大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など | 福重の防空壕内海軍指揮所跡 |
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(写真1) 大村市今富町(大神宮の北側の下部にある)福重の防空壕内海軍指揮所跡 写真やや左の金網や掲示板の後ろに一か所、写真右端側にもう一か所の防空壕がある) 手前側は市道で、この道路を挟んで撮影側は弥勒寺町である。 |
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海軍指揮所-----戦争中、福重や大村市内に指揮所は何カ所もあったので、この場所はその内の一つである。 福重の防空壕内海軍指揮所跡の概要(注:この項目は箇条書きの概要のみで詳細は後の項目を参照) ・名称:福重の防空壕内海軍指揮所跡」(ふくしげ の ぼうくうごうない かいぐん しきしょあと) 両方の防空壕に向かって仮称として左側が「防空壕その1」、右側が「防空壕その2」と称する。 注:「海軍指揮所」は地域伝承によれば、今回紹介の場所以外にも、別に数か所あったと言われている。
・場所:大村市今富町、主に大神宮の北部側にある山林の下部にある防空壕2か所を今回は紹介。他にも防空壕内の指揮所はあった。 ・記録:正式な記録類は見つかっていない。そのため、地域伝承と「放虎原は語る(大村市発行)」の付録地図をもとに書いた。 ・右側の地図について:この画像は「放虎原は語る(大村市発行)」の付録地図から紫色の円を中央上部にして、トリミングしたものである。なお、画像の上方向が北である。この紫色の円内に「福重壕内指揮所」の文字が縦位置の横書き文字である。この円内には、今回の防空壕2カ所以外にも福重砲台(通称「今富砲台」)、他の防空壕、さらに兵隊が居住した三角兵舎なども含まれているようだ。紫色円内は、直径500m位あり、かなり広い面積を表している。 二うの防空壕「その1」と「その2」について 1) 名称:福重の防空壕内海軍指揮所跡 (仮称ながら)「防空壕その1」(写真2参照) (仮称ながら)「防空壕その2」(写真3参照) 2) 大きさ:上記の「防空壕その1」と「防空壕その2」とも入り口面部分は目測ながら直径4m弱。入り口から奥へ見えている部分だけの所では3m弱位か。そして、さらに奥になれば、もっと狭くなっているようだ。
3) 防空壕内の奥の状況:現在は防空壕は、ふさがっているので奥は見えない。そのため、地元証言によれば「奥の長さは数十メートルあり、2本の防空壕は途中で1本に繋がっている。そして、大神宮(今富町)の北側にある一の鳥居近くの斜面に穴が空いていた」と言うことだった。 4) その他(地元の伝承より) ・戦中は何か機械みたいなものがあった。 ・戦後、子どもの頃、防空壕に入り、コウモリ捕りして遊んだ。 ・戦後、何かの理由で出火して大騒ぎになった。 ・この二つの防空壕とは別に、近くの民家横に小規模の防空壕(民間用)が二つあったが、戦後、二つともふさがった。 海軍指揮所についての地元証言 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ち下さい) 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) ・関係ページ:「皆同砲台」 「福重砲台(通称「今富砲台)」) 「野田機銃台」 「箕島砲台」 「諏訪砲台」 「福重空襲」 「終戦前後の福重地区、戦跡(空襲、戦災)概略図」 「福重飛行場」 「福重飛行場跡の史跡説明板」 「福重小学校の歴史」 (初回掲載日:2024年2月5日、第2次掲載日:2月15日、第3次掲載日: 月 日、第4次掲載日:月 日) --------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・ <古写真や資料提供のお願い> 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 下記3講演内容の詳細報告 | 掲載中 |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 2012年6月25日・桜ヶ原中学校での講演(概要報告) | 掲載中 |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 2012年8月9日・郡中学校での講演(概要報告) | 掲載中 |
関係HP | (増元氏の)大村空襲の講演 | 2006年11月25日・福重小学校での講演(注:主に写真のみ) | 掲載中 |
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