(史跡説明板)石走道祖神
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名称:石走道祖神 |
様式:説明板 |
場所:福重町、石走(九州電通の入口近く、市道脇) |
設置者:福重町内会、福重地区活性化委員会 |
設置年:2013年3月1日 |
GPS実測値:32度57分58.80秒 129度56分51.20秒 |
全体の大きさ:高さ152cm、横幅70cm |
(国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°57'58.80"N,129°56'51.20"E |
注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差がある。グーグルアースは航空写真上に表示するため、かなりの誤差が出るが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)
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中央部の自然石が、石走道祖神
(写真左上側が、その史跡説明板) |
史跡説明板写真周辺の説明
この石走道祖神と史蹟説明板がある場所は、福重町、石走川沿いにある九州電通株式会社の入口から北側へ30m位の市道脇あります。石走道祖神は、元々この場所にはなくて、現在地より下側の井手(用水路)と田んぼ近くにあったと言われています。そして、市道工事の時に、下側から現在地に移設されたものです。
また、この石塔のある石走は、大村郷村記によれば奈良時代に開山した<郡岳(こおりだけ、826m)の旧称>=太郎岳大権現の一の鳥居があった所と伝承されています。つまり、この石走道祖神がある周辺は、その太郎岳大権現へ登る修験道の入り口にあたる場所です。
あと、地元では、この石塔を「道祖神」、「いぼ神様」、「ヤボ神様」などとして大事に祀られてきた経過があります。
なお、石塔に彫られた碑文の従来説(「道有」や「道肴」の説)を根本から変える、『道看(どうかん)』文字であることが、2013年4月の調査で判明しました。
この石塔についての大きさ、歴史や様々な説の詳細は、 『石走道祖神』 ページや、「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?」ページの『道看』から参照願います。
史跡説明板の内容
右上側写真に写っている史跡説明板には、下記「 」内の文章が書いてあります。原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに変えています。また、(注1)は、上野の注釈・補足です。なお、この石走道祖神の詳細説明は、『石走道祖神』 ページや、「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?」ページの『道看』から参照願います。
「 石走道祖神
高さは約八三、横幅一〇四、周囲 二一一、厚さ一四センチある。中央上部に丸いマーク(円相)、下部に道看(どうかん)の文字(看は昔の俗字)がある。(注1) 建立年代は不明である。地元伝承でイボ神様、やぼ神様などと呼ばれてきた。また道路脇にあったので悪霊の侵入防止、村人や通行人を災難から守る道祖神とも言われてきたが、詳細は不明である。一説によると円相は禅宗系の墓碑に多くみられること、さらには道看(どうかん) という人名らしき文字があるため「道看(どうかん) の墓碑」説もある。
二〇一三年三月一日 福重町内会・福重地区活性化委員会 」
(注1):「道看(どうかん)の文字(看は昔の俗字)」及び石走道祖神そのものにについて、従来と全く違う説が書かれた資料(戦後あまり経っていない頃に作成されたと思われる古いガリ版刷り資料)が、2013年4月に見つかりました。
「福重村矢上郷・・・」の書き出しから始まる、このガリ版資料は、碑文について「道看(どうかん)の文字(看は昔の俗字)」であると正確に書いてあります。ただし、文字上部にある丸いマーク(円相と推測される)については、書いてありません。
ご参考までに、このガリ版資料より、ずっと後年に調査・発行された長崎県教育委員会(1965年3月31日に発行された)「長崎県文化財調査報告書第3集 昭和39年度 民俗資料調査報告書」や、大村市教育委員会発行の『大村市の文化財』(1990年3月31日発行)は、いずれも碑文(文字)の読み間違い文章でした。また、文字上部にある丸マークについては、二つの書籍とも何も触れられていません。
あと、このガリ版資料には、この石塔や(約100m離れた所にある)石走の線刻石仏含めて、「道教神と関係がある」みたいなことも書かれていて、そのことも含め<道看=現在の表現で「道観(どうかん)」ではないだろうか>との説も浮上してきています。
しかし、この「道教説」について、石走道祖神が元々あった場所との関係、さらには「墓碑説」=文字上部にある 円相(禅宗系の墓碑に多くみられる丸いマークがある)などから、この種の結論や判断は早計であり、今後も調査、研究を進めていく事柄といえます。
補足
この石塔は、先の項目にも書きました通り、当時の村(集落)の守り神様=道祖神、イボ神様、やぼ神様、あるいは「道看(どうかん)という人の墓碑説」、さらに2013年4月に見つかった戦後間もない頃のガリ版資料から「道教神説」までと、沢山の説があります。いずれの説も、真偽(しんぎ)様々あって、この石塔が何なのか、正確に特定できていません。
私は、平安時代末期頃に建立されたと思われる(経塚の上に信仰と目印として置かれた)単体仏(約10体)を始めとする福重の石仏(合計約30体)や、石塔類を見てきて文字の彫られたのが少ない印象を持っています。そして、石仏・石塔類の場合、建立年代、建立目的、建立者、さらには建立された場所の重要さを認識いたしました。
これらの要素が、福重の石仏・石塔類の場合、極端な情報不足です。だからこそ、「福重の石仏(線刻石仏) 最大の謎 (仮説)神仏習合像の可能性も?」、「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?」などと、”謎”という表現を使用せざるを得ないのです。
この石走道祖神は、先に紹介中の線刻模様しか彫られていない石仏に比べれば、上部に丸いマーク(円相か)や、「道看(どうかん)の文字(看は昔の俗字)」があるので、建立時の情報はある方です。しかし、これだけマークや碑文が表面にありながらも、肝心要の建立年代や建立目的などの文字が横面や裏面にないのです。
この石塔を見学された方の中には、「謎は謎のままの方が、いいのでは。その方が、今後も関心を持たれ研究も話題も続くだろう」との意見もありました。また、この石走道祖神は、2011年11月25日には、NBCテレビでも取り上げられ話題にもなりました。
あと、この場所は福重町、石走川沿いにある九州電通株式会社の入口から北側へ30m位の市道脇ありますので、いつでも自由に見学できます。閲覧者の皆様、機会あれば健康ウォーキングや史跡巡りの途中、この石走道祖神の史跡説明版も、ご覧頂ければと祈念しています。
・詳細な関係ページ: 『石走道祖神』 、 「漢字二文字の”謎の石塔(石碑)”「陽林、道看、三伯、陽白」は、何だろうか?」ページの『道看』
(初回掲載日:2013年9月28日、第2次掲載日:9月29日、第3次掲載日:10月5日、第4次掲載日:10月 10日)