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福重郷土史同好会
2021年の活動報告(9)

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2021年10月24日、日本習字 大村支部長会 福重の石仏の講話(概要報告)
 (写真1) 講話後の記念写真  (写真2)  講話前の会場
 (写真3) 滑石製平安仏の3体並び(弥勒寺町)  (写真4) 下八龍の線刻石仏(弥勒寺町)
 
 (写真5) 仏頭1(弥勒寺町)
(写真6) 草場の単体仏<滑石製平安仏>(草場町)
日本習字 大村支部長会 福重の石仏の講話(概要報告)
日時:2021年10月24日10時30分〜11時30分
場所:
寿楽
主催:日本習字 大村支部長会
参加
10名 
講話担当:上野
 注1:最上部写真は講話終了後の記念写真。。
 注2:上野の講話中は映写巣スライドと配布資料をもとに話したが、一部において冊子「福重の石仏も活用した。

はじめに
 
上野の自己紹介(このページを参照)  私は、皆様が西大村小学校で(2019年10月13日に)開催された「席書会」に取材に行き、そして、福重ホームページに掲載している。(この席書会の詳細は「2019年10月13日 日本習字 大村地区 席書会(概要報告)」ページ参照)

講話の概要:

 注1:石仏の講話の前に福重地区の紹介(「フルーツの里・福重」など)をおこなったが、本ページは省略している>

福重の古い石仏の概要
(1)古い石仏が多い、約30体。(2/3以上が大村市弥勒寺町にある)
(2)狭い地域に古い石仏群は九州でも長崎県内でも珍しい。(九州では国宝臼杵の石仏が有名)
(3)「謎の線刻石仏」含めて分からないことも多い。

石仏の種類と年代
 下記の建立年代は仏像専門家によって様々な説があるため最大公約数で表現している。そのことから、年代幅が広くなっている点は、ご了承願いたい。一部の種類を除き(2019年現在)、建立年代は確定的にはいえない。

1)滑石製平安仏-----平安末期〜鎌倉初期
2)線刻石仏---------平安末期〜中世時代
3)線刻不動明王像---鎌倉初期か中期
4)仏頭-------------中世時代
5)六地蔵-----------戦国時代

石仏の 「古い」「新しい」の境目年
 1574(天正2)年が、その境目年である。<戦国時代、大村純忠の頃>
(1)この年、キリシタンによる他宗教弾圧事件発生(仏教僧侶の殺害、寺社の焼打ち、略奪、木や石の仏像の破壊、古文書類が燃やされた)
(2)この境目年より古い石仏は、種類も数も表情も豊かである。
(3)新しい石仏は、まるで既製品・大量生産されたような石仏が多い。(ただし馬頭観音は除く)

なぜ石仏が多いのか?
1)仏教寺院が沢山あった。(大村市北部=下記の図Aを参照)
  ・福重・松原・竹松で22寺院あった。
  ・福重地区だけでも述べ16寺院あった。

2)福重・松原は、穀倉地帯で財力があり、多くの寺院と石仏を造りだした。
図A郡地区(大村市北部)にあった(古代〜中世の)寺院群 (写真7) 線刻不動明王像(弥勒寺町)
冊子「福重の石仏表紙も同様>

(図B) 注:経塚、経筒、単体仏も縮尺は実際と違う。
上記、経筒が壊れないように周囲に石の天井板、
側壁、小石で囲んだ想像図である。
 
(写真7) 清水の線刻石仏 (弥勒寺町)
 
  (写真8) 仏頭2 <未完成?>(弥勒寺町)
 
(写真9) 野田の六地蔵 (野田町) 
1)滑石製平安仏
  <注:滑石製平安仏は、(写真3、6)と、右側の図Bを参照>
(1)福重・松原に合計9体が現存している。
(2)建立年代は平安末期〜鎌倉初期といわれている。
(3)西彼杵半島産出の滑石と推測されている(西彼杵半島は日本有数の滑石の産地)
(4)経塚の上に乗っていたと推測される。(右側の図B経塚の想像図である)
(5)大きさ:高さ22〜43cm、幅15〜23cmである。

・滑石製平安仏が経塚に乗っていたのは、信仰と目印のためである。これは、北部九州の特徴と思われる。
・大村と佐賀県に10数体
・北部九州に合計27体
・全国には滑石の産地の関係から、滑石製平安仏の例が少ない。
 (注:大村市内に6個の経筒が現存。内5個が福重から出土している)

