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大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など 弥勒寺の熊野権現(郷会場)増築記念碑
 概要紹介
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 記念碑の大きさ
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 碑文の内容
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  ・碑文の現代語訳
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 碑文の評価
準備中
 まとめ
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 ・碑文関係用語解説集ページは、ここからご覧下さい。
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弥勒寺、熊野権現(郷会場)増築記念碑(中央やや右側が記念碑、注:和紙を貼り拓本作業中。奥が熊野権現、左端側が現在の弥勒寺町公民館、)

概要紹介
 
弥勒寺の熊野権現は、弥勒寺町公民館敷地の東側にあります。(右側写真参照。注:記念碑は拓本作業中で和紙が貼ってある)その熊野権現と当時の郷会場(現在の公民館)は、一体の建物だったため一緒に広く大きく増築されたのが、大正13年頃〜大正時代末期頃(1924〜1926年)です。

 その増築を祝って後世に伝えるために建立されたのが、今回紹介します弥勒寺の熊野権現(郷会場)増築記念碑です。碑文には、熊野権現(郷会場)の江戸時代からの歴史、当時の郷民(町民)の建設に当たっての動きや信仰心などが分かりやすい内容で彫られています。ただ、残念なことながら増築と記念碑建立の正確な年月日が彫られていません。

 ただ、碑文に大正13(1924)年頃に増築のための土地購入したことが彫ってあるので、それを参考にすれば先に書いている(1924〜1926)年頃に建物の増築と記念碑建立は、同時期におこなわれたものと推測しています。

 記念碑本体の横幅は77cm、高さは126cmです。地面から土台の石垣や土台石(自然石)含めた全体高は255cmありますので、公民館敷地内では、やや目立つ大きさでもあります。

記念碑の大きさ
 弥勒寺の熊野権現(郷会場)増築記念碑の大きさは、下表の通りです。
表には書いていませんが、地面から記念碑最上部までの全体高は255cmあります。一見、高さも横幅もあり、この時代の記念碑としては大きく感じられるかもしれませんが、表面の由緒書きの文字数、裏面の寄付者の人数などから推測すれば標準的なサイズとも言えます。

弥勒寺の熊野権現(郷会場)増築記念碑の大きさ
 記念碑本体  高さ:126cm  横幅:77cm  周囲:125cm(厚さ約12cm)
 土台石(自然石)  高さ:46cm  横幅:100cm  周囲:300cm
 土台の石垣  高さ:93cm  横幅:138cm  周囲:550cm

 あと、この大正時代末期頃(1924〜1926年)建立の記念碑とは別に、公民館敷地入口付近に別に昭和時代建立の記念碑が2基あります。公民館に向かって右側が昭和3(1928)年、同じく左側が昭和37(1962)年建立の記念碑です。この2基とも、まるで大正時代の記念碑を真似て造られたのか、形や大きさも良く似ているのが特徴です。

碑文の内容
   
弥勒寺の熊野権現(郷会場)増築記念碑実物は、上記右側写真に写っている通りです。この記念碑の拓本作業を2012年10月9日に表面、10日に裏面を実施しました。裏面から先に申し上げれば、ほぼ全て当時の弥勒寺郷(現在の弥勒寺町)の寄付者名と寄付金状況です。そのため、裏面説明は、このページでは省略しています。

 表面は、拓本作業した結果、記念碑の割れや難しい漢字が数文字ありました。そのため、その数文字に限って推測しながら解読した碑文もありました。解読後の文字は、右側GIF画像の通りです。

 右側画像でも明治時代の漢字、カタカナ文字で彫られている碑文なので、年配者の方にはこれだけでも充分分かりやすい内容かと想像しています。ただし、後の項目で現代語訳もしていきます。

碑文の横書き:右側のGIF画像を横書きに直したのが、次からの太文字です。なお、実物の碑文は、右画像の通りの改行や文章の続きです。しかし、横書きにした場合、分かりにくいので、上野の方で読みやすくするために文章の区切りと思えるところには、点、丸を付け、さらには改行もおこなっています。その点、ご了承願います。

増築記念碑
 熊野大権現ハ正保四年大檀那大村丹後守藤原朝臣純信公ノ時、武運長久、領内繁昌ヲ祈願センガ為ノニ建立セラレタルモノナリ。爾来郷民ハ二百有余年間郷社トシテ之ヲ祭リ、旧九月十二日ヲ以テ例祭日トシ、此ノ日ヲ弥勒寺供日トナシタリキ。

