福重の伝統芸能 |
今富浮立 |
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今富浮立、総練習時の記念写真(2011年9月11日撮影) | ||||
2011年 第93回福重地区敬老会へ出演、今富浮立の記念写真(2011年9月19日撮影) |
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名称:今富浮立(いまどみふりゅう) 場所:長崎県大村市今富町 説明:今富浮立の歴史ついては、諸説ある。浮立自体の系統は佐賀系の浮立であるが、大村の『田下浮立』と『鈴田浮立』の両踊りが合作されるような形で、当時の今富郷に根付いたものと推測される。その後、例えば太鼓や鐘などは他地域から踊りの都度借りるなどして練習や本番などで大正時代も踊られたと思われる。また、この『今富浮立』が踊られる前は、この地で「龍踊り」があったとの伝承もある。 今富浮立の踊り開始年(起源)について 今富浮立の開始年(起源)については、福重青年団史や今富浮立保存会に残されている戦後しばらくして書かれたと推測される今富浮立「郷土民芸 今富浮立由来記」(以降「由来記」と呼称する。注=これは踊りの前に挨拶される口上書みたいなもの)が参考になる。それらによると、今富浮立の開始年(起源)は、次の二つの説が挙げられる。 1) 福重青年団史によると、今富浮立保存会・初代会長だった御厨(みくりや)氏によると「自分が12歳の頃(大正14=1925年)に今富で最初に踊った」との証言が書いてある。 2) 「由来記」によると、1927(昭和2)年11月7日に建立された福重村招魂碑(現在の福重地区の招魂碑)の祝いに踊られたと書いてある。さらにいえば、この招魂碑は今富の大神宮境内にあるので、その完成祝い目的で郷内(町内)挙げて、この浮立の習得をしようとの趣旨も記述されている。(ただし、これは他の町=当時の福重村の人にも見せる披露日であって、この踊りの習得や練習も含めれば相当前から踊りが開始されていたのは当然のことである) 先の1)と2)は一応上記通り分けて書いたが、併せて考えれば、両説に矛盾はない。何故なら当時の今富郷(町)内では、大正末期(大正14=1925年)頃から踊れていて、それを福重村招魂碑の建立時の1927(昭和2)年11月7日に福重村の人にも見てもらったと考えられるからである。 なお、この当時は自動車など一般には無い時代で、道路事情も狭くて悪い状況であった。そのため、踊りを教えた指導者の(萱瀬村の)田下の人も、その後の西大村の青年の人も大変な苦労があった。また、この当時、大人が主の浮立だった(現在は子どもも数十名出演)ので、指導者も習う方も昼の仕事が終わった後の習得や練習だったので、それ相当の期間を要したと思われる。 あと、踊る時に使用される鐘=鉦(かね)があるが、ここに年号と製作者名入りがある。それは「昭和3(1928)年」、「昭和7(1932)年」の年号と、西村作の刻名入りである。この年号でも分かる通り、この年号頃に今富浮立は道具一式含めて今富独自の踊りとして確立されたものと思われる。 その後、戦争中を除き戦前は、福重村の敬老会や運動会あるいは今富郷での祝宴などで継続して踊られていた。戦後については、1949 (昭和24)年、当時の矢上郷(現在の福重町)妙宣寺の鐘つき堂落成祝いで披露されたのが、戦後初めてのことだと言われている。 浮立の形態は、掛打ち踊りと大太鼓(月ノ輪)を打ちながら舞う大太鼓舞の複合の浮立である。曲数は少ないが、よくまとまっている。ササラが付き、掛打ちは面を付けない。 浮立の順番は、幟(のぼり)−ササラ−掛打ち−笛−大太鼓−モラシ−鉦(かね)の順に行進し上演する。 踊りの構成は、道行きと庭入り、かえしから成り、中心は、大太鼓(月ノ輪)打ち舞いである。曲数は、道ばやし、ふうがんどん、兵庫、まくりの四種目がある。 なお、今回掲載しました2枚の『今富浮立』写真は、2004年9月19日に開催されました第86回福重地区敬老会の時に撮影したものです。(掲載:2003年12月1日、追加文及び写真掲載:2004年11月20日) |
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今富浮立の記念写真 下記2枚の今富浮立保存会の記念写真は、今富町公民館にあったものです。 (1) 1983年11月3日今富浮立記念写真の補足説明 |