1)伊賀峰城を紹介するにあたって
伊賀峰城に関してかいてある江戸時代作成の大村藩領絵図と(大村)郷村記の紹介は、後の項目でします。その前に、『大村市の文化財』(2012年3月29日、大村市教育委員会)28ページに、その概要が書いてありますので、先にこれを引用して下記「 」内に書いていきます。
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中央部、円錐形の山が伊賀峰城<中央部の奥は諫早市(江戸時代は諫早領)、左側の高速道路は長崎自動車道、さらにその左方向に今村川が流れている>
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「 伊賀峰城跡 この城は、蓮蔵寺バス停北西の、ミカン畑がある円錐形のなだらかな山の所にありました。周囲約1km、頂上の広さは東西約24m・南北約84m(約2,016u) で、中央には昔から夫婦石と呼ばれる大きな2個の石があります。
築城者も、いつ築かれたかもわかっていません。付近の古老の口伝えによれば、ここから東方の真崎(まさき)城から攻めてくる敵に備えて、土地の武将が 築いたのだろうと記録があります。
この城のふもとの蓮蔵寺(れんぞうじ)一帯は、中世時代に、かなり栄えていたとみられます。開墾(かいこん)などで墓碑群(ぼぴぐん)が数多く発掘されています。 」
・右側写真の説明などについて
右写真の撮影場所は、長崎自動車道・日岳トンネルより南側へ数百メートル行った道路上から東側(諫早側)を向いて撮ったものです。写真中央部、円錐形に見える山にあったのが、伊賀峰城です。ここの頂上部は広いのが特徴で、この城の主郭や副郭などの跡があります。推測ながら副郭が手前側(西側)、主郭が奥側(東側)と思われます。
山の奥側方向は、諫早市(江戸時代は諫早領)です。この山の頂上部へ登る場合は、通常、写真左側(北側)の裾野付近に登山口があり、案内看板や道も整備されていますので便利です。
また、写真左端側(北側)の高速道路は長崎自動車道で、さらにその左側方向に(この写真では見えていませんが)今村川が流れています。あと、写真右側(南側)方向の尾根伝いには、東西ずっと道路があります。そのラインが大体、町境界で写真左側(北側)が今村町、右側(南側)が溝陸町(みぞろくまち)です。伊賀峰城は、溝陸町にあります。
あと、この写真を見ると円錐形の山容なので、一見ゆるやかに見えますが、左側(北側)はけっこう急斜面です。その地形を利用して切岸も築かれています。(ご参考までに、写真最奥側に薄く見えている山並みは雲仙です)この伊賀峰城は、戦国時代に実戦に使われたか、どうか古記録に記述されていませんが、その位置からして大村領の東側を守るために存在したと思われます。
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大村藩領絵図の中央部、円錐形の山に描かれているのが伊賀峰城<手前側の紺色に見えるのが大村湾。絵図右上側に白く見えるのが諫早領。その諫早領手前側に一部分、湾曲して流れているのが境界線に当たる今村川(紺色の線)>
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2)伊賀峰城と大村藩領絵図
江戸時代に作成された大村藩領絵図に、イカ峯城(伊賀峰城)の文字が描いてあります。まず、右側の絵図を参照願います。絵図中央部にまるで富士山みたいにも見える、円錐形の山に描かれているのが伊賀峰城のあった山です。右側の絵図が小さくて見えにくいですが、原版では明確にイカ峯城と黒文字で書いてあります。
大村藩領絵図には、数種類あって旅館の大広間で見るような巨大な絵図や掛け軸タイプなど色々ありますが、右側の絵図は巨大な方の一部分です。ここには、イカ峯城と濁音でない文字が書いてあると思います。しかし、同じ江戸時代でも巨大絵図より後世に作成された掛け軸タイプの大村藩領絵図には、濁音のイガ峯城と書いてあります。これは、現在の伊賀峰城に連なるような表現と思われます。
この伊賀峰城を表すのに、清音か濁音かの書き方に何か意味があるのか、ないのかは不明なのですが、各絵図作成年代の相違で表現が違っているのかもしれません。ご参考までに、現在、地元・三浦地区の方は、ほぼ全員が伊賀峰城(いがみねじょう)と呼称され、案内板などにも書いておられます。
右側の絵図説明に戻りますが、この山の右上側(東側)に白く何も描かれていない部分が、当時の諫早領です。その手前側に、紺色のやや太い線で、しかも一部分、湾曲に描かれているのが今村川です。この川が、当時の大村領と諫早領の境界でした。念のため現在も、ほぼ同じように大村市と諫早市の境界線です。
