福重小の紹介 |
福重小学校・運動場(経過と工事などの紹介) | |||||||
2005年1月15日撮影の福重小学校(敷地全景)・運動場(運動場全体は2023年12月現在、新校舎の建設工事中で、上記とは全く違う状態)
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1947年11月7日、福重小学校の航空写真(米軍撮影写真をトリミング) | 1956(昭和31)年頃の福重小学校(木造校舎、運動場、福重幼稚園など) | ||||||
運動場の大きさや特徴 注1:福重小学校の現在地の元々の敷地では、平地部分は、ほぼ全て運動場だった。ただし、校舎、宿直室や築山などがあった所は当然、運動場面(平地)よりは高かった。運動場の東西南北の場周道路、体育館、相撲場、記念碑や花壇などは、全て後年にできたものである。 注2:上記通り、当初の運動場の敷地は、後年に様々なものが出来たため、その東西間、南北間とも変化している。また、2024年12月10日に竣工予定の新校舎、さらには、その後の現在の3校舎などが解体、撤去されて運動場の工事が完了すれば、トラックの向きも含めて運動場全体が変わる予定である。 下記の大きさは目測である。1)は主に当初からの運動場の大きさで、2)は2023年の運動会まで実際に良く使われてきた大きさである。 1)鉄棒の西側の溝(境界)から東校舎の花壇までの東西間:約122m、体育館近くの場周道路から相撲場近くの場周道路までの南北間:約83m 2)西側と東側の場周道路の端の間=東西間:約104m、体育館近くの場周道路と相撲場近くの場周道路の運動場用の南北間:約76m 補足:通常は、この2)の方が運動会などに使われている運動場の広さと同じで一般には、この敷地が運動場として認識されていると思われる。 運動場の経過
・1872(明治5)年8月に寿古町に開校した当時は、福重村役場の敷地内だったので運動場と言っても農家の庭程度か、広くても現在の幼稚園(保育園)の広場位の広さと推測される。 ・1893(明治26)年9月、皆同町(現在の福重地区住民センターと郡川の間)に学校が移転された時から本格的な運動場が設置されている。その広さは当時の詳しい航空写真はないが、戦後の写真から想像して、150mのトラックができる以上はあったと思われる。 ・1945(昭和20)年4月、現在地の福重町に学校は移転した。しかし、終戦を迎えるまで本格的な校舎も運動場もなかったと聞いている。その後(9月頃)より簡易的校舎とともに、徐々に運動場も保護者や青年団などの奮闘で整備された。(右側の戦後のアメリカ軍撮影の航空写真参照) なお、右側写真中央部右側に写る木造2階建て本館校舎は、同年11月頃に皆同町から移築、完了したものである。 ・1945年当時のトラックの長辺(向き)は、南北間で、後年プールが完成する頃(1969年)までは変わらなかった。 ・現在の体育館北部にプール建設時、地面を掘るために大量の土砂捨て場(埋立地)の必要性があった。その埋め立て地として、それまであった(現在の九州電通の東側で、運動場西側)の学校の田んぼが当てられた。結果、運動場が相当広くなり、同時にトラックの向きも変わり、その長辺が東西間に変わった。この向きは、2024年12月に竣工予定の新校舎建設工事前まで(2023年10月の安全祈願祭まで)は変わらなかった。 ・現在工事中の3階建て新校舎が2024年12月10日に竣工した後、2025(令和7)年1月〜2026(令和8)年3月の間に現在の3校舎が全て解体、撤去される予定である。その後、運動場も整備されると、その時には福重町(1945当時は矢上郷)に学校が移転された時と同じく再度トラックの向き(長辺)は、南北間に変わると推測される。また、2020年7月6日に発生した大村水害(運動場が冠水した)教訓から、運動場の地面が40cmほど上げられる予定と聞いている。 当初の運動場敷地に様々な諸設備を設置 この項目の結論から先に書くと、現在地に移転した当初からしばらくの間、ほぼ何もなかった運動場敷地に体育用具入れ(倉庫)、鉄棒などの体育設備。