然ルニ、明治四年廃藩置縣トナルヤ、佛像ヲ神社ニ祭ルコトヲ禁ジラル。茲ニ於テ熊野権現ノ尊像ハ妙宣寺ノ庭隅に移サレ、風雨ニ晒サレルコト實ニ二十有余念。

敬佛ノ余厚キ郷民遂ニ之ヲ見ルニ忍ビズ、明治二十六年再ビ堂ヲ建立シ、畴キニ妙宣寺ニ移シタル尊像ヲ迎ヘテ、之ヲ祭ラント欲シ、朝長氏ニ賣却シタル宅地ノ一部ヲ 同氏ヨリ寄附ヲ得、二間横四間ノ草堂ヲ建テタリ。

其費用ハ郷民各之レヲ寄附シ又降テ大正ノ代トナルヤ人口ノ増加ト共ニ宅地建物ノ狭隘ヲ感ジ、大正十三年更ニ宅地百四十二坪ヲ購入シ、周圍ニ石垣ヲ築キ堂ヲ増築シ、五間ニ九間トシ瓦葺ニ改ム。

敢テ美ヲ?サズト雖ニ堅固ニシテ實用ニ適ス其費ス所貮千百余圓。而九百余圓ハ郷ノ基本金ヨリ支出シ其残額ハ郷民各之ヲ寄附シタリ。堂ハ神殿、郷会場、青年倶楽部ノ三室ニ分チ、其便利ナルコト言語ニ尽キズ。記シテ以テ之ヲ後世ニ傅ウ。


・碑文の現代語訳:
 上記右側の記念碑(GIF画像参照)の活字版あるいは上記の横書きに直した文章から現代語訳すると、次の<>内の通りと思われます。( )内などは上野の補足や注釈です。実物の碑文やGIF画像版に、点や丸はありませんが、今回読みやすくするために付いています。また、改行も適時おこなっています。

 (熊野権現と郷会場の)増築記念碑 熊野権現は正保4年(1647) 大檀那の大村丹後守藤原朝臣純信(大村純信)公の時に、武運長久、(大村)領内の商売繁盛を祈願して建立されたものである。それ以来、郷民(町民)は200有余年間、郷社(町の神社)として、これを祭り、旧暦9月12日をもって例祭日とし、この日を弥勒寺のおくんちとした。

2012年改築以前の弥勒寺の熊野権現

 しかしながら、明治4年(1871)に廃藩置県(注1)になると仏像を神社に祭ることを禁じられた。この時期、熊野権現の仏像は妙宣寺の庭の隅に移され風雨にさらされることが、実に20有余年となった。仏像を敬う心篤い郷民(町民)は見るに忍びなかったため明治26年(1893)に再び堂を建立し、さきの妙宣寺に移されていた仏像を迎えて、これを祭ろうと希望した。

 朝長氏に売却した宅地の一部を同氏より寄付してもらい(奥行き)4間(約7m)、横幅四間(約7m)の草堂(お堂)を建てた。 また、(時は)下り大正時代となるや人口の増加とともに宅地建物の狭さを感じ、大正13年にさらに宅地142坪を購入し(注2)、周囲に石垣を築き堂を増築して(奥行き)5間(約9m)に(横幅)九間(約16m)として瓦ぶき(屋根)に改めた。美を尽くして建てたのではなく、頑丈にして実用に適したものである。

 その費用は二千百余円であった。そして、その内九百余円は郷(町)の基本金より支出して、その残額は郷民(町民)の各人より寄付した。 お堂は神殿、郷会場(公民館)(注3)、青年クラブ(青年団)の三室(部屋)に分けた。その便利なことは言うに及ばない。これらを後世に伝える。 (注4) 

(碑文解釈上の補足と注釈)
注1:「廃藩置県」とあるが、これは明治維新時の神仏分離令や廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の意味だろう。
注2:建立年月日は碑文にはないが、この「大正13年にさらに宅地142坪を購入し」の内容から想像して大正13(1924)年頃か大正時代末期に郷会場と記念碑はできたものと思われる。
注3:郷会場とは現在の公民館の前呼称である。福重地区にある権現様は、戦後に公民館が出来るまで町内会場として使用されてきた。
注4:この碑文の現代語訳は表面のみで、裏面には寄付者とその金額が彫られている。(このページでは裏面の碑文は省略している)

弥勒寺、熊野権現(郷会場)増築記念碑(中央やや右側が記念碑、注:和紙を貼り拓本作業中。奥が熊野権現、左端側が現在の弥勒寺町公民館、)

