概要紹介
名称:福重小学校・本校跡(寿古町)の記念碑<ふくしげしょうがっこう ほんこうあと すこまち の きねんひ>
所在地:長崎県大村市 寿古町、字(あざ)「株田(かぶた)」 (現在、寿古町公園西側から9m強の畑の中。下記GPS実測値参照)
建立年:昭和48(1973)年2月19日
大きさ:記念碑本体は高さ80cm、幅25cm、周囲100cm
碑文:正面には「福重小学校跡」と彫ってある(他の側面は後の項目を参照)
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1872(明治5)年8月創立の福重小学校、当時の場所周辺に建てられている記念碑(大村市寿古町の株田)
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はじめに
大村市立福重小学校は、市内で公立(市町村立)の小学校としては、最も早期に創立されました。その開校年は、1872(明治5)年8月です。(福重小学校の歴史詳細は、ここからご覧下さい) 場所は、当時の福重村寿古郷の庄屋跡でした。現在、この跡地周辺に、1973(昭和48)年建立の学校創立百周年記念碑があります。
創立当初は、松原と一緒で、後で松原は分離し、松原小学校が松原村の庄屋跡(現在地)に開校しました。あと、福重小学校の創立当時の児童数は、8名でした。
ご参考までに、先の福重小学校・創立百周年記念碑は、本校関係で1,現在地(福重町)にある記念碑、2,寿古町にある記念碑、3,皆同町にある記念碑があります。さらに、分教場(分校)関係では、4,立福寺町にある記念碑、5,重井田町にある記念碑と、全部で5基が建立されました。
1891(明治24)年9月、郡川の水害により(寿古郷の)本校が流失し、1893(明治26)年9月、皆同郷(当時の福重村役場=現在の福重出張所前付近)に移転しました。この地にも学校創立百周年の記念碑があります。
そして、1495(昭和20)年4月、福重飛行場の工事や開港に伴い当時の矢上郷(現在の福重町)に引っ越しました。このように、本校だけでも上記のような移転を繰り返さざるをえませんでした。
1)記念碑の大きさなど
右側1番目の写真を参照願います。この写真中央部に写っているのが、寿古町にある福重小学校・本校跡の記念碑です。この記念碑下部に土台としての石垣があります。それらの大きさは、下表を見て頂けないでしょうか。
寿古町にある福重小学校・本校跡の記念碑の大きさ
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記念碑本体 |
高さ:80cm |
幅:25cm |
胴囲:100cm |
石垣(土台) |
高さ:80cm |
幅:100cm |
奥行き:120cm |
2)寿古町での本校場所
先の項目にも書いています通り、福重小学校の開校年は、1872(明治5)年8月です。そして、その場所は、当時の福重村寿古郷(現在の寿古町)の「株田」で、江戸時代まで庄屋(村役場)のあった所です。その同じ敷地内に、福重小学校は創立したのでした。
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Aは福重小学校跡の記念碑場所(実際の学校跡はAの左上側の民家敷地内にあったと推測される)
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右側の航空写真(グーグルアースより)を参照願います。写真下側(南側)にあるのが郡川です。右側(東側)にあるのが、現在の寿古公園です。中央部のAが福重小学校・本校跡の記念碑のある場所(畑と石垣の脇)です。このように記念碑は、畑の脇で、しかも高さ80cmほどの石垣の上にある分、少し高く見えます。なお、目印にもなる寿古公園の最西端の金網から、西側方向に9m強の場所にあります。
ただし、実際の学校跡は、この記念碑の所より数十メートル離れた、やや左上側(北西側)にある民家の本宅、さらにはその左側(北西側)にある小屋(倉庫)や庭などの敷地内にあったものと推測されます。
それなのに、なぜ、記念碑が先のように畑の脇に立てられたかを想像します。それは、民家の敷地内では何か用事がない限り、通常では個人宅に行かないでしょうから見えないのです。それよりも、Aがある南側(写真下側)数メートルには市道もありますので、この場所ならば道路からも記念碑が目立つますし、見学もしやすいからだったと思われます。
あと、先の民家本宅と小屋の間に、井戸があったそうです。井戸は掘るのに大変ですから、庄屋のあった江戸時代頃から全く場所は変わっていないし、その位置関係から建物の配置も大きな変更はなかったとも推測されます。この井戸から汲み上げた水は、当時の福重小学生児童も福重村役場職員も飲んだと思われます。
