大村空襲・戦災・戦争遺跡・記録など | 竹松小学校の空襲 |
もくじページへ戻る | |||||||||||||||||||||||||||||||||
(写真1) 中央部の白色で長い建物周辺が竹松小学校の1944年当時の校舎 (写真の左側上部の薄い一直線は国鉄・大村線,、下部の道路は国道34号線) 中央部左側の(黒色の)木立は皇天宮(神社) <上記写真は「軍都」大村の歩みと市民の6~7ページの写真をトリミングしたもの> |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
(写真2) 竹松小学校の1944年当時の校舎----上記の(写真1)から、竹松小学校周を中心に縦位置でトリミングした同じ校舎写真である。<上記と同じく写真は「軍都」大村の歩みと市民の6~7ページのから複写した> 上野調べながら、戦前(空襲前)の竹松小学校などについて記載されている書籍類(数冊の本)には、航空写真だけでなく、普通目線で写してある校舎(風景)写真も掲載は、ないようだ。その意味で、甚だ不鮮明ながらも(写真1と2)に写る竹松小学校の校舎写真は、珍しいといえる。 (写真1と2)の撮影年は、上記通り1944(昭和19)年当時だ。しかし、この写真が空襲前か、空襲後かまでは、正確には不明である。ただし、上野の推測ながら、校舎の状況からして、まだ空襲前と想像される。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
|
|||||||||||||||||||||||||||||||||
竹松小学校の空襲を書くきっかけ 上野は、「2024年2月26日、竹松小学校・図書ボランティア・講話(概要報告) 」ページ通り、初めて同校内で「竹松小学校の空襲」を話した。そして、先の「講話(概要報告) 」ページとは、別のページに、もっと補足文、写真や図などを多くして、より詳細に書いていこうと考えたのが、今回掲載のきっかけである。 --------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・ |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
注:下表は、主に「竹松小学校・創立百周年記念誌」の年表を参照して、竹松小学校の空襲関係を中心とした年表である。なお、上野が他の書籍類を参考にして、一部推測して書いた事柄もある。 そのようなことと、下表の事柄について、今後も追加(補足)、改訂を繰り返す予定なので、あくまでも参考程度に、閲覧願いたい。念のため、もしも、引用される場合は、必ず先の原本や地域の方への聞き取り調査などを実施して頂きたい。 注:下記項目を分かりやすくするため、太文字、( )内、その他は、上野が補足して付けた。また、表の色分けは、分かりやすくしているだけで、何の意味もない。 |
|||||||||||||||||||||||||||||||||
まず、標題の答えを書くと、それは次の2項目に集約されると考えている。ただし、両方とも同種同内容であるが、あえて分かりやすくするために2項目に分けて、内容もできるだけ重複は避けるように書いてはいる。それでも両方とも関連があるので内容が重なっている点は、あらかじめ、ご容赦願いたい。
1) 竹松には広い軍事施設があった 2) 竹松には航空戦力があった 1) 竹松には広い軍事施設があった。 次に(写真2)と(画像A)を参照願う。この両方からも当時の竹松地区に広い面積として確認できるのが、大村海軍航空隊である。この詳細は、リンク先ページから参照願うが、極簡単に大きさ(広さ)だけを書くと草地の滑走路だけでも南北1600m,東西1400mあった。 さらに誘導路、掩体壕、駐機場、無線設備などの飛行場周辺諸施設含めれば東西・南北とも2000m位の広さがあった。念のため、従来説では、滑走路の規模だけを長年書籍などに表記されてきた。 しかし、この滑走路表記だけでは、単なる飛行機の離発着の限定施設である。(現在の長崎空港を見ると、それが良く分かる) 実際は、誘導路、掩体壕や、兵隊が住んでいた兵舎などの飛行場周辺諸施設も含めないと、大村海軍航空隊としては機能しなかったのである。そこも含めて、私は「大村海軍航空隊の飛行場は東西・南北とも2000m位の広さがあった」と表記していくのが、より正確で正しいと思っている。 次に、竹松地区の宮小路から福重地区の沖田町にかけてあったのが、第352海軍航空隊(通称「草薙部隊」)である。ここは、上野推測ながら南北約950m、東西約 350mの広さがあった。 このように竹松地区にあったは、先の二つの軍事施設大村海軍航空隊、第352海軍航空隊)だけでは、当然なく、それ以外にも軍事施設は、何カ所かあった。。
2) 竹松には航空戦力があった あと、先の大戦の勝敗を決するのは、航空戦力(下記の用語解説を参照)だったといわれていた。それで連合国(アメリカ軍)が、恐れ警戒していたのが、大村市内の場合、主には、「大村海軍航空隊」、「第352海軍航空隊(通称「草薙部隊」)」、「第21海軍航空廠(航空機製造工場」であった。念のため、航空戦力と直接結びついていない他の軍事施設ならば、他にも陸海軍含めて沢山あったのは言うまでもない。 第21海軍航空廠の場合、1944年10月25日の空襲により、この1回の空襲だけでも航空機製造工場は壊滅的被害と犠牲者も沢山でた。そして、この工場は、その後の終戦まで再建できないほどの大被害だった。それらの工場施設に比べて、飛行場あるいは飛行機は、1回の空襲のみで全損とはいかなった。なぜなら、草地の滑走路は、コンクリート製に比べて復旧は、容易だからだ。 また、飛行機への空襲を未然に防ぐために数は多くはなかったが、機体を隠して守るコンクリート製の掩体壕(一例:「(下原口公園の)掩体壕」や、縄製の網などで隠したカモフラージュの駐機場などに移設も可能だったからだ。また、飛行機ゆえに全国から、まだ飛べる飛行機を大村へ移動させてもいた。(例えば愛媛県の松山からも航空隊が大村に来ていた) そのため、竹松地区では、アメリカ軍が、主には大村海軍航空隊や第352海軍航空隊を狙い、繰り返し空襲をおこなっていた。 そのアメリカ軍が空襲時に機体に付けたガン・カメラで撮影したと思われる1945(昭和20)年3月18日の写真は、竹松地区への空襲が激しかったことが良く分かるものだ。(詳細は上野発行の冊子「竹松地区の空襲」掲載の写真などを参照) <用語解説>(下記はデジタル大辞泉の解説より) ・エア‐パワー(air power)=1 一国の空軍力。また、強力な航空戦力を持つ国。空軍国。 2 航空に関する国家の総体的な能力。 ・制空権=戦時または非常の事態に際して、主に航空兵力によって一定範囲の空域を支配する権力。 竹松小学校の空襲や疎開授業 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 空校舎の再建と現在地での授業開始 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) 補足 (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) ------------------------ ・関係ページ」「2024年2月26日、竹松小学校・図書ボランティア・講話(概要報告) 」 冊子紹介「竹松地区の空襲」 「大村海軍航空隊」 「第三五二海軍航空隊(草薙部隊)」 (初回掲載日:2024年4月17日、第2次掲載日:5月17日、第3次掲載日:5月23日、第4次掲載日:5月30日、第5次掲載日:6月1日、第6次掲載日:月 日、第7次掲載日:月 日、第8次掲載日:月 日) --------------------・・・--------------------・・・--------------------・・・ <古写真や資料提供のお願い> 戦前の写真、資料類は、極力収集に努めていますが、全て上野の一人作業のため、まだまだ、少ない状況です。どなたか、ご提供あれば掲載を考えますので、どうか、ご協力願います。(メールは、このページからお願いします) |
もくじページへ戻る |