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(写真2) 松原小学校の二宮金次郎像
(像本体部中心の写真)
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2)像について
まず、(写真1、2)を参照願います。そして、大きさなどは上表通り、松原小学校の二宮金次郎像は、高さ1m10cmです。この本体の高さ自体は、「福重小学校の二宮金次郎像(陶像)」の1m30cm、「鈴田小学校の二宮金次郎像(石像)」の90cmに比べても、けっして小さくはありません。しかし、他校の像と比べて、(写真1)のように、かなり小さく見えてしまいます。この要因は、台座の高さが2m30cmもあるため「目の錯覚」で、そう見えてしまうのかもしれません。
・本像は銅像
この像についての建立趣旨などについては、後の項目で書く予定ですが、松原小学校の本館校舎2階に「郷土コーナー」写真展示があります。その1枚に、1955(昭和30)年8月31日に撮影された二宮金次郎像の寄贈記念写真説明文でも、本像は銅像であることが記述されています。
・精巧精緻な像
本像は、当然、肉眼でも詳細な視認はできます。さらに、例えば望遠レンズあるいは撮影後パソコン上でのズームアップ写真で確認したことを、上野の見たままの感想を書いていきます。
まず、利発そうな顔の表情、細かく表現されている頭髪、手足の指先、和服の折り目・袖口・帯を結んでいる部分、筋肉隆々とした両足、背中に背負っている「薪(たきぎ)」1本1本に至るまで確認できます。そのような状況からして、一言で表現するならば、「精巧精緻(せいこう せいち)な造り」といえます。
あと、ご参考までに、両足の下部に銅製の土台があります。これは、私が思うに、両足だけでは安定性に不足があるので、本像を支える目的があるのではないでしょうか。これによって、本像が、がっちり安定しているようにも見えています。
3)碑文内容について
このページ掲載の(写真1、2、3)をご覧になれば、お分かりの通り、二宮金次郎像本体下部の台座(土台)の中央上部に碑文(プレート)があります。先の台座の大きさなどは、上記項目の「1)像の大きさ、緯度経度など」に書いていますので、参照願います。また、先の写真の通り、原文は縦書きです。しかし、本ページでは、ホームページ用に横書きに直して、下記の太文字にしています。
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(写真3) 二宮金次郎像の碑文 |
(写真4) 碑文のCG写真 |
なお、この像の建立年は、1955(昭和30)年なので、大村にあまたある記念像や記念碑としては、新しい方です。そのため、太文字の碑文通りでも分かりやすいですが、あえて上野の補足も加えながら続き文(口語訳風)にして、下段の「」内に書いています。
寄付 M口彦作氏
昭和三十年十二月ニ十ニ日
濱口彦作氏の遺志により
夫人 濱口クイ氏が建立
「 (この二宮金次郎像の)寄付者は濱口彦作(はまぐち ひこさく)氏である。 (本像の建立年月日は)昭和30年(1955)12月22日で、濱口彦作氏の遺志により、(故人の)夫人である濱口クイ氏が建立したものである。 」
・碑文のCG写真について-
まず、この項目について、(写真3)=実物と、(写真4)=CGの写真を参照願います。先に(写真3)=実物ですが、碑文は、楷書体(かいしょたい)の綺麗(きれい)な文字で分かりやすいです。現地でも当然、実物に近づきますと、肉眼で確認できます。しかし、文字周辺部は(写真3)の通り、長年の風雪風雨によって建立(新品)当時より変色や汚れもあり、見えにくい部分もあります。
そのため、今回、(写真4)の通り、碑文プレート全体をCG加工してみました。なお、ホームページ用の画像ですからサイズ、メモリーとも極端に縮小しています。そのため、文字全体が小さく、幅も細く、ややかすれたように見えています。ただし、パソコン内で見れるCG画像原版は、文字の太さもそのままに、色彩や鮮明度も、くっりと表示されています。
