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福重橋記念碑(沖田町)
(中央部右側が福重橋、後方左側の山は郡岳)
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概要紹介<福重橋(木橋)の記念碑と水切り石>
名称:福重橋記念碑(ふくしげばし きねんひ)と(木橋当時の)水切り石 、 所在地:大村市沖田町
このページは、タイトル(見出し)通り、長崎県大村市内にある石碑や碑文を紹介するシリーズの一つです。福重橋(通称で「郡橋」とも言う)の架かる川は、大村市内で最長最大の郡川です。現在の福重橋の長さ約65mは、河口にある郡大橋よりは短いですが、市内でも長い方です。
今回の石碑は、、現在のコンクリート橋の前身である福重橋の木橋が1986(明治19)年に架橋されました。木橋は、現在の橋が新たに架橋されるまで、1941(昭和16)年3月前まで使用されました。その木橋当時を祈念して建立されたのが、福重橋記念碑です。福重橋の木橋は、現在地より約50m下流地点だったため、現行の福重橋(約65m)より、もう少し長かった可能性もありますが、正確には不明です。
また、(木橋当時の)福重橋の水切り石は、上流側にある橋脚(木の柱)を流れ下って来る石や砂利から保護するために設置された石です。戦後しばらくの間、私が見た範囲内で大村市内どこにでも木橋はありましたが、水切り石は、そこで用いられていたと思われます。しかし、その後、鉄筋コンクリートの橋にかわって木橋は、全部見なくなりました。
その意味で福重橋の水切り石は、市内で現存する唯一の物で貴重ではないでしょうか。一つの土木遺産とも言えます。
1)古代の道から長崎街道までの郡川の飛び石について
・古代より官道として郡川の飛び石は使われいた
古代の道(官道)は、既に「大村の古代の道と駅」の前半部分を掲載中です。ただし、今回と関係している郡川の飛び石関係の内容は、まだ先のページには掲載できていません。その理由は、竹松や西大村関係が諸説あって記述できていないからです。しかし、古代の道が郡川を渡り、竹松から鈴田峠方面まで続いていたことは間違いありません。
その根拠の一つとして、私は古代に(現在の寿古町の好武周辺)彼杵郡家(この件は「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」ページを参照)があった関係が大きいと思っています。なぜなら、古代肥前国時代の国府=首都は、佐賀大和(政庁跡がある)より、彼杵(現在の大村市を含む長崎県央地域)、諫早、島原方面との行き来が、政治だけでなく経済含めてあったと推測できるからです。
この古代から既にあった郡川の飛び石含めて官道などは、江戸時代になり、さらに情報、観光、経済などの発達により長崎街道として発展してきたと言えます。現在、長崎県内で発行されている書籍あるいはメディアで盛んに報道されている長崎街道ですが、江戸時代になって急に忽然(こつぜん)とできたものではなく、古代頃から徐々に整備され発展してきた経過があります。いくら書籍やメディア関係が、その経過や事実を伝えなくても郷土史(地方史)的には長年の歴史から見ていく事項とも思えます。
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福重橋の近くにある大村市教育委員会の案内板の一部分 |
・長崎街道として飛び石はさらに活発に使われた
あと、古代の道から(後世に)長崎街道となり、さらにこの道は発展していきますが、そこに注目した一人がドイツの医者・博物学者のシーボルトです。彼は江戸へ行く途中、この長崎街道を通り、郡川も渡っています。その時、お付きの絵師に飛び石を渡る風景を描かせています。(右画像を参照)
この絵は、上流側から下流=大村湾側を向いての風景画と思われます。つまり、現在の寿古町側から沖田町方向に旅人が馬を器用に操り、飛び石をゆっくり渡っているところと思われます。絵は、写真とは違いますから、実際より、かなり海が近くに見えます。ただ、私は、この絵を見るたびに、なかなか風情ある描き方だなあと感心しています。
さらに、この絵には説明文もあって、シーボルトの著書『日本』には、次の<>内通りに書いてあります。<「森を流れる小川で深くはないが、ときには急流となり、このあたりでは二筋に分かれて海に注いでいる。大きな玄武岩が河床に横に並べてあって、それを渡って人夫や荷馬が通ってゆく。>
上記の「大きな玄武岩が河床に横に並べてあって」の部分は、まさしく郡川の飛び石のことを表しています。シーボルトも長崎から江戸までの間、何本かの河川も渡らなければならなかったと思いますが、これだけ情緒豊かに飛び石風景を絵や文章で表現しているのは、数少ないことではないでしょうか。なお、ご参考までに郡川の飛び石は江戸時代、「大きさや数は決められていて1個の長さ2m10cm、幅84cmで、合計46個」と決められていました。