あと、この絵図を改めて見ますと、伊賀峰城は大村領の最も東側にあった城だということが良く分かります。戦国時代に実戦的な城だったかのか、どうかは古記録がないようなので良く分かっていない城でもあります。いずれにしても、地理的に考えれば大村領の東側を守る位置にあった城だったのでしょう。
3)伊賀峰城と大村郷村記の記述
江戸時代の大村藩が編纂した(大村)郷村記(通称:大村郷村記)三浦村の古城之事の項目に「伊賀峰の古城」として書いてあります。この郷村記によりますと伊賀峰城については、次の「 」内通りに書いてあります。ただし、昔の難しい漢字のためパソコン変換できない文字は、それに似た文字を上野の方で変えています。
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(写真中央部に寄り添ったような二つの大きな石が)女夫石(めおといし)=夫婦石 <左側、四角の白いのは伊賀峰城の説明板。右側にあるのは石塔。この女夫石の手前側や奥側は広い平地である)>
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また、2行部分は( )内としています。あと、原文は続き文ですが、見やすいように一部空白(スペース)を挿入しています。あくまでも、ご参考程度にご覧になり、もしも引用される場合は、必ず原本からお願いします。
「 一 伊賀峰の古城
今村に古城の跡あり、いが峰と云、高サ麓より登り 貮町三拾間余、周廻九町程、上の廣さ東西拾三間、 南北四拾六間、都て畠地なり、中央に女夫石と申傳へし石貮ツ有り (内壹ツ高サ壹丈貮尺、横壹丈貮尺、内壹ツ高サ壹丈四尺、横五尺の大石也) 卯辰の方に乾堀と申傳深サ壹間、横貮間、長八間の所あり、
又峰の九合目二馬乗馬場と申傳長サ五拾間余、横三間位の平地あり、南の方にいたぶ石と唱へ高サ貮丈六尺、横壹丈六尺余の屏風を立たるがことき平石あり、此城追手・搦手の様子不知、何の比誰人の取立しと云事も定かならす、往古所の者と諫早領眞崎の城と取合の砌、築たる城と云傳、
いか(マ・)峰と云し事ハ其比籠城の砌、いが(俗に雅子を呼ていがと云)の泣聲に驚き、敵引取しゆへ斯名付しと云傳ふ、慶長八、九年の比まてハ、此所竹木はへしげりたる山なるに、 里人伐取り、其跡燒拂ひしと云、今ハ野畠となる也 」
・現代語訳
上記の(大村)郷村記を現代語訳すると、下記< >内通りと思われます。ただし、上野の素人訳ですので、あくまでも、ご参考程度にご覧願えないでしょうか。( )内は、(大村)郷村記上で2行ある部分が一部あり、プラス私が付けた補足や注釈です。また、(大村)郷村記は、伊賀峰城の記述だけではありませんが、真偽の問題さらには方角や距離違いなどが常にあり、注意が必要と思われます。
< 伊賀峰の古城
(三浦村の)今村に古城跡がある。いが峰(伊賀峰)と言う。高さは山麓より273mあまりで、(山の)周囲982mほどである。頂上部の広さは東西(の長さは)55m、南北(の長さは)84mで、全て畑である。(頂上部の)中央に女夫石(めおといし、夫婦石)と伝承されている石が二つある。 (その内一つは高さ3m63cm、横幅3m63cm、あと一つは高さ4m20cm、横幅1m51cmの大きい石である) 東南東の方角に乾堀(いぬいぼり)の伝承があり(そこは)深さ1m81cm、横3m62cm、長さ14m48cmの所である。
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伊賀峰城跡への登山道(三浦地区史跡愛好会で整備・保全されているので登りやすい) |
また、峰(山)の九合目には馬乗り馬場との伝承がある長さ91m、横幅5mくらいの平地がある。南の方には、いたぶ石と唱(とな)えられ高さ7m87cm、横4m84cm余りの屏風(びょうぶ)を立てたような平石がある。この(伊賀峰)城の追手(おって、大手=城の正門)や搦手(からめて、城の裏門)は不明である。どこの誰が築城したのかも伝承では定かではない。大昔、この周辺の者と諫早領の眞崎城(まさきじょう)と奪い合い(紛争)になった時に築城されたとの伝承がある。
”いか”(そのままの文字で)(当時は濁音ではなく清音の呼称だった)と言う伝承は、この城で籠城戦がおこなわれた時に、いが(俗に言う赤ちゃんの呼び方)が泣き声をあげたので敵が(驚いて)引き返したので、この名称が付いたとの伝承がある。慶長八〜九年(1603〜1604年)の頃までは、ここは竹や木が繁った山だったが、村人がそれを伐採し、そのあとを焼き払ったと伝えられtいる。今は野原や畑になっている。 >
