福重小学校・郷土史クラブ(福重小学校の歴史、2校の分教場跡の見学)
日時:2022年12月6日14時35分~15時20分
テーマ:福重小学校の歴史、立福寺分教場跡、重井田分教場跡の見学
場所:立福寺町、重井田町の分教場跡
出席:全体11名(児童6名、先生2名、市教委・安樂さん、岡田さん、上野)
用語解説:分教場(ぶんきょうじょう)=「本校の所在地以外に、特に辺地に分設した教場。現在は分校という。(広辞苑の解説より)
注:写真は順不同で上からの順番に意味はない。
・「2校の分教場」関係ページ:(記念碑などのシリーズの)「福重小学校・立福寺分教場跡の記念碑」 、(名所旧跡の)「重井田分教場跡」 、 (史跡説明板の)「重井田分教場跡」
今回の主な内容:1)立福寺分教場跡(りふくじ ぶんきょうじょう あと) 、2)重井田分教場跡(しげいだ ぶんきょうじょう あと)などの見学
この日、参加者は、ワゴン車など2台の車に分乗して、小学校を出発しました。学校より遠い2カ所の所だったので、今回ほぼ見学が中心でした。そのため、説明時間がなかったので、下記点線内の資料(しりょう)を配りました。
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1) 立福寺分教場跡(りふくじ ぶんきょうじょう あと)
場所(ばしょ):大村市 立福寺町 (ここに下記(かき)の記念碑(きねんひ)がある)
<記念碑について>
建立年(こんりゅうねん) :昭和48(1973)年2月19日
大きさ:本体は高さ68.5cm、幅20cm、周囲80cm
文字(もじ)は、下記のとおり。
立福寺分教場跡 福重小創立百周年記念 昭和四十八年二月十九日建立
明治十二年八月より しばらくで廃止する
(注:廃止(はいし)=やめること)
補足説明(ほそく せつめい)
1)上記(じょうき)に「明治十二年八月より しばらくで廃止する」とあるので、この立福寺分教場があったのは、1879(明治12年8月から、短い間だった。
2)学んでいた子どもたちは、重井田町と立福寺に住(す)んでいた子だろう。
3)なぜ分教場があったかついて、当時の(とうじ)、本校(ほんこう)のあった寿古町まで通学(つうがく)するのに坂道(さかみち)が多く、遠(とう)かったのと、道路(どうろ)が狭(せま)かったためと思(おも)われる。逆(ぎゃく)に先生も、この分教場に通(かよ)うのは、苦労(くろう)した。
・上記の関係ページ:(記念碑などのシリーズの)「福重小学校・立福寺分教場跡の記念碑」ページ
2) 重井田分教場跡(しげいだ ぶんきょうじょう あと) 場所(ばしょ) :大村市 重井田町 ここに下記(かき)の記念碑(きねんひ)がある。
<記念碑について>
建立年(こんりゅうねん) :昭和48(1973)年2月19日
大きさ:本体は高さ68.5cm、幅20cm、周囲80cm
文字(もじ)は、下記のとおり。
重井田分教場跡 福重小創立百周年記念 昭和四十八年二月十九日建立
(注:次からの<>内は補足(ほそく)と、分かりやすくするために書いた)
自 昭和四年三月 至 〃 十二年四月 <開校期間は1928(昭和4)年から1937(昭和12)年4月まで>
補足説明(ほそく せつめい)
重井田町から当時の皆同町にあった福重小学校の本校へ通学(つうがく)するのは、道路(どうろ)が狭(せま)く、なかなか大変(たいへん)だった。そのため道路(どうろ)が良くなる間(あいだ)までとのことで、重井田分教場が1928(昭和4)年から1937(昭和12)年4月までの約8年間あった。
重井田分教場は、平屋(ひらや)で、まわりに小さな広場(ひろば)、庭(にわ)や池(いけ)などもあった。 また、この分教場ができたとき、お祝いに重井田浮立(ふりゅう)が踊(おど)られた記念写真(きねん しゃしん)が(写真6)のとおりにある。その写真の後方(こうほう)に小さな校舎(こうしゃ)が写っている。あと、町の人が写っている所(ところ)は、運動や遊ぶための広場(ひろば)=運動場だった。
・上記の関係ページ:(名所旧跡の)「重井田分教場跡」 、 (史跡説明板の)「重井田分教場跡」
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<次回の福重小・郷土史クラブは、2023年1月 日14時35分~
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2022年度の関係ページ:「2022年9月20日、郷土史クラブでの講話報告」 「2022年11月6日、郷土史クラブ、沖田踊(楽器や衣装などの見学)報告」
・関係ページのリンク先:「福重小学校の紹介、もくじ」 「福重小学校の歴史」 「福重小学校の開校の歴史」 「福重小学校の150周年の歴史(講話内容)」 「2022年3月30日、校舎改築事業(建て替え)説明会(概要報告)」
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