この項目のまとめとして、郡川の飛び石は、古代の道から福重橋(木橋)が架橋されるまで長崎街道として、重要な役割を果たしていました。そして、さらに近代になり交通、経済の発達にともない街道としての飛び石の役割を終え、次は1986(明治19)年、福重橋(当時は木橋)としてバトンタッチしたのでした。
2)記念碑の大きさや石材など
(記念碑は右下側か右側1番上の同じ写真を参照)この福重橋(木橋当時の)記念碑の石材は、大村で良く見られる玄武岩と同質のものと推定しています。記念碑や碑文の大きさは下表を参考願います。
福重橋記念碑と文字の大きさ
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碑文石 |
高さ:約185cm |
横幅:約90cm |
厚さ:(最大部分)約34cm |
胴囲:約237cm |
文字部分 |
縦行の長さ:約127cm |
横幅:約43cm |
(注:表面のみ) |
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台座部分 |
高さ:約62cm |
横幅:約200cm |
奥行:約120cm |
周囲:約640cm |
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福重橋記念碑(沖田町)
(中央部右側が福重橋、後方左側の山は郡岳)
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上表をご覧頂くとお分かりになるかと思いますが、この記念碑は全体の大きさもありますが、文字サイズにも特徴があるように思えます。福重橋の「福」の文字だけでも、高さ42cm、横幅43cmもあります。けっこう彫りも深いので、遠くからでも文字が視認できて見栄えもします。
私は、大村市内各所、戦後以降で例えば道路開通記念碑など大きいものは、ちょっとした車庫か小屋位の高さのあるのも数多く見ました。ただし、明治時代の土木関係の記念碑と限定した場合、上記サイズ並みの石碑はあまり見たことがありません。
何故これだけの大きい記念碑を1986(明治19)年に建立したのかと言う点も考えてみました。それは、次の項目3)記念碑の碑文内容で詳細は書く予定ですが、この橋が長崎県の事業と関係あるからだと思っています。
つまり、現在、福重橋を通る国道34号線は、当時、県道だったため県の事業もしくは福重村との共同事業だった可能性が推測されます。そのようなこともあり、明治時代の中期頃に建立された記念碑としては、当時の福重村に例のないような大きい石碑になったと思われます。
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福重橋記念碑の表面
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3)記念碑の碑文内容
この項目は、福重橋記念碑の表面と裏面の碑文について書いていきます。素人ながら、使われている石材からして、彫りにくいところもあったのかなあとも感じました。特に、裏面に元々穴やくぼみなどがあって、碑文としては損傷している部分もあります。なお、文字の大きさなどは、先の項目を参照願います。
(イ)記念碑表面の文字について
表面は、橋の名前ですから福重橋という3文字です。私は、これまで昭和や平成時代の道路開通記念碑などを除いて、大村市内で明治時代に建立された記念碑や石碑の中で、一文字(「福」の文字だけでも高さ42cm、横幅43cm)が、これだけ大きいのは見たことありません。その意味からして、このサイズ自体は一つの特徴と言えます。
また、この3文字は大きさに併せてあるのか、けっこう深く彫ってあります。一番深い彫りの部分では2cmを越えているようです。大きな文字と彫りが深いので全体けっこう遠くから見ても、この3文字は直ぐに分かります。あと、なぜ、これほど大きな記念碑や碑文を建立したかも考えてみました。
それは、先の項目にも既に書いていますが、当時の県道(現在の国道34号線)は、長崎県央地域の大動脈で、しかも長崎県の事業あるいは福重村との共同事業で大村市内最大最長の郡川に架けた最初の大きな橋と言う位置付けもあったので、「当時の行政側として、この橋の建設に力が入っていたのでは」と、私は想像しています。
また、この記念碑のある場所(沖田町側)は当時、橋のたもとで、ほぼ真横に近い位置だったと思われます。橋ですから、けっして小さくはありませんが、それでも欄干(らんかん)の高さが1m位だったと推測できますので、この記念碑は本当に目立っていたとも思われます。それに、やや蛇足ながら、この記念碑を前景に、中央部に松原や福重の丘陵地帯、後景を郡岳、鉢巻山や武留路山とするなら、なかなか眺めのいい所で、そのようなことも考慮しながら建立されたのかなあとも想像しました。
