大村の石塔、記念碑、石碑や碑文など | 松原の救護列車の碑<未来への郵便屋さん> |
概要紹介 | 掲載中 |
1)記念碑内容について | 掲載中 |
2)記念碑の大きさなど | |
緯度経度など | |
まとめ | |
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(写真1) 松原小学校内にある松原の救護列車の碑<未来への郵便屋さん>(2019年11月27日撮影) |
松原の救護列車の碑<未来への郵便屋さん>は、長崎県大村市松原本町にある大村市立松原小学校の校舎(L字型の長辺)前の花壇にあります。この碑の建立は、松原の救護列車を伝える会が中心となり、武蔵野美術大学・旅するムサビプロジェクトが協力され、松原小学校の児童が制作されました。 本碑は、2015年が長崎原爆70周年で、それを祈念して2015(平成27)年12月24日に竣工されています。本体の大きさは、高さ120cm、横幅218cmです。 詳細は後の項目に記述しますが、1945(昭和20)年8月9日、長崎原爆で被害者となられた方々が諫早、大村、佐世保の各市へ(当時の)国鉄で運ばれました。松原駅にも、その救護列車が着き、松原小学校に運ばれました。 そして、被爆者の方々へ、松原地区(福重地区の人も含む)の方々が、言うにいえないほどの献身的な手当と看護をされました。 ただ、長崎原爆から碑建立時で既に70年間の時が経ちました。そのようなことから、松原の救護の状況などを詳細に知っている方、あるいは当時のことを語る機会も少なくなりました。 救護列車とは 注1:下記<>内青文字は、松原の救護列車を伝える会主催で、2015年8月9日に大村市立松原小学校で開催された「朗読劇」の案内チラシ(裏面)から引用した。 < 救護列車とは---長崎では「救護列車」が負傷者の救援や避難に重要な役割を果たしました。あの日の艮崎では、原爆で破壊された鉄道の急遽復旧に成功しました。被爆後わずか3時間弱の午後13時50分には、国鉄の列車第1号(8両編成)が最初の「救護列車」として発車しました。大村市松原に到着したのは既に21時を過ぎていました。降ろされた被爆者は松原とは縁がない人たちだったそうです。> 松原の婦人警護団とは まず、本ページ右側(写真A)=松原の婦人警護団の写真を参照願います。この写真は、上記項目と同様ながら松原の救護列車を伝える会主催で、2015年8月9日に大村市立松原小学校で開催された「朗読劇」の案内チラシ(裏面)にある写真から複写、縮小して掲載しています。そして、先の案内チラシの写真説明文には、次の<>内青文字が書いてあります。 < 松原の婦人警護団の写真---戦時中は若い男の人が少なかった為に女性も武装して万が一に備えていたそうです。救護列車が着き、被爆者の手当ての手伝いを小学校でしたのも、このお母さんたちでした。> 。> 上記の説明文を参考にすれば、長崎から被爆救護列車が松原に着くと、医師や看護婦(看護士)とともに松原小学校で、この松原婦人警護団が被爆者看護のため、言うにいえないほどの献身的な手伝いをされたのでしょう。あと、この救護の手伝いは、松原地区の方ばかりではなく、隣の福重地区の方も救護活動をされたとの話が伝わっています。
1)記念碑内容について この松原の救護列車の碑<未来への郵便屋さん>には、その台座(土台)部分に碑文プレート板が、2枚あります。(写真3を参照) 上部が「未来への郵便屋さん」と書いてある記念碑名称板です。そして、その下部は、建立趣旨や竣工年月日などが書いてある本文のプレート板です。この本文板の大きさは、高さが30cm、横幅が80cmの白色です。2枚のプレート板の碑文(全文)を、次の<>内の青文字で転記します。 なお、原文の漢字や平仮名(ひらがな)は変えていませんが、ホームページの制約上と、(レイアウト上)全文を見やすくするために送り仮名や改行位置は、上野の方で一部変えています。もしも、この碑文を引用・参照される方は、必ず実物の碑文プレートから転記を願います。 < 救護列車の碑<未来への郵便屋さん 「みなさんの思(おも)いのひとつひとつは、野原(のはら)に咲(さ)く花(はな)のようにきれいで、川(かわ)を泳(およ)ぐ魚(さかな)のようにきらきら光(ひか)っていて、だれかと握手(あくしゅ)する手(て)の平(ひら)のように温(あたた)かいものです。 花(はな)よりももっと綺麗(きれい)だし、魚(さかな)よりもきらきらしています。だれもが見(み)たことの無(な)い、言葉(ことば)にできないほどの、とてもすてきな形(かたち)です。」 このモニュメントは戦後(せんご)70年(ねん)事業(じぎょう)として、松原(まつばら)の救護列車(きゅうごれっしゃ)を伝(つた)える会(かい)と、武蔵野美術大学(むさしのびじゅつだいがく)「旅(たび)するムサビ」の協力(きょうりょく)で松原小学校児童(まつばらしょうがっこう じどう)が制作(せいさく)した。 ここ松原小学校(まつばらしょうがっこう)では昭和(しょうわ)20年(ねん)8月(がつ)9日(ここのか)、原子爆弾(げんしばくだん)による被災者者(ひさいしゃ)が長崎(ながさき)から救護列車(きゅうごれっしゃ)で運(はこ)ばれ、治療(ちりょう)を受(う)けた。原爆(げんばく)で苦(くる)しんだ人(ひと)たち、松原(まつばら)で救護(きゅうご)に当(あ)たった人(ひと)たちの思(おも)いを知(し)り、感(かん)じだことを形(かたち)にして大(おお)きな鳥(とり)の郵便屋(ゆうびんや)さんにのせ、未来(みらい)へ届(とど)けていく。 平成(へいせい)27年(ねん)12月(がつ)24日(か) 竣工(しゅんこう) > 2)記念碑の大きさ、緯度経度など このページの(写真1、2)を参照願います。その写真に写っているのが、松原小学校にある松原の救護列車の碑<未来への郵便屋さん>です。そして、その下側が、台座(土台)です。それらの大きさと緯度経度は、下表二つを参照願います。なお、(写真2)でも、お分かりの通り、本体は、普通の記念碑(四角形などが多い)と違って、芸術的な形状です。 そのため、どこから、どこまでが正規の横幅などが分かりにくい部分もあるため下表の数値は、あくまでも参考程度に、ご覧願います。また、数値未記入欄は、ご容赦願います。 祈念碑を乗せる台座(土台)は、コンクリート製の頑丈そのものの造りです。また、本体の底部に合わせて台形に似た形状になっています。さらには、この台座は、本体を引き立たせる形(役割)もあると思えます。全体をやや離れて見ますと、大きく手を広げたような感じで、何かを受け止めるような、どっしりとした造りかなあとも思えます。
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