(2016年度)福重小学校・郷土史クラブ(白馬様関係の史跡巡り) |
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福重小学校・郷土史クラブ(白馬様関係の史跡巡り) 日時:2016年11月30日、14時55分〜15時55分 場所:福重小学校 出席:全体14名(児童は10名、あとは先生方、文化振興課1名) 案内:上野が担当(右側写真は皆同町で写す) 主な内容:白馬様関係の史跡巡り 今回は、白馬様に関係した学校跡2か所、あるいは「皆同の侍の墓」などです。さらに寿古町では、通り道に数か所の史跡もありましたので、併せて補足説明もしました。なお、下記の内容で一番上部にある福重小学校の白馬様は、現在の学校内にあるため見学はしていません。 念のため、下項目は概要の紹介であり、この順序で、この通りに話してはいません。また、説明時、A3サイズ写真も10枚近くを用いて関係史跡について話しました。(右側1番目写真は、広報に「皆同の侍の墓」入口がある所で撮ったものです) |
福重小学校の白馬様 この石の祠(ほこら)が建てられたのは、1941(昭和16)年1月である。場所について、当初は皆同郷(町)に福重小学校があった頃に建立された。1945年に学校の移転があって、しばらくして、この白馬様も1956(昭和31)年に矢上郷(現在の福重町)に引っ越した。 建立者名についての記録や碑文はないが、戦前の学校状況から推測すると、旧・福重村か福重小学校と思われる。石祠本体の大きさは高さ約68cm 、横幅約40cm 、周囲約160cmである。 教職員・児童の守護神(守り神様)とした」とある。建立後から現在まで、長年毎年1月末頃にPTAなどによって「児童の守り神様」として祭られてきた。 なぜ建立されたか含めて詳細は、「福重小学校の白馬様」ページから参照願う。 |
寿古町にある福重小学校・本校跡と記念碑 現在、畑の脇に学校跡の記念碑が立っている。福重小学校は、大村市 寿古町、字(あざ)「株田(かぶた)」といいう所に、1872(明治5)年8月創立した、(大村市内で最初の公立の小学校) ここは、当時の福重村役場が隣にあった所である。当時の校舎と役場の間に、井戸があり、それを小学校用として利用していた言い伝えが地元に残っている。 開校当時の児童数は8名で、最初は福重、松原共同の学校だったが、その後、松原は独立した。ここの校舎は、1891(明治24)年9月、郡川の氾濫(はんらん)によって流された。それで、授業が出来なくなり、当時の今富郷(町)の二軒の家を借りて授業をした。この場所では、約19年間、学校として使用された。<詳細は、福重小学校・本校跡(寿古町)の記念碑ページから参照> |
皆同町にある福重小学校・本校跡と記念碑 当時の寿古郷(町)に開校した福重小学校は、1891(明治24)年9月、郡川の氾濫(はんらん)によって流された。それで、授業が出来なくなり、当時の今富郷(町)の二軒の家を借りて授業をした。そして、当時の皆同郷(町)の「城の前」に、1893(明治26)年9月、新校舎が完成し授業がおこなわれた。 戦争中に空襲(くうしゅう)なもあったが、大きな被害ではなく、授業も続けられていた。しかし、その後、福重飛行場の建設により立ち退きを求められ、1945(昭和20)年4月に当時の矢上郷(現在の福重町)に移転した。しかし、校舎が移築、完了したのは、 1945(昭和20)年11月のことで、そこから授業が再開された。この場所では、約52年間、学校として使用された。<詳細は、皆同町にある福重小学校の本校跡ページから参照> |
皆同の侍の墓(かいどうのさむらいのはか) |
(学校跡見学通り道にあった史跡) ・永松の馬頭観音 、 ・竈(かまど)権現 、 ・竈権現の地蔵 、 ・福重飛行場 、 ・今富城跡 など |
(右側写真:福重飛行場、この飛行場建設のために福重小学校は移転せざるを得なかった。授業も戦争期間中、あるいは飛行場建設などで半年間以上できなかったという) |