(ロ)記念碑裏面の文字について
この項目、まずは右下側2枚の画像をご覧願います。右側が福重橋記念碑の裏面写真で、左側が拓本作業をおこなった後、文字解読した活字版です。一文字だけ石碑の割れがあって正確さに欠けますが、他はほぼ活字版に直した通りだと思っています。この碑文についての現代語訳、注釈、補足などは後でまとめていますが、先に文字部分についての大きさを書きます。
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文字解読後の活字版
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福重橋記念碑の裏面
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<裏面碑文の大きさ>
1,大文字部分の大きさ:縦行の長さ:約93cm、横幅:約14cm
2,
小文字面の大きさ:縦行の長さ:約97cm、横幅:約43cm
3,
裏面文字面全体の大きさ:縦行の長さ:約71cm、横幅:約116cm
現代語訳
実物は、右側写真の通り縦書きで氏名ごとの改行ですが、ホームページ上、横書きの続き文章に変えて書いていきます。現代語訳は、次の<>内の通りです。なお、分かりやすくするため、( )内は上野の補足です。下段(注1)〜(注5)の注釈も参照願います。
<明治十九(1986)年、(郡川に)新たに架橋した。 (長崎)県の管理者(注1):矢村一安 (福重村)戸長(注2)(村長):岩永欽八郎 (建設)委員:岩永太兵衛 、沢田秧 夫使(注3)〈工事管理者〉 :寺井藤九郎 、井上茂作、辮ホ文蔵(注4) 大工 :猪股藤右ェ門 石工:松尾猪作 杣(注5)〈製材所〉 :川津伊兵衛 >
注釈と補足
(注1):一行目の「縣官」を当初、長崎県知事と思ったが歴代知事一覧表に、この名前がない。たぶん官吏の略称(今風に言えば)「長崎県建築土木部・管理者」ではないだろうか。 参考までに、現在の国道34号線は、当時、県道だったため福重橋の建設も県の事業または福重村との共同事業の可能性がある。(当時の村長や他の村人名があるため)
(注2):二行目の「戸長」は当時の役人名称で、村長のこと。
(注3):下段一行目の「夫使」の意味が分からなかった。大工より先に名前があるので、(今風に言えば)「設計士」「(工事)施工管理技士」のような工事管理者だったと思われる。当然、碑文に名前の彫られていない一般作業員は多数いたはずである。
(注4):下段三行目の「縺v(くわ)の文字は、「桑」の俗語文字である。
(注5):最終行の「杣(そま)」の元々の意味は「木材を切り出す山」であるが、この場合、木橋だったため、その建築用材木を用立てる「製材所」あるいは「材木商」みたいな者だったと推定される。
(地元の人名について):当時の福重村在住の人で、村長は最初から分かっているが、今後ご子孫に確認し、他に地元の方の名前があれば、この件は後でもまとめ直したいと思っている。
4)木橋当時の水切り石について
この項目は、先に紹介中の福重橋記念碑の裏側に置いてある水切り石について書いていきます。ただし、先の記念碑の一部ではなく、木橋当時の福重橋と関係あるものです。(右側の写真参照。ただし、水切り石右側に白地に黒文字の説明碑は別)
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福重橋の水切り石と、右側の説明碑
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福重橋記念碑の裏面と水切り石(左下側)
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・水切り石とは
水切り石とは、木橋(木造の橋)の上流側にある橋脚(木の柱)を流れ下って来る石や砂利から保護するために設置された石です。例えが良くないかもしれませんが、野球の主審や捕手が使用しているプロテクターみたいな役割でした。各々の柱の上流側にあったものです。その石は、右側写真の通り将棋の駒に似ています。
砂利などが流れやすくするために表面などは、平たく加工してあります。石の厚さは下部が太く、上部にいくにしたがって細くなっています。右写真にある水切り石の大きさは、高さ65cm、横幅80cm、厚さ27cm、周囲210cm(重量は未計測ながら相当重い)です。
水切り石は、戦後しばらく市内どこにでもありました木橋に用いられていましたが、鉄筋コンクリート橋にかわって全部見なくなりました。その意味で福重橋の水切り石は、市内で現存する唯一の物ではないでしょうか。土木遺産の一つとしても貴重と言えるでしょう。
