福重の写真集 その634 |
2024年2月26日 竹松小学校・図書ボランティア・講話(概要報告)
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(写真1) 竹松小学校の図書ボランティアの皆様と、右端側は図書の先生(2024年2月26日撮影) | |||||||||||||||||||||
竹松小学校・図書ボランティア・講話(概要報告)
今回講話の2テーマ 1)郡川の河童伝説 、 2)竹松小学校の空襲 <主な内容> 1) 郡川の河童伝説 ・名称について----この河童伝説は、正式名称は史跡説明板通り「鬼橋町水神淵の線刻河童」ですが、通称では「郡川の河童伝説」が有名です。(そのようなことから今回の講話では。「郡川の河童伝説」で名称を統一して話しました) ・場所について------この地図の通り、鬼橋町も流れている郡川に架かる鬼橋より、上流側へ約260m行った右岸側での伝説です。その右岸の約30m東側に大きな葛城ため池(葛城堤)があります。その下側の市道から車で降りていくと、郡川河川敷の駐車場や広場があります。その広場横に水神や河童が彫られた大きな自然石があります。また、その脇には、大村市教育委員会設置の「鬼橋町水神淵の線刻河童」の史跡説明板や案内標柱があります。 なお、(こことは反対側の)左岸側の堤防道路に案内板多数と河童の像がありますが、この河童伝説の舞台は、右岸側です。 ただし、この左岸側は、春には桜や菜の花が咲いて綺麗です。また、河童伝説のイベントも多くが、この場所で開催されているようです。 ・水神淵は現在はないが----先に述べた通り、河童伝説の舞台は、郡川の右岸側にあった(広くて)深い「水神淵」でした。何故この名称かは、近くに水神社が祀られていたからでしょう。主役(主人公)は、この淵に住んでいたという河童たちです。この河童は、下記の史跡説明板でも分かる通り、地元の役人の芝江氏の水神祭(神事など)に出席したり、その後の宴会にも参加したというように実に人懐こい、親しみやすい河童たちだったようです。だからこそ、長年地元で祀られてもきたのでしょう。 なお、先の「水神淵」は、上流側に大きく頑丈な井堰(用水路に水を供給するための堰のこと)ができたため、現在、淵はないです。また、水神社もかつてはあったのですが、郡川の洪水で流されて無くなりました。今は、大きな自然石に線刻模様で水神と、その女神様を支えるようなポーズで河童が2匹彫られています。(詳細な説明は、下記の青文字の大村市教育委員会設置の史跡説明板を参照) 大村市教育委員会設置の史跡説明板には、次の「」内青文字が書いてあります。なお、ホームページ表示で見やすくするために改行、その他、一部を変えてますので参考程度に閲覧願います。もしも、引用されるならば、必ず実物の史跡説明板からして頂きたいです。 重要指定文化財 鬼橋町水神淵の線刻河童 かつてこの場所には、昼でも暗く深い水神淵と呼ばれた淵がありました。この淵に、水神の使いとされる河童の伝承が伝わっています。淵には十数匹の河童たちがすんでいて、江戸時代に当地の役人だった渋江氏が行う水神祭に加わり、奉納相撲や神事の後の宴に参加したと伝えられています。渋江氏は、奈良時代の貴族・橘氏を祖とする古い家柄で、水神信仰はその時代から続くともいいます。 いまここに残っている巨石には、水神・岡象女神(ミズハノメ。郷村記に十一面観音菩薩が本地と記す)と、その足元に二匹の河童の姿が刻まれています。 河童は流れに上半身を出し、川面を進む水神を支えるように両手を上げています。江戸時代に荒瀬に住んだ一族が、毎年この場所で荒瀬、葛城、原ロ、九郎丸の住民とともに、生活・灌瀧用水の安定を祈りました。当地の先人たちが残した水神と河童たちは、いまでは郡川の自然を守る象徴として、地域の人々に大切にされています。 --------------------・・・---------- 2) 竹松小学校の空襲 <竹松小学校の空襲関係を中心とした概略史>(下記は「竹松小学校・創立百周年記念誌」の年表を参照して作成した。分かりやすくするため、一部の推測記述と、太文字、その他は上野が補足した。