体育館、相撲場、記念碑類、卒業記念植樹、場周道路、花壇、臨時図書室などが造られたということである。 このページ上部から2番目の「1947年11月7日の福重小学校の航空写真(米軍撮影写真をトリミング)」や「1956(昭和31)年の福重小学校(木造校舎、運動場、福重幼稚園など)」でも分かる通り、戦後、大村市立福重小学校となった頃(現在地に移転した当初の頃)の運動場は、何もない状況だった。また、トラックの向きも南北方向であった。 その後、「福重小学校、古写真」ページの運動場含めた変遷でも分かる通り、例えば周囲の植栽(樹木)、体育用具入れ、鉄棒などが、まずは設置されたようだ。また、本館校舎の壁にある「1968(昭和43)年の新校舎写真」パネル写真説明文に「昭和45年に相撲場完成。昭和47年に運動場が拡張された。翌48年には体育館が完成し、創立100周年を迎えた。」と書いてあるのを参照すれば、次のことも分かる。 それは、時系列は不明ながらも相撲場、野球のバックネット、遊具、体育館、花壇、創立100周年記念碑や各卒業などの記念碑類、場周道路、クラブ活動用具倉庫なども造られた。 なお、そのような設置状況が良く分かるのが、このページ最上部か右側の航空写真といえる。あと、この写真には、写っていないが、3校舎での教室不足を補うため、2022年3月頃に、それまで本館校舎にあった図書室が、体育館前の運動場内に臨時図書室が造られている。 また、現在地に移転当初から1973(昭和48l)年以降までトラックの向きは南北方向だった。しかし、時期不明ながら運動場西側にあった田んぼが埋め立てらたことにより、かなら運動場が拡張されて、1973年頃からトラックの向きが東西方向に変わった。 2024年12月10日、3階建て新校舎竣工後、運動場は、どうなるのか |
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上図の中央部左側=新校舎部分と、その右側が一部分を除きげ現3校舎などの解体・撤去・外構工事を経て運動場となる 新しい運動場は、右側もしくは下記のパース(想像図)を参照 |
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2024年12月10日に竣工予定の3階建て新校舎についての大村市教育委員会から、これまで2回〈「2022年3月30日、福重小学校・校舎改築事業(建て替え)説明会(概要報告)」と「2023年4月21日、福重小学校・校舎改築事業説明会(概要報告)」の両ページを参照〉の説明会があった。 先の「2023年の設営会説明会」時に配布されたパース(想像図)=仮設計画(2)」(上部の図面参照)から説明する。この図面の上部から時計回りで、現在の「本館校舎」 「東校舎」 「南校舎」の3校舎が薄い灰色で表示されている。 そして、先の説明会の予定通り3階建て新校舎が2024年12月10日竣工後、上野の予測ながら、まずは翌年2025年1月の3学期に現在の3校舎にある様々な必要な物などが、新校舎に移設されるであろう。 さらに、工事予定に沿って現在の「本館校舎」 「東校舎」 「南校舎」の3校舎とも解体、撤去、外構工事の後に、運動場に変わる。そして、先のパースでは分かりにくいが、運動場のトラックの向きは、従来の東西間と違って、南北間と変わると思われる。(つまり、戦後間もない頃の向きに戻るのではないか?) これまでの運動場での思い出など (この原稿と写真は、準備中。しばらく、お待ちください) |
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・福重小学校の校舎などの関係ページ「本館校舎」 「東校舎」 「南校舎」 「体育館」 「運動場」 |
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初回掲載日:2024年1月3日、第二次掲載日:1月6日、第三次掲載日:1月10日、第四次掲載日:1月12日、第五次掲載日:2月26日、第六次掲載日:3月9日 |
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