・水切り石の説明碑
水切り石の説明碑(右上側写真の右側にある白地で黒文字の説明碑参照)には、「明治十九年〜昭和十六年迄福重橋(郡橋)の橋脚の上に使用されていた水切り石です。」と彫ってあります。この説明碑の建立年月は、2012年4月です。
この説明碑設置について、沖田町の有志(5人位)で「福重橋の記念碑裏側に水切り石は置いてあるが、自分達の代までは由来を知っていても、このままではいずれ、この石が何なのか誰も分からなくなる」、「知っている者がいる間に、説明板みたいなものを作っておこう」と言うことになったそうです。そして、説明文章を考えて最終的には、2012年4月に「中田石碑店に作って頂いた」とのことでした。
・水切り石の説明碑の意義について
私は、上記の説明碑を見て、下記4項目の感想や意義があるのではないと考えて補足も含めて書いていきます。
(1)沖田町の方々が自主的に考えて水切り石の説明碑を設置されたのは、大変意義のあることだと思いました。
福重橋(木橋)は近代施工ですが、その歴史を後世に伝えようとする熱意に敬意を表します。
(2)木橋が大村市内で(車両通行できる橋で)なくなった現在、木橋用の水切り石は、これを除けば皆無でしょう。その意味からも水切り石として確認できるのは現在では唯一のものであり、木橋の造りを伝える一つして参考になるもの(土木遺産)と思われます。
(3)現在の補足ですが、近年、郡川河口周辺からJR鉄橋周辺まで河川改修工事中です。福重の各種団体(各町内会、福重地区開発委員会、福重郷土史同好会など)は、毎年、長崎県へ河川改修、郡川の飛び石の復活、河川公園、ウォーキングコースなどの整備や新設を要望しています。これに対し県も「親水河川、親水公園」の発想で「できる事柄は実施したい」、「現在、川底に埋まっている郡川の飛び石も探して見つかれば少しでも復活させたい」との口頭回答もありました。
(4)旧・長崎街道や郡川堤防ウォーキングが、年々盛んになっています。上記(3)の郡川の飛び石復活と今回の水切り石の説明碑は、このような方々にとって新たな観光資源にもなると考えられます。
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福重橋記念碑の表面
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まとめ
この項目、先にいくつか書きました内容と重複いたしますが、この記念碑の評価や意義なども含めて再度書いていきます。私は、2012年9月現在で合計10基の「大村の石碑や碑文(目次ページ)」を掲載してきました。その内容は、人物中心の顕彰記念碑や墓碑などがほとんどです。しかし、今回初めて土木遺産関係の記念碑の紹介となりました。土木関係の記念碑と言えば、戦後以降に建立された例えば道路開通記念碑などは、市内に沢山あり過ぎて紹介できないくらいあります。
この福重橋(木橋当時)の記念碑と水切り石は、明治時代の建立で、しかも石碑や文字自体も大きく、その意味からして堂々としていて、さらには、この当時の土木関係記念碑の少なさからしても貴重と言えます。当然のことながら鉄筋コンクリートの福重橋になってからは、木橋当時に使われていた丸太の橋脚(きょうきゃく)、橋桁(はしげた)や欄干(きらんかん)などはなくなりました。
そのような中で、今回紹介しました木橋当時に使われていた水切り石は、大村市内に残る唯一の木橋関係のものでしょう。その貴重な水切り石に、地元有志の方々で分かりやすい説明碑を今春つくられたのは、これまた大きく評価できることと思えます。近年になり、旧・長崎街道だけでなく、郡川堤防沿いや田園広がる市道などで、ウォーキングが盛んにおこなわれています。
これらのウォーキングのついででもけっこうですから、ちょっとだけ足を止めて頂き今回の福重橋(木橋当時)の記念碑と水切り石をご覧頂くと、先人が色々な工夫をされて木橋を造られた様子の一端が浮かんでくるのではないでしょうか。福重橋近く(沖田町側)郡川堤防横の分かりやすい場所で、大きさも目立つ記念碑です。
・関係ページ:郡川 、 福重橋 、 長崎街道の内、福重往還道、郡川の渡し(飛び石)
(初回掲載日:2012年9月4日、第2次掲載日:2012年9月5日、第3次掲載日:2012年9月6日、第4次掲載日:2012年9月8日、第5次掲載日:2012年9月14日、第6次掲載日:2012年9月15日、第7次掲載日:2012年9月16日、第8次掲載日:2012年9月19日、第9次掲載日:2012年9月21日、第10次掲載日:2012年9月22日、第11次掲載日:2012年9月25日)
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