碑文の評価
   既に書きました通り、この弥勒寺の熊野権現(郷会場)の記念碑は、残念ながら建立年月日が彫ってありません。それで私の推測ながら「大正13年頃〜大正時代末期頃(1924〜1926年)」としています。ただし、たとえ若干の誤差があっても碑文内容から考えて先の年数幅の範囲内と思われます。

  この碑文全体の内容は、熊野権現が江戸時代、正保4年(1647) に創建された事項から明治・大正時代までの事柄まで簡潔ながら大変分かりやすいものです。さらには、明治・大正時代の弥勒寺郷の郷民(弥勒寺町の町民)の方々が、何を考え、どのように行動されたなどが生きいきと伝わる文章です。

 また、増改築後の状況として(現代語訳)「 お堂は神殿、郷会場(公民館)、青年クラブ(青年団)の三室(部屋)に分けた。その便利なことは言うに及ばない」などの内容は、「増築して良かった」、「自分たちが寄付して出来た建物は便利がいい」みたいな感想や、ちょっとした地域自慢ともとれる内容で、郷民(町民)
の喜びさえ伝わってきます。

 あと、この記念碑は、これ以降に建立された2基の記念碑<昭和3(1928)年と昭和37(1962)年建立>にも影響を与えています。それは、2基の記念碑の大きさや造り(石垣の上に自然石を置き、その上にほぼ同じサイズの長方形記念碑が載っている)が、ほとんど同じと言う点からも明らかです。

 碑文内容もその時代によって内容は当然違いますが、それまでの歴史、当時の状況、なぜ改築をしたか、あるいは寄付者氏名一覧などは、ほぼ同じような流れになっています。そのため、これほど地域の権現や公民館についての経過やその当時の状況の分かっている記念碑(資料)は、市内でも弥勒寺町だけではないでしょうか。あくまでも私の想像ながら、このようなことが出来た背景には、かつて存在した仏教寺院の弥勒寺からの影響、さらには石仏や史跡を長年大事にされてきた地域の伝統みたいなものがあったのかもしれません。

不動明王CG(弥勒寺公民館の敷地内ある)

まとめ
  弥勒寺町には、平安時代末期頃の単体仏(石堂屋敷の単体仏Aなどを参照)弥勒寺の経筒、鎌倉時代中期の弥勒寺の不動明王、中世時代の線刻石仏(上八龍の線刻石仏下八龍の線刻石仏などを参照)など古い石仏が30体ほど集中している所です。このように石仏が集中しているのは全国でも珍しいとも言われています。

 そのような地域にあって、大村純忠時代の1574(天正2)年、キリシタンによる他宗教弾圧事件(神社仏閣の破壊、焼き討ち、略奪、峯阿乗などの殺害事件など)が、発生するまで仏教寺院の弥勒寺(寺領21石)が存在していました。数多くの石仏や寺院などの状況が、有形無形問わず地域に何らかの形で影響を与え、さらには根付いて現代を迎えていると思われます。

  そのような地域性の一つが、この熊野権現(郷会場)記念碑の内容にも現れているような気がします。権現自体は、大村市内には沢山ありますが、碑文内容からして、この熊野権現や郷会場(公民館)は、時代に合わせるかのように新たな工夫と進展をとげてきたことも分かります。そのようなことが、他の町内にも影響として与えています。ある種、福重地区などにおいて弥勒寺町内は、先駆的な役割を果たしていたことも分かります。


 これまでの経過含め、今年(2012年)11月18日に熊野権現の改築落成祝いをされたのは、弥勒寺町の大昔からの伝統や努力の結果と思われます。私は、当日開催された郷土史講演会において、弥勒寺町の評価にあたって、次の3項目のまとめをしました。

 1)熊野権現を立派に改築された力は、町内のまとまりの良さである。  
 2)弥勒寺町は、長年ずっと石仏や史跡を大事にされている。
 3)弥勒寺町は、観光客の方へ、おもてなしの心がある町内である。
このようなことが、弥勒寺町の隆盛と発展につながっているのではないだろうか。

 今回の記念碑内容や今年の改築状況を身近に接して、先のまとめみたいなことは今後も変わりなく続けていかれるような思いがしました。

(初回掲
載日:2012年11月14日、第2次掲載日:11月15日、第3次掲載日:11月16日、第4次掲載日:11月18日、第5次掲載日:11月22日、第6次掲載日:11月23日)

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