しかし、1891(明治24)年9月、写真下側(南側)にある郡川が、氾濫して福重小学校の校舎が流失してしまいました。そして、その後は当時の今富郷(町)の2軒の民家を借りて仮校舎で勉強していました。あと、1893(明治26)年9月、皆同郷(町)の「城の前」に新たな本校舎が完成後は、そこに移転しました。
つまり、寿古郷(町)での福重小学校は、1872(明治5)年8月の開校以来、この場所に学校(本校舎)として存在したのは、約19年間だったということです。
3)GPS実測値
寿古町の民家近くにある、この記念碑は市道近くで目立ってもいますので、上記項目を参照して頂ければ直ぐに分かるかと思います。ただし、2016年12月3日午後に、上野の携帯型GPS測定器で緯度経度も計測しましたので下表に、その数値を書いておきます。
表の右側2行目の数値を国土地理院)地図検索用ページにジに入力して頂ければ、この福重小学校跡(寿古町)の記念碑のある地図が表示されます。地図上では、ほぼ正確に表示されます。ただし、グーグルアースは航空写真上に表示するため、ほんの少し誤差が出ますが、数値補正はしていません。いずれにしても、参考程度に、ご覧願います。
福重小学校・本校跡(寿古町)の記念碑、GPS実測値
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名称:福重小学校跡(寿古町)の記念碑 |
場所:大村市 寿古町(寿古公園近くの民家近く) |
GPS実測値:32度57分50.37秒 129度56分27.31秒 |
(国土地理院)地図検索用 32度57分50.37秒 129度56分27.31秒 |
グーグルアース用数値:32°57'50.37"N,129°56'27.31"E |
標高:GPS高度計は7m、気圧高度計は6m、地図上の標高は6.1m |
4)碑文内容について
福重小学校・本校跡(寿古町)の記念碑の4面には、下記の太文字が彫ってあります。念のため、碑文は全て縦文字です。また、右下側写真中央部が正面で、3行の碑文があります。 これから正面、左側面、裏面、右側面の順に碑文内容を書いていきます。なお、記念碑の前は畑、裏側は石垣です。そのような状況で記念碑近くを通る市道からは、通常の場合、正面(表面)しか見えていません。
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1872(明治5)年8月創立の福重小学校、当時の場所周辺に建てられている記念碑(大村市寿古町の株田)
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<碑文内容>
・正面(南面) :創立百周年記念 福重小学校跡 昭和四十八年二月十九日建立
・左側面(西面):明治五年 松原と共同して創立する
・裏側面(北面):明治六年 松原が分離する 贈 前川佐市
・右側面(東面):明治二十四年 洪水で校舎が流失する
上の太文字に補足や注釈交えて、さらに少し順序も変えて詳細内容を書きますと、次の<>内通りと思えます。
< (福重小学校の)創立百周年を記念して、福重小学校跡(記念碑)を昭和48年(1973)2月19日に建立した。 (福重小学校は)明治5年(1872)に松原(村)と共同して創立した。 明治6年(1873)に松原は分離した。 明治24年(1891)9月、(郡川が氾濫したので)洪水によって校舎が流失した。 寄贈者(注1)は前川佐市である。 >
(注1):この贈と言う言葉は、もちろん記念碑そのものの建立、建設費用を通常は指している。ただし、この福重小学校創立百周年記念事業は、同じく創立百周年記念事業推進委員会によって、一斉に5基の記念碑や沿革碑が建立されているので、その費用は全て、その団体が賄ったものと推測される。そのため、今回の寄贈者は、それらの費用も寄付しながら、貴重な記念碑用の土地の提供もされたものと推測される。
5)補足とまとめ
(この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)
関係ページ:「皆同町にある福重小学校の本校跡」 、 「福重小学校・立福寺分教場跡の記念碑」 、 「福重小学校・重井田分教場跡」 、 「福重小学校・創立百周年記念碑」 、 「福重小学校・沿革史の記念碑」 、 「福重小学校の歴史」
(初回掲載日:2016年10月25日、第2次掲載日:12月5日、第3次掲載日:12月17日、第4次掲載日:12月20日、第5次掲載日:12月23日、第6次掲載日: 月 日、第6次掲載日: 月 日)
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