの教授)を始め、さらには1970〜1980年代では長崎県や大村の歴史に詳しい外山幹夫氏(長崎大学教授)、河野忠博氏(大村史談会・会長)などの書籍・論文類では、全て「大村氏系図」は、「江戸時代、大村藩による創作・偽装の歴史だ」と断定されています。
また、郡三踊りや大村寿司の「大村純伊」伝説についても、先に紹介しました外山幹夫氏が、『大村純伊文明六年敗戦記事の虚構性 −とくに「平家物語」との関係について』(大村史談会1981年4月発行、大村史談第二十号)に詳細にわたり書いておられます。 あと、このような動きに呼応するかのように大村市自らも1980年代は、この偽装の大村の歴史を改善する方向でした。
そのことが分かるのが、実は大村市作成の郡三踊り3冊<『大村の沖田踊』(1983年=昭和58年3月31日) 、『大村の寿古踊』(1984年=昭和59年3月31日) 、.『黒丸踊』(1985年=昭和60年3月31日) の公式記録集(冊子)です。各踊りの紹介ページに(大村)郷村記などの古記録も書きつつ、これら公式記録の3冊とも、ほぼ同様の表現で「芸能の発生を戦勝祝賀に求める例は多く、直ぐに信頼することはできない」とも書いてあります。
以上のように、もう郡三踊りの起源と言われている「大村純伊」伝説は破綻していると思われます。私は、そのような偽装の歴史表現を使うより、仮の表現ながら「この郡三踊りは大村の郷土芸能として、約500年の歴史がある。この踊りは室町時代後期の芸能を現在でも伝えている」と表現しても全国的には十二分に通用する言葉と思います。
史実も裏付け史料もない大村藩の創作(偽装)した「大村純伊」伝説を現在も用いて「郡三踊りの起源」として、大村市が市民だけでなく長崎県民、さらには全国に広めていくのは、逆に信用と信頼を、その分は関してはなくす元になるのではないかと一市民ながらも心配しています。
さらに、過去から色々な方から指摘されても従来通りの見解で「古記録に書いてあるから」とか、「別の説もあるが」とかの但し書き付きで郡三踊りの起源として「大村純伊」伝説を紹介するのは、全国の方々だけでなく日常苦労して踊りを継承・保存しておられる各踊り保存会の方々に対しても削除し止めることが正しいことだと思います。今後、新たな確かな史料が見つかるまで、創作(偽装)の「大村純伊」伝説は用いるべきでないと言えます。
3)長崎県の公式記録に踊り起源のない寿古踊と沖田踊はなぜか
長崎県が県指定無形民俗文化財を紹介している公式記録があります。それは県ホームページにも掲載中で(長崎県学芸文化課、『長崎の文化財』の)「黒丸踊」、「大村の寿古踊」、「大村の沖田踊」ページです。念のため、先のリンク先ページは、ホームページ用に省略形式にしたものではなく、次のPDF版の正式な紹介文書(『長崎の文化財』、長崎県教育委員会)と内容は、写真含めてほとんど同じものです。PDF版=「黒丸踊」・「大村の寿古踊」・「大村の沖田踊」
これら各3ページを閲覧すると、「大村の寿古踊」、「大村の沖田踊」ページには、踊りの起源などが省略されて、いきなり踊りの歌や形態などが紹介されています。ただし、「大村の寿古踊」については「県内では稀な中世芸能の姿を伝えている」との表現で、やや時代の分かる記述もあります。しかし、江戸時代編纂の(大村)郷村記からずっと郡三踊りの起源は、大村藩が創作(偽装)した「大村純伊」伝説と、どれもほぼ全く同じですから、本来は長崎県の紹介文章に「大村の寿古踊」も「大村の沖田踊」も、「黒丸踊」紹介文章と同じような歴史事項を書いておかしくはなかったはずです。 なぜ記述できなかったのでしょうか? それは、なぜでしょうか?