伊賀峰城の呼称の変わり方ついて
(大村)郷村記の現代語訳は、上記の通りです。伊賀峰城の呼び方については、先の<2)伊賀峰城と大村藩領絵図>の項目で、私は、「(巨大絵図の)原版では明確にイカ峯城と黒文字で書いてあり (途中省略) 後世に作成された掛け軸タイプの大村藩領絵図には、濁音のイガ峯城と書いてあり (途中省略) この伊賀峰城を表すのに、清音か濁音かの書き方に何か意味があるのか、ないのかは不明なのですが、各絵図作成年代の相違で表現が違っているのかもしれません。 (後は省略) 」と書いていました。
また、この(大村)郷村記の項目でも、伊賀峰城の呼称について一部書いてあります。現代語訳の補足説明ながら大村郷村記には、「”いか”(そのままの文字で)(当時は濁音ではなく清音の呼称だった) 」と書いています。片仮名や平仮名の文字上も発音上も、当初は清音の「いか」と発音していたみたいにもとれる記述がされています。
現在では、伊賀峰城の呼び方について、清音の”いか”でも濁音の「いが」でも、どちらでもいいではないか、それよりも漢字の方が大事と言う雰囲気があると思います。江戸時代は、むしろ、自然名称の山や川などは音読みで正確ならば、漢字は当て字みたいにしていいという例があります。例えば大村市内では有名な琴平岳(ことひらだけ)は、朝追岳(あさおいだけ)とも言いますが、伊能忠敬の地図には麻生岳(あさおいだけとも書いてあります。(ただし、伊能忠敬の聞き間違いで名称の書き写し間違いの可能性もありますが)
そのようなことから、大村藩領絵図では古い時代の作図は、清音の”イカ”で、後世の作図では濁音の「イガ」となっていたのでしょう。そして、(大村)郷村記にも、その呼称のことについて、「いか(マ・)峰」と注釈付きで触れていたのかもしれません。わずか一文字の変遷ではあるのですが、いずれにしても、江戸時代期間中でも漢字だけでなく呼び方(言葉)まで変わっていっているのだなあと個人的には興味を持ちました。
伊賀峰城の縄張り図(全体図) |
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4)伊賀峰城の縄張り図
この項目では、大野安生氏(当時、大村市文化振興課)作図による伊賀峰城の縄張り図を用いて紹介していきます。(右図参照) この縄張り図が描いてあるのは、南九州城郭懇話会・北部九州中近世城郭研究会・発行の『合同研究大会資料』(2012年11月12日、12日)の7ページです。 (城の縄張り図などの用語解説については、城関係用語集ページを参照願います)
伊賀峰城の縄張り図説明
既に先に述べた項目と内容的は重複する記述もありますが、再度、伊賀峰城について、縄張り図をもとに概要の説明を致します。なお。距離や方角などについては、伊賀峰城跡の史跡説明板内容を参照して書いています。
(1)伊賀峰城のある頂上=115mは、右図の中央部で数字の3がある付近です。地形からして主郭(本丸)は、この周辺にあった可能性があります。
(2)副郭(二の丸)は、数字6当たりから下部(南側)周辺と考えられます。この段の北側部分の線には一部石が並べてあります。また、南側の線には土塁があります。そのため副郭部分と主郭部分の段差が明確に分かるものです。
(3)南北に長い頂上部一帯は、(2)項目でも書いた通り大きく分けると二段になっています。段差は明確にあるものの、その一段づつは平坦で距離は東西24m、南北約84mあります。面積は、2.01平方メートルです。
(4)この頂上部で一番目立つのが、数字4の下部(東側)にある女夫石(めおといし)=夫婦石です。二つの石合計は(目測で)高4m強、横幅5m強もある大きなものです。現在、夫婦石の前には個人で祀っておられる石塔もあります。
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伊賀峰城の切岸(頂上部東面、石垣もある) |
(5)頂上部周辺は、全体かなりの部分で切岸になっていることが良く分かります。特に、東北東や南南西部分の切岸は自然の地形をそのままに傾斜があり、防御を考えて造ったと推測されます。
(6)切岸付近全部では当然ありませんし、また高さの高低や大きさの大小はありますが、石垣あるいは単に大きな石が並べられている所もあります。特に、北東面や南東面の石などは目につきやすいものです。<下記(6)項目後半文章も参照>
(7)頂上部の最南南東部(数字の3の下部付近)に楕円形にも見える場所について、伊賀峰城跡の史跡説明板内容を参照すれば「長さ十五メートル 幅三・六メートル 深さ一・八メートルの空堀りがあった跡」とも書いてありますが、この説には異説もあります。また、この周囲の南東部には、高さ2m〜4m位、横幅数メートルの大きな石も並べてあります。ただし、戦国時代に造られたものか、別の時代かは不明です。
