(史跡説明板)上八龍の線刻石仏
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名称:上八龍の線刻石仏 |
様式:説明板 |
場所:弥勒寺公民館東側(熊野権現の境内) |
設置者:弥勒寺町内会、福重地区活性化委員会 |
設置年:2014年3月31日 |
GPS実測値:32度57分48.23秒 129度57分22.68秒 |
全体の大きさ:高さ175cm、横幅70cm |
(国土地理院)地図検索用ページ |
本体の大きさ:高さ60cm、横幅70cm |
グーグルアース用数値:32°57'48.23"N,129°57'22.68"E |
注:GPS実測値について、場所によっては若干の誤差もある。グーグルアースは航空写真上に表示するため若干の誤差もあるが、数値補正はしていない。(先の二つの事項は、あくまでも参考程度に、ご覧願いたい)
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基盤整備(圃場整備)の時に田んぼの土手に置かれた頃の上八龍の線刻石仏(この場所から2014年3月26日、移設工事が実施され現在地=弥勒寺公民館の東側に安置された)
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史跡説明板写真周辺の説明
この上八龍の線刻石仏のあった元々の場所は、弥勒寺の字(あざ))「上八龍」の田んぼの脇にあったと言われています。そして、正確な年代不明ながら昭和時代後期か平成時代初期頃、田畑にトラクターが入って耕作できるように基盤整備(圃場整備)の工事がおこなわれました。
その時、邪魔になるので高速道路近くの田んぼの土手に置かれました。一般に知られるようになったのは、この状態の時からです。(右側1番目写真参照) しばらくして、例えば新聞記事で取り上げられたこと、あるいは福重郷土史同好会や地元などでも、2003年前後頃から、しばしば「もっと見学しやすい、どこか違う場所に移転、安置できないものか」という機運も繰り返しおきました。
現在地に2014年3月26日、移転・安置された
さらに経過して、2011年度からスタートした大村市の住民主導型事業交付金による地域活起こし団体が市内各地区でつくられました。同年度に福重地区でも福重地区まちづくり活性化委員会が発足しました。その地域活性化団体で福重地区内で史跡保存が討論され、その中の取り組みとして今回の移設工事や史跡説明板の設置が事業計画化されました。
2013年3月に史跡説明板3基が設置され、2013年度中に今回の移転工事が計画されました。そして、2014年3月26日、福重地区まちづくり活性化委員会と弥勒寺町内会の共同事業で、上八龍の線刻石仏は先に紹介した田んぼの土手から、現在地=弥勒寺公民館の敷地(より正確に言えば熊野権現の境内)に移転、安置されました。
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(移転・安置された)上八龍の線刻石仏(中央部、石の大きさ=高さ175cm、横幅312cm)と、史跡説明板(左側)<弥勒寺公民館東側、熊野権現の境内>
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あと、この上八龍の線刻石仏・史跡説明板のある周辺には、「CG石仏写真(福重の石仏)」(目次ページ)や「仏の里 福重」(目次ページ)でも紹介しています通り、石仏の多い地域です。同じ弥勒寺公民館敷地内と限定しても、石仏・石塔として「線刻不動明王像」、「陽林」、「三体仏」、「弥勒寺の馬頭観音」などがあります。
さらに、弥勒寺公民館を中心に半径300mの円を描けば、弥勒寺町にある(平安時代末期〜戦国時代の)古い石仏の内、九割近くが集中していると言っても過言ではありません。それは、弥勒寺町だけでなく同町含めた福重地区(10町内)全体と置き換えても、この数字に大きな変化はないです。
なぜ、これだけ古い時代の石仏が集中しているのかについては、2014年現在、正確な根拠などは不明なようで、ずっと諸説含めて研究が続いている状況です。その一つとして、郡岳(826m)の(旧称)太郎岳大権現への修験道が、この弥勒寺周辺には数本ありました。特に、弥勒寺跡周辺は、その修験道の登り口(登山口)に当たるので影響があったのではとも言われています。
あと、この上八龍の線刻石仏・史跡説明板がある東側の田んぼには、弥勒寺という仏教寺院がありました。この弥勒寺跡については、既に「弥勒寺跡の史跡説明板」や弥勒寺跡紹介ページに掲載中ですので、参照願います。
史跡説明板の内容
右上側写真の左側に写っている史跡説明板には、下記「 」内の文章が書いてあります。なお、原文は縦書きですが、ホームページ上、横書きに変えています。また、見やすいように一部、改行などを変えていますが、文章そのものは原文通りです。
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(移転・安置前の)上八龍の線刻石仏(線刻部分は(CG加工)
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「 上八龍の線刻石仏
この石仏の元あった場所は弥勒寺の字「上八龍」で川口氏の水田脇にあったが圃場整備で移され、土手に置いてあった。平成二六年三月二六日に熊野権現敷地への移設工事に当たり弥勒寺町内会に提供して頂いた。
この石仏の建立年代は平安末期から中世とも言われている。石全体の高さは一七五、横幅は三一二センチ、重さ二トンあり、福重地区の石仏では最大である。石仏の姿も美しく、自然石にこれだけの線刻を施すのは高度の技術を要したと思われる。
仏の形は一見すると光背(光の輪)のある如来系仏像に見えるが、納衣(粗末な衣)の下に手を隠し拱手(中国式敬礼)をしている姿から神仏習合像を表しているとも言われ正確には不明である。
福重地区にはこの形式の線刻石仏が合計十三体あるが、一定の地域に、これだけ集中しているのは全国的には珍しいといわれる。
二〇一四年三月三一日
弥勒寺町内会・福重地区活性化委員会 」
補足
先の項目に詳細に書きましたので、特に新たに補足すべき内容はありません。ただ、上八龍の線刻石仏は、今回見やすい場所に移転・安置された関係上と、弥勒寺公民館周辺には「線刻不動明王像」、「陽林」、「三体仏」、「弥勒寺の馬頭観音」など様々な石仏・石塔があります。機会あれば、史跡巡りや健康ウォーキング時の目標物にお勧めです。
改めて所在地についてですが、下記の弥勒寺公民館への地図あるいは大村夢ファーム・シュシュさんからも直線で約300mの位置にありますので、分かりやすい場所だとも言えます。(このページ最上部のGPS実測値も参照) 何かの機会で弥勒寺町に立ち寄られる機会があれば、この石仏の見学をお願いします。
そして、多くの方に上八龍の線刻石仏をご覧頂き、謎の多い福重の線刻石仏についての情報が、今後も多数寄せられ解明されていくことも私は望んでいます。
・詳細な関係ページ:CG石仏写真の『上八龍の線刻石仏』
(初回掲載日:2014年4月6日、第2次掲載日:4月7日、第3次掲載日:4月21日、第4次掲載日:4月22日、第5次掲載日:4月 日)