長崎県の文化財に指定されるので創作(偽装)の歴史は記述できなかったのでは
この質問の答えは何も書かれていないので推測するしかありませんが、1970〜1980年代に「大村純伊」伝説含めて大村の偽装の歴史が、市内外で問題化していたことと関係していると思われます。県指定無形民俗文化財の指定年が早かった黒丸踊(1977年指定)には偽装の歴史を書いてしまったが、後の二つの踊り(1980年に文化財指定)紹介文には、「踊り起源として偽装の歴史事項は書けない」と言うことだったと思われます。
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黒丸踊(2005年の本経寺400年祭)
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長崎県の無形民俗文化財に指定される以上、これは当然の処置だったと私は思います。もしも、問題なければ踊りの起源は、先に述べた通り、三つともほぼ同じですから、記述されても当然だったと考えられます。あと、この文化財指定紹介文章(「黒丸踊」・「大村の寿古踊」・「大村の沖田踊」)は、県が全く独自に記述されたものでなく当時の大村市の関係者と充分調整の上で作成されたとも思えます。
また、これら長崎県の当時の「郡三踊り起源を記述している、していない」という紹介文章を見ただけでも、いかに創作(偽装)した「大村純伊」伝説が、当時問題化していたか十二分に分かる事例の一つと言えます。本来なら、「黒丸踊」の紹介文章の方も、後年でもいいから創作(偽装)の歴史事項部分は削除して、改訂すべきことだったと思います。
このように同じ歴史を持つ郡三踊りが、一つは創作(偽装)した「大村純伊」伝説の記述であり、あと二つはその部分は削除した紹介の記述では、おかしなこととも思えます。先の項目と重複した書き方になりますが、郡三踊りを長崎県内あるいは日本全体に今後ますます広めるなら、もう多くの方から疑われる江戸時代の大村藩が創作(偽装)した「大村純伊」伝説は、この際きれいサッパリ削除して、それに替わる長い歴史と踊り様式の表現に変えることが求められています。
そのような正しい内容に改訂されることは、毎年苦労して郷土芸能を練習・保存され、出演の機会に長崎県内外の観衆を魅了されている三つの踊り保存会のご努力に報いるためでもあり、これら歴史事項は正々堂々と正して欲しいと思います。
4)郡三踊りは「戦勝踊り」ではなく格式の高い神事芸能踊りでは
これまで主に歴史事項を書いてきましたが、それとは別に、郡三踊りを民俗学つまり踊りの形態から考えてみたいと思います。(詳細は「郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”」ページを参照)この件ついて、ある大学教授(日本の民俗、日本の祭礼と芸能、東洋の文化担当)が2000年11月に開催された大村の祭りの時に、実際に寿古踊や資料などを見て言われた意見や感想が、概要次の「」内の通りでした。
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寿古踊(ゴザ一枚敷くのは神様の依り代で、ここに神様が降りてくることを意味していると言う)
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「顔を隠して踊る姿は、神事そのものである」、「ゴザ1枚敷くのは神様の依り代(よりしろ)で、神様がここに降りてくることを意味している」、「寿古踊の時、女性の方が日傘を持っておられるが、その日傘には飾りが付いている。これは先祖の供養と言う意味がある」、「沖田踊の長刀(なぎなた)や傘鉾(かさぼこ)、あるいは黒丸踊の花篭(はなかご)や竹竿(たけざお)など、空に向かって立てるものは、神様に捧げる神事である」
また、先に紹介した大村市発行の三踊り公式記録(冊子)にも、上記ほど具体的でも詳細でもありませんが、3冊共通して「芸能の発生を戦勝祝賀に求める例は多く、直ぐに信頼することはできない」などと書いてあります。
つまり、これらを総合して考えれば郡三踊りは、「戦勝踊り」ではなく、むしろ(神社に奉納するような)神事芸能踊りで、もっと格式・格調の高いものと思われます。このように歴史事項だけでなく民俗学の考え方からも、「大村純伊」戦勝踊り伝説では、破綻していると思われます。
5)なぜ法養の没した年は不明なのか
私は、この法養の没した月日が分かっていて肝心な没年が不明と言うのは、以前から興味を持っていました。今回、裏面碑文の(現代語訳で)「(法養は)霜月(陰暦11月)28日に、この所で没した」と言う部分を見て改めて考え直してみました。そして、この件は私の推測ながら、下記二つの説があるのではないだろうかとも考えました。
(1)至極単純に考えて、没した月日以外に記録も伝承もない説
大村純忠時代にキリシタン宣教師から要請を受け、天正2(1574)年にキリシタンが今富城周辺にあった大村家の墓をあばき遺骨は近くを流れる郡川に流し、大村領内全ての神社仏閣の焼き打ち破壊、略奪、僧侶阿乗などの殺害までした事件がありました。その時、過去帳なども含め全ての記録が燃やされたと思います。