 補足:末法思想の流行時(平安末期から鎌倉初期)に建立された経筒滑石製平安仏が、これだけ多く大村に現存しているということは、すなわち松原や福重にあった古代仏教寺院が、新しくても平安時代中期か後期前までに、5〜6寺院並び立っていないと、数字的(考古学的)にも合わないことを教えている。

2)線刻石仏
  <注:線刻石仏は、合計16体(弥勒寺町に12体、福重町に1体、武留路町に3体)現存している。(写真3、6を参照)>
(1)加工しにくい自然石に線で彫られた石仏である。
(2)納衣(のうえ=粗末な衣類)の下で拱手(きょうしゅ=中国式敬礼)は、共通した姿である。
(3)合計16体で、光背があるのが3体のみで、あとはない。 蓮華座は、全てない。
(4)高さ54cm〜137cm、幅45cm〜123cm。
 (写真3、7を参照)

・「謎の線刻石仏」とも呼んでいる
(1)一見すれば如来系石仏だが、拱手(きょうしゅ=中国式敬礼)の姿は、神像または神仏習合像を表していると言う。(上野個人の推測ながら光背のある3体は如来系、あと残り13体全部は神仏習合像ではないかと思っている)

(2)全国にも、この姿がない訳ではないが、狭い地域に16体もあるのは珍しいといわれている。

(3)私達は、「謎の線刻石仏」とも呼んでいる。

3)線刻不動明王像
  <注:線刻不動明王像は1体のみで弥勒寺町にある。(写真7参照)>
(1)建立は、鎌倉時代の初期か中期の説あり。
(2)県内では、最も美しい線刻不動明王像。
(3)現代の加工技術で自然石に造れないと言う。
(4)石(像)の大きさ:高さ168cm、横幅78cm

4)仏頭
  <注(2019年1月現在)未完成含めて仏頭は合計3体で、全て弥勒寺町にある。(写真5、8を参照)>
(1)建立は中世時代か? 様々な説あり。
(2)完成形の仏頭1の高さ約90cm、幅約80cmの大きさは、全国でも少ない。(頭部のみの建立なら最大級か?)
(3)仏頭のみが造られた珍しさもあり。
(4)加工しにくい大村の石である。

未完成の仏頭もあり
(1)仏頭は合計3体(2019年1月現在)あり。
(2)完成形が1体、未完成が2体あり。

5)六地蔵
 <注:冊子「福重の石仏には2体しか掲載していないが、実際は福重地区だけでも5体程あることは確認している。(写真9を参照)>
(1)六地蔵(六面地蔵、六体地蔵)の建立は、戦国時代といわれている。
(2)キリシタンによって破壊されたため、完全形の六地蔵はない。
(3)ただし、六面部分(本体のみ)は、福重だけでも5体以上ある。
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質疑応答<Q&A>と感想など
 質疑応答の時間や、その後も含めて下記のような質問や感想などがありました。
Q1::CG写真は、どうやって作成しているのか?
A1:できるだけ精密なデジタル写真のを撮る。そして、その画像を写真加工ソフト(フォトショップなど)使い、パソコンで0.5mmとか1mm位の点と線を描いている。(ご参考までに、線刻石仏一体で、3週間〜4ヶ月かかったものもある)

・「書道以外の話しも聞けたので感謝したい」 ・「福重には良く行っている」 ・「親戚がある」「今度は実物の石仏を見ながら歩いてみたい」
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<上野より聴講して頂いた皆様へ、お礼>
 まず、今回の「福重の石仏」講話を聞いて下さった皆様、大変ありがとうございました。改めて皆様、何かの機会ありますれば、つたない上野の案内・説明しかできないかもしれませんが、「フルーツと石仏の里・福重」にいらっしゃって下さい。歓迎いたします。最後に、皆様のますますのご活躍を祈念致しております。

・関係ページ:「2019年10月13日 日本習字 大村地区 席書会(概要報告)

・石仏関係ページ:「CG石仏写真(もくじ)」  「仏の里・福重(もくじ)」  「滑石製平安仏(単体仏)とは」  冊子「福重の石仏

初回掲載日:2021年10月26日、第二次掲載日: 月 日


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