そのようなことから、下記年表は、あくまでも参考程度に閲覧願いたい) ・1873(明治6)年3月25日----開校(大村市内では福重小•松原小•鈴田小についで4番目に古い小学校) ・1944(昭和19)年10月25日----大村大空襲(第21航空廠=航空機製造工場)を中心とした実質的には大村市内での初空襲(犠牲者は一説では約260名〜約300名、詳細は調査中) 注1:上記以降、約25回位も1945(昭和20)年の終戦まで空襲は続いた。 注2:竹松地区と竹松小学校への空襲(記録が残っていて、また鮮明に分かる範囲内で下記の通り) ・1945(昭和20)年3月18日-----竹松地区にあった 「大村海軍航空隊」(草地の滑走路だけでも長さ1600m、幅1400m。実際は東西南北2000以上の広い敷地のあった飛行場)へ猛烈な空襲----この時の米軍撮影の航空写真参照。竹松小学校周辺も被害が出たと思われる。 ・1945(昭和20)年5月9日-----(竹松への)空襲が熾烈となり坂口郷(町)の井石氏宅を仮校舎で疎開授業を始めた。 ・1945(昭和20)年7月5日、7日----竹松小学校へ空襲、校舎の被害は甚大。 ・1945(昭和20)年8月15日-----終戦 ・1945(昭和20)年9月24日、元の小路口工員宿舎を仮校舎として移転。 (同時期頃から空襲に遭った)竹松小学校の校舎を約9ヶ月間かけて復旧工事をおこなったと思われる。 ・1946(昭和21)年5月7日-----本校舎が完成し、授業含めて(学校全体が)復帰した。 ・1947年4月1日-----大村市立竹松小学校となる。 --------------------・・・---------- まず、竹松の空襲については、私が発行した冊子「竹松地区の空襲」(2021年8月8日、A4サイズ16ページ)がありますが、この内容を話すと短時間では話せないので、今回は「竹松小学校の空襲」に絞っています。 配布資料の竹松小学校の概略年表(上記を参照)を、ご覧願います。ここにも書いてますが、大村市内で実質的な空襲は1944(昭和19)年10月25日です。この時、一説では約260名とか約300名とかの犠牲者がありました。この中には市内、県内外の中学生(学徒動員、女子挺身隊)も多数亡くなられています。 この時の空襲は、西大村地区を中心とした海軍第21航空廠(航空機製造工場)が爆撃されました。ただし、隣の竹松地区は、「被害無し」と言えるかどうか、正確には不明です。しかし、当時の爆弾やロケット砲は、現在、ウクライナでの戦争で使用されているGPS誘導ミサイルのようにピンポイントで当たるのではなく、上空から落とせば流れ弾みたいにして工場だけでなく、竹松地区などの周辺部にも爆弾が落ちた可能性があります。私は、その正確な記録が無いだけで、竹松地区にも被害は遭ったと思っています。
小さな黒点は、戦闘機や練習機で、やや大きいのが中型爆撃機でしょう。そして、各所で黒煙が、たくさん上がってます。ただし、単に飛行場だけの被害かというと、そうではなく、その周辺の住宅地あるいは竹松小学校周辺も被害出ていたことは、想像に難くないことです。 このように1945年春頃から竹松地区への空襲も熾烈になったため、1945年5月9日から坂口郷(町)の石井さん宅を借りて疎開授業が始まったのです。次のことは上野の推測ながら、一民家で何百名の児童が集まっての授業は難しいと思います。また、例えば黒丸から坂口までは、相当の通学距離もあります。そのようなことから、例えば、どこかの神社や寺などを利用しての分散授業もあった可能性も否定できないでしょう。 (福重では、戦争中の「疎開・分散授業期間の約1年間は、まともな学校や授業どころではなかった」との伝承もある) 次に、竹松小学校の校舎に空襲が同年7月5日と9日にあり、甚大な被害が出ています。しかし、児童達は、先に述べたように疎開授業をしていたので犠牲になっていません。やっと、終戦を迎えて、その後の1945(昭和20)年9月24日、から元の小路口工員宿舎を仮校舎として移転しての授業がありました。そして、ほぼ同時進行と思われますが、甚大な被害が出た校舎の建て直しなどをおこない、翌年1946年5月7日から学校全部の復帰ができて、本来の竹松小学校に戻ったと思われます。 --------------------・・・------------ 質疑応答(下記のQ&A) Q1:(配布の)リーフレットに掲載している写真=)この写真に写っている福重飛行場は、今もあるのか? A1:その福重飛行場は、戦前や戦後もしばらくの間、幅30m、長さ950mの飛行場であった。今は、幅2.5m、長さ860mの細長い農道として残っている。史跡巡りや健康ウォーキングの一番人気の場所である。 Q2:このコンクリートのようなものは、あるのか? A2:その皆同砲台の写真(弾薬庫もしくは倉庫)は、現在、竹藪が切られて良く見えている。市道や車の上からも見える。あと、皆同砲台は福重飛行場や竹松地区にあった大村海軍航空隊に空襲をかけてくるアメリカ軍機を打つためにあった。しかし、米軍機の高高度飛行と、スピードが速かったので、ほとんど、弾は当たらなかったと言われている。
Q3:軍事施設があったので空襲はあったのか? なかったら空襲もなかったのか? A3:この米軍撮影の航空写真でも分かる通り、空襲中も写真を撮っている。空襲前は、軍事施設などの写真を撮って、事前に充分、攻撃目標(大村の場合、主に航空の軍事施設)を定めてから、かなり正確に空襲をしていた。しかし、現在のようにGPS誘導ミサイルやロケット砲みたいな正確さではなかった。そのため、流れ弾(爆弾)が、軍事施設のない所にも落とされたと聞いた。三浦地区は傾斜地が多く、大きな軍事施設は無かったのだが、それでも機銃の流れ弾が田んぼに撃たれたと聞いた。 松原地区には軍事施設が無かったので、空襲被害も犠牲者も出なかったと聞いている。 竹松小学校の空襲のまとめにかえて 下記は、大部分が上部と重複し、さらにいえばホームページ用に講話内容を一部補足した事柄で書いています。 原爆だけでなく身近な悲劇も語り継いでいくことも大事 長崎県内では、空襲といえば広島や長崎原爆だけが、多く語られています。しかし、この大村でも多くの悲劇、特徴的なことだけでも福重では9歳の福重小学校の児童と鈴田では妊娠している女性がアメリカ軍機の機銃で射殺。そして竹松では、まだ名前もなかった思われる娘(推測ながら)=赤ちゃんか? までも犠牲になられました。 (大村での空襲犠牲者の合計は上野調べで、約330名か?) 私は、このような身近な悲劇も語り継いでいくことも大事ではと、思ってます。 ウクライナ パレスチナの姿は、たった80年前の大村や竹松でも同じような状況 毎日のように報道されているウクライナ パレスチナなどの空襲による悲しい姿や民家などの状況は、遠い外国とか過去のことではなく、たった80年前の大村市内でも竹松でも同じような状況でした。。もしかしたら、今の小学生のひいじいちゃん、ひいばあちゃんが、空襲の犠牲になっているかもしれません。また、今住んで家は戦前、空襲で燃やされたので、戦後に建て直されたかもしれないです。つまり、戦場は身近で、空襲は住宅地まであったということです。 やはり、学校でまともな授業のできるのは平和が一番 竹松小学校・校舎の空襲被害も、福重小学校の福重飛行場の建設による移転も戦争中にありました。また、疎開や分散授業はあったが、本来の学校でのまともな授業は、両校とも1年間程できなかったのです。やはり、学校の主役は、児童、先生、それに授業のできる校舎でしょう。そのためにも、平和が一番と思えます。 ----------・・・----------・・・---------- 最後になりましたが、竹松小学校図書ボランティアの皆様、日頃の諸活動や、ご労苦に敬意を表します。また、今回、私のつたない講話聞いて頂き、大変ありがとうござました。これを機に、今後とも、よろしくお願いします。皆様、お疲れ様でした。 ----------・・・----------・・・---------- ・主な関係ページ:(大村市教育委員会設置の)「鬼橋町水神淵の線刻河童」 「郡川」 「福重小学校の図書ボランティアの紹介ページ」 ・冊子「竹松地区の空襲」(2021年8月8日、A4サイズ16ページ) ・「第21航空廠=航空機製造工場」 「大村海軍航空隊」 (掲載日:2024年2月27日、第二次掲載日:2月27日、第三次掲載日:3月11日、、第四次掲載日:3月13日、、第五次掲載日: 月 日、) |