あと、この(写真4)=CG写真の建立年月日「昭和三十年十二月ニ十ニ日」に、ご注目願います。そして、次の項目「建立時の記念写真」(集合写真)の撮影年月日もご覧頂くと、少しの疑問が湧いてきます。
4)建立時の記念写真について
松原小学校2階の「郷土コーナー」に飾ってある下記(写真5)の二宮金次郎像建立記念写真(集合写真)と、その下部にある説明文の撮影年月日を参照願います。上野の推測ながら写真右上部が寄贈者の故・濱口彦作氏、2列目中央の和服姿が故人の夫人である濱口クイ氏、それ以外は同氏の親族あるいは松原小学校の方も写っているのではないでしょうか。
記念写真下部の説明文には、次の「」内の太文字が書いてあります。ただし、改行はしていません。 「 二宮金次郎銅像 寄贈者 故 M口彦作 氏 並に親族一同 昭和30.8.31 」
この写真には、撮影日=1955(昭和30)年8月31日の天気や気温からして、参列者は夏服姿が多いです。特に、子ども達は袖なしの服、あるいは大人の男性も開襟シャツ姿です。8月の暑い時季ならば、それは当然の服装です。また、二宮金次郎像の色も、下部にある台座(土台)も新品そのままに輝いているようにも見えます。
碑文プレートも台座上部にキッチリ埋め込まれています。つまり、現在見ている金次郎像や台座は、この写真撮影時点=昭和30(1955)年8月31日には、完全にできあがっています。あと、ご参考までに後方の建物は、まだ鉄筋コンクリートになる前の木造校舎です。
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(写真5) 二宮金次郎像建立記念写真 |
(写真4) 碑文のCG写真 |
・碑文の建立月日は、なぜ約4か月遅れの「12月22日」なのか?
次に、(写真4)の碑文プレートのCG写真を参照願います。先の項目で紹介した通り、これには、建立年月日として「昭和三十年十二月ニ十ニ日」が彫られています。(写真5)の二宮金次郎像建立記念写真の撮影日から約4か月遅れの月日だということです。この約4か月間のズレは、一般に考えて不思議と言わざるを得ません。
通常ならば、建立が予定通りにいかない場合とか、工事完了日が分かりずらいなどの理由から、例えば完成月日を表すため「昭和30年8月吉日」などとの表示例は、市内どこの記念碑や記念像でも見られる場合もあります。
しかし、今回の碑文プレートには、「昭和三十年十二月ニ十ニ日」と、月日までキッチリと彫られ、さらに言えば本像や台座工事が完成した約4か後の建立年月日です。これとは逆の場合、建立記念式典の挙行が遅くなって、碑文の月日が早いのは、一般にあることでしょう。
ここからは、上野の推測ながら、この「1955(昭和30)年12月22日」の月日は、「寄贈者の濱口彦作氏(建立当時は故人)と何か関係ある年月日(例えば逝去された何回忌とか)ではないだろうか?」などと色々と考えてみました。しかし、結局分かりませんでした。 逆に、この年月日が建立年よりも早い場合、例えば昭和29年ならば建立費用を寄付された年月日などと色々と、その理由は浮かぶのですが。
上記の件で、何か情報を持っておられる方へ、お願い。次の上野宛メールページから、教えて頂けれ再検証して、このページの補足や改訂もしていきたいと思っています。どうか、よろしく、お願いします。
4)補足
(この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください)
・関係ページ:「福重小学校の二宮金次郎像(陶像)」 「鈴田小学校の二宮金次郎像(石像)」
・松原小学校の記念碑関係ページ: 「福田寅作氏の寄附記念碑」 「二宮金次郎像」 「川添福一氏の寄附記念碑」 「M口クイ氏 頌徳碑」 「松原小学校 創立百周年記念碑」 「田崎俊作氏の吉野桜の寄贈記念碑」 「松原の救護列車の碑」
(初回掲載日:2019年12月7日、第2次掲載日:12月14日、第3次掲載日:12月15日、第4次掲載日:12月18日、第5次掲載日:12月22日、第6次掲載日:12月24日、第7次掲載日:12月26日)
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