(8)数字5の右側(東側)には、石を並べたり一部石垣も用いて、曲輪が造られているのが分かります。
(9)大村郷村記には、馬乗り馬場について、(現代語訳で)「峰(山)の九合目には馬乗り馬場との伝承がある長さ91m、横幅5mくらいの平地がある」との記述があります。この表現自体は、明確で分かりやすいものですが、現在の地形上、その場所がどこなのか特定できないようです。
(10)大村郷村記には、乾堀(いぬいぼり)=空堀ついて、(現代語訳で)「東南東の方角に乾堀(いぬいぼり)の伝承があり(そこは)深さ1m81cm、横3m62cm、長さ14m48cmの所である」と書いてあります。この乾堀は、城址最南部(東南部)にあります。なお、私が巻尺計測してみると、堀の大きさは南北10m50cm、東西19m50cm、深さ3m30cmありました。
(11)縄張り図でもご覧の通り細長い形状ながら、主郭・副郭部分(頂上部)が、これだけの広さを有しているのは大村市内にある山城の中では、珍しいといえます。(ご参考までに、大村市内にある山城の頂上部は、伊賀峰城対比で5分の1から大きくても3分の1程度と思われます。鳥甲城、宝満城など参照)
(12)伊賀峰城の大手門(正門)などについて、大村郷村記には、次の「」内記述がされています。(現代語訳で)「この(伊賀峰)城の追手(おって、大手=城の正門)や搦手(からめて、城の裏門)は不明である」 大手門(正門)は、地形上や大村領の中心地(戦国時代は今富城や三城城)からすれば、現在の登山道などがある北側と推測されますが、ここでは大村郷村記に従って不明とします。
(13)大村郷村記に記述されているいたぶ石について、城とは全く関係ありませんが、、次の「」内記述がされています。(現代語訳で)「南の方には、いたぶ石と唱(とな)えられ高さ7m87cm、横4m84cm余りの屏風(びょうぶ)を立てたような平石がある」 この石のある場所は、頂上部最南端部から約20m下った(上記の縄張り図では「伊賀」の文字の上付近)にあります。このいたぶ石の件については、別項目で写真付きで詳細に書いています。(いたぶ石は、ここから、ご参照願います)
5)伊賀峰城の遺構などについて
この項目、既に前の項目「4)伊賀峰城の縄張り図」に城址の遺構と確認できるものは、全て書きました。それを詳細に再度書きますと全て重複した書き方になりますので、ここでは伊賀峰城に行かれたら、どなたでも直ぐに分かる城址遺構の名称程度にとどめておきます。それは、主に次の項目と思います。(下記の順番は、主に城址北側から南側へ下る)
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乾堀(いぬいぼり)=空堀<堀の大きさは巻尺計測で南北10m50cm、東西19m50cm、深さ3m30cm>
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・副郭(二の丸)の北部側の切岸----縄張り図の数字6の上部(北側)周辺
・副郭(二の丸)------------------縄張り図の数字6の下部(南側)周辺
・土塁(主郭と副郭の間)-----------縄張り図の数字1の上部(北側)周辺
・東側の高くて長い切岸と石垣---縄張り図の数字3の右側(東側)周辺
・主郭(本丸)-------------------縄張り図の数字1〜3の周辺
・東南側の乾堀(空堀)-----------縄張り図の数字3の下部(南側)
以上が、伊賀峰城址見学時に分かりやすい遺構と思われます。他にも、城址の遺構として幾つかありますので、詳細は前の項目「4)伊賀峰城の縄張り図説明」を、ご参照願います。
また、城址遺構ではないと思われますが、縄張り図の数字4の下部(東側)にある女夫石(めおといし)=夫婦石が頂上部で一番目立つものですから、そこを目印に行かれたら、より一層分かりやすいです。
あと、これまで
何回か同じことを書いて重複表現になりますが、この伊賀峰城は、南北に細長い頂上部(主郭や副郭など)を有しています。大村市内に数多い山城の中で、これだけ細長くて広い頂上部を持つ城址はないと言えます。このこと自体が伊賀峰城の城遺構として、最大特徴ともいえます。
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中央部、円錐形の山が伊賀峰城跡<中央部の奥は諫早市(江戸時代は諫早領)、左側の高速道路は長崎自動車道、さらにその左方向に今村川が流れている>