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法養の碑(表側)
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そのようなことから、至極単純に考えて法養の没した月日だけ分かっていて、没年が不明だったと言う説です。この説は、特に補足で書く必要はないことだと言えます。
(2)没年が分かっていても意図的に記録しなかった説
次は、
江戸時代に(大村)郷村記を編纂する時、本当は法養の没年が分かっていても、あえて記述しなかったのではないかと言う説です。それは、なぜか? 大村藩は、郡三踊りや大村寿司の起源までも創作して「大村純伊」戦勝祝い説にしています。
そのことから、法養の没年が大幅に創作(偽装)の歴史と違えば困ることでもあります。それで、没年は不明にしている説です。(「大村純伊」伝説については先の項目「2)虚構と言われている「大村純伊」伝説」、もしくは詳細ページをご覧になりたい方は「お殿様の偽装(もくじページ)の<大村純治と「大村純伊」は同一人物では、その2>、「(大村の偽装の歴史や表現一覧表)」などを閲覧願います)
もしかしたら最初の法養の墓に碑文があり、そこに没年が彫られていた可能性もあります。法養は郡三踊りを教えて、それがもとで禄(法養田)までもらった人です。当時それなりの身分だったとも思われます。墓碑には功績内容まではなかったかもしれませんが最低限、氏名、没年月日あるいは建立年などが彫られていてもおかしくはない人です。
しかし、法養の没年と「大村純伊」戦勝祝い説の年代と、大幅にずれていたとしたら直ぐに大村藩の創作(偽装)の歴史がばれてしまうから、それは大変困ることではあります。墓などの碑文には、苔や汚れがつきやすく長年経つと見えにくくなる場合が多いです。<その例として現在の法養の碑でも建立が「昭和4(1929)年1月8日(建立者は)黒丸郷」ですから、まだ新しい方です。それでも裏側碑文は、苔や汚れのため見えにくいためもあり、黒丸町でご存知ない方も多数おられました>
碑文が見えにくいことをいいことに、江戸時代に編纂された(大村)郷村記には、最初の法養の墓碑には、没年月日か建立年でもあったにも関わらず、もしかしたら意図的に没年は記述しなかった可能性はないのでしょうか。今後、法養が住居した所あるいは墓碑周辺から何かの遺跡とか遺物が発掘されて、新事実が判明されることを期待もしています。
後書き
今回、私は黒丸踊保存会や黒丸町の方々と法養の碑や石仏の拓本作業中及び、その前後日も含めかなりの時間にわたって、まるで郷土史・郷土芸能討論会みたいにして話し合いました。皆様から私に対して様々なことを教えて頂きました。また、私からも知っている範囲内で具体的かつ率直に歴史関係を話しました。
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法養の碑案内門柱(黒丸町)
後方左側:黒丸町公民館、右側:法養堂
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このような中で、黒丸町の方は、親しみと尊敬の念を込めて「法養さんが教えた踊りは・・」とか「法養さんの碑の裏側は・・・」と話されていたのが、印象深く覚えています。これは江戸時代に野岳大堤(野岳湖)や赤似田堤など沢山の公共事業を私財を投じて造られた深沢義太夫(ふかざわぎだいゆう)代々に対して、松原・福重地区の方々が、「この堤は義太夫さんが造った・・・」と言われている雰囲気と似ているとも思いました。
間違っても税金で造ったにも関わらず、「あたかも自分の金と力で建設した」ごとく吹聴(ふいちょう)されている、どこかの国のどこかの政治家の評価とは全く違うと感じました。
また、同時に「法養さん」との尊称と親しみは、とりたてて何か飾ったり偽装の歴史である「大村純伊」伝説((戦勝話し、郡三踊と大村寿司の起源)などを用いなくても、地元では何百年間・何十代と自然に受け継がれてきたのだなあと改めて思い直しました。
あと、私は今まで主に自分の地元である福重地区の石仏・史跡調査を主にしていましたが、黒丸町の皆様の心暖まる態度に接して、これまで以上に幅広く市内の郷土史調査もしてみたいと思いました。 最後になりましたが、黒丸町の皆様、法養の碑(裏側碑文)や石仏の調査をさせて頂いて感謝申し上げます。 (ページ完了)
関係ページ:・大村の郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)の起源と様式について 、 ・郡三踊り(寿古踊、沖田踊、黒丸踊)は”神事芸能踊り”
・お殿様の偽装(もくじページ) 、 (大村の偽装の歴史や表現一覧表)
(初回掲載日:2011年12月20日、第2次掲載日:12月22日、第3次掲載日:12月23日、、第4次掲載日:12月25日、第5次掲載日:12月26日、第6次掲載日:12月27日、第7次掲載日:12月28日、第8次掲載日:12月29日、第9次掲載日:12月30日、第10次掲載日:12月 日)
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