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6)大村市史の伊賀峰城について
この伊賀峰城について、2014年3月31日に発行された『新編 大村市史 第二巻 中世編』(大村市史編さん委員会)に記述があります。(この書籍発行についての簡単紹介ページは、ここから、ご覧下さい) この市史831〜832ページに、「二、 伊賀峰城」として下記<>内の通り書いてあります。
なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに直し、見やすくするため改行を変えています。引用・参照される場合は、必ず原本からお願いします。あと、この市史の832ページには、大野安生氏の作図による伊賀峰城の縄張り図も掲載されています。しかし、このホームページじでは、既に先の項目「4)伊賀峰城の縄張り図」で紹介中ですので、そちらを参照願います。
< 伊賀峰城
大村市溝陸町に所在する標高約一一五メートルの山頂にある山城である。城山城と同じく諫早市との市境に隣接している。伊佐早領西郷氏の端城である真崎城に対峙する位置にあり、 大村領の最も南に当たることから大村氏が築いたものと推測されるが文献には出てこない。
『大村郷村記』 には 「上の広さ東西拾三間 (約二三メートル) 、 南北四拾六間 (約八三メートル)、都て畠地なり」 と記述されており』現況とほぼ同じ規模であることが分かる。
山頂には随所に玄武岩の巨礫が露頭しており、五〇年前の諫早大水害の際に災害復旧用の石材を採取した痕跡が生々しく残っている。山頂には夫婦石と呼ばれる巨礫があり、その根元には 「伊賀峰源四郎」を祀る祠がある。 >
補足
・いたぶ石について
伊賀峰城についての直接的な補足ではないのですが、この城跡頂上の南端側から約20m下ったところに、いたぶ石と呼ばれている大きな石があります。また、この石について、既に『3)伊賀峰城と大村郷村記の記述』でも書きました通り、「伊賀峰の古城」の中に記述がしてあります。まず、概要を下表から、ご覧願います。
名称 |
いたぶ石 |
場所 |
伊賀峰城跡の南端側から約20m南側へ下った所 |
石の大きさ |
高さ7m65cm 、横幅4m80cm |
緯度経度 |
緯度32度51分15秒55 、経度130度00分21秒59 |
国土地理院地図検索用数値 |
32度51分15.55秒 130度00分21.59秒 |
(大村)郷村記 |
「伊賀峰城」の項目に記述あり(下記項目参照) |
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いたぶ石(伊賀峰城跡の頂上南端側から約20m下った所にある)、<石の大きさ=高さ7m65cm 、横幅4m80cm>
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上表でもお分かりの通り、この石の大きさは、例えば切妻タイプで2階建て民家の片側壁の高さと、そう大きくは変わらない位です。右側写真をご覧頂くと、垂直というより、やや傾斜があることも、お分かりになるかと思います。
いたぶ石の大村郷村記内容
いたぶ石ついては、)江戸時代の大村藩が編纂した(大村)郷村記、三浦村の古城之事の「伊賀峰の古城」項目に、少しだけ書いてあります。それは、次の「 」内通りです。
「伊賀峰の古城 (中略) 南の方いたぶ石と唱へ高サ貮丈六尺、横壹丈六尺余の屏風を立たるがことき平石あり (後略) 」
・現代語訳
上記の(大村)郷村記項目を現代語訳しますと、次の<>内の通りです。
<伊賀峰の古城 (中略) 南の方には、いたぶ石と唱(とな)えられ高さ7m87cm、横4m84cm余りの屏風(びょうぶ)を立てたような平石がある。>
いたぶ石についての感想と補足
この石は、伊賀峰城跡南端側に(ラミネート加工の小さな手作り)案内板もあるので知られていると思います。名称の由来であるいたぶとは、「イヌビワ」の別名「いたぶ」からのようです。石の形状が、「いたぶ」に似ていたのでしょう。(大村)郷村記内容にある、「屏風を立てたような平石」の表現は、現場で見ても、ほぼ記述通りです。
(大村)郷村記内容の大きさ表記と今回の巻尺計測数値も、大きく違ってはいませんでした。この石へは、伊賀峰城跡の頂上(南端側)から注意して下る必要はありますが、健脚の方ならば危険と言うほどではありません。私の推測ながら、この石は大きくて特徴があるので、江戸時代の(大村)郷村記にも記述されたのでしょう。伊賀峰城跡見学時に、このいたぶ石に立ち寄られるのもいいかもしれません。