(大村市立)郡中学校1年生の地域学習「キリスト教と禁教時代」<1)今富のキリシタン墓碑、2)帯取殉教地跡>(概要報告)
日時:2019年7月2日 13時40分〜(休憩)〜15時30分 、 参加数:67名(先生3名、生徒64名)、 講話:上野
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(写真2) 地域学習・講話中 |
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(写真3) 黄金山古墳 |
趣旨:郡中学校1年生の「地域学習」の中で、「キリスト教の禁教時代」があります。その中で、今富町にあるキリシタン史跡<1)今富のキリシタン墓碑、2)帯取殉教地跡>の見学と講話が、当初の主目的でした。
しかし、7月2日当日は、あいにくの雨となり、午前に予定されていた史跡(現地)見学は中止となりました。午後からの講話は、上記の通り開催できました。なお、下記からの内容は、映写スライドした内容の概要と質疑応答の一部のみです。
講話の概要:
テーマ:今富町のキリシタン史跡
1)今富のキリシタン墓碑 、2)帯取殉教地
キリシタン時代の、ずっと前の今富
「キリシタン禁教時代」に入る前のことも述べたい。なぜなら、人の歴史は、長年つながっているからだ。
今富は古い土地柄なので
・最低でも(新しくても)今富は、7千年前から人の歴史がある。
・急に仏教、急にキリシタン、そして急に禁教となった訳ではない。
例えば(詳細は下記リンク先を参照)
(1)今富には、約7000年前、(大村で最古の)縄文時代の遺跡=岩名遺跡がある。
(2)今富には、5世紀頃の黄金山古墳<長崎県唯一の形式(壁が真っ赤に塗られていたなど)>がある。
(3)今富には、仏教寺院がいくつかあった。
(4)今富には、(京都の寺院)仁和寺の荘園があった。
(5)今富には、尾崎城(おさきじょう)、岩名城(いわなじょう)もあった。
(6)今富には、神社・権現(ごんげん)も多い。
<上野注:上記(1)〜(6)まで実際の講話は、スライド映写(写真)で詳細説明したが、このページでは、その内容は省略した>
今富のことをまとめると、次の点がいえる。
1, (佐奈河内川、野田川、郡川などがあり)水が豊富だった。
2, 米(コメ)が、たくさんとれた。
3, 人が、たくさん住んでいた。
だから、今富は、経済力もあり、情報・文化(仏教)も集まってきた土地柄といえる。そのようなことから、この地を支配する豪族もいて、古墳、寺院、城などもあった。この流れの後で、キリスト教、その後の禁教の時代を迎えている。
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キリシタン時代に入って(略年表)
1549年、宣教師のフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸
1550年、ザビエルが平戸で布教開始、キリスト教の歴史の始まり
1563年、大村純忠が重臣たちと洗礼 (日本初のキリシタン大名)
1571年、長崎港が開港
1574年(天正2年)、キリシタンによる僧侶の殺害、寺社の焼打ち破壊事件
1580年、大村純忠、長崎をイエズス会へ寄進(贈呈)
1582年、天正遣欧少年使節団、長崎港を出発(1590年、帰国)
1587年、豊臣秀吉、「伴天連追放令(バテレンついほうれい)」を発す
1588年、秀吉、長崎・浦上・茂木を没収、大村氏から長崎を没収
1597年、フランシスコ会系の宣教師など日本二十六聖人の殉教
1603年頃、大村市に新教会建設
1612年(慶長17年)、全国にキリスト教禁止令
1614年(慶長19年)、今富のキリシタン墓碑
<従来説は「天正4年(1576)」だったが、新説では慶長19年(1614)である>
1617年(元和3年)5月22日、十二社権現でマシャード神父とペドロ神父が殉教
「帯取殉教」(記念碑の場所は間違いで約350m南西側へ行った所が本当の場所)
1637〜1638年、島原の乱、約3万7千人の一揆、ほぼ全員が死亡
1657年(明暦3年)、郡崩れ(逮捕者は603名、406名が打ち首)
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キリシタンによる仏教僧侶の殺害や寺社の破壊
大村領で天正2年 (1574年)に起こったキリシタンによる事件
(1)仏教僧侶・峯阿乗(みね あじょう)の殺害(寿古町に墓がある。大日堂
(2)仏教僧侶などの大村領内からの追放
(3)寺社の焼打ち、破壊、略奪
(4)木製仏像は燃やし、石仏・石塔類は破壊
なぜ、禁教となったのか?
従来説では、禁教の要因として、「権力者たちがキリスト教恐れたのは、信徒たちの固い結束」みたいにいわれているが。 はたして、それだけだったのか。
伴天連追放令(バテレンついほうれい)には<下記は松浦家の文書の一部のみを短縮して口語訳した><注:この追放令は豊臣秀吉が九州を平定した後の1587年に出された> <伴天連津法令の詳細解説は、日本大百科全書の「宣教師追放令」を参照>
・宣教師は国外退去せよ
・(キリシタンによる)神社・仏閣を破壊は暴挙だ
・土地を教会に寄進(贈呈)することは違法だ
・南蛮船(なんばんせん)での商売、今後とも仏教を妨げない者は誰でもキリスト教国から往来してもよろしい など。
つまり、キリシタンのよる「寺社の破壊や日本の土地を教会(外国人)に勝手に贈呈することなども禁じている。まとめると、この追放令は、単に「宣教師は国外退去せよ」だけでなく、「国内法を守れ」みたいなことが書いてある。また、この追放令は、“ザル法”で取り締まりも厳しくなくて、宣教師は国内にとどまり布教(ふきょう)を広めたといわれている。後で、元は大村領だったがイエズス会に寄進していた長崎は、秀吉から没収(ぼっしゅう)された。
・1612年(慶長17年)、幕府より全国にキリスト教禁止令、各地で徹底された。大村でも取り締まりが厳しくなってきた。しかし、今富のキリシタン墓碑は新説では、禁教令の後の1614年(慶長19年)に建立されている。
1)今富のキリシタン墓碑
<詳細な「今富のキリシタン墓碑」の紹介ページは、ここからご覧下さい>
従来説:日本で古いキリシタン墓碑(長崎県指定史跡)
従来説:一瀬栄正の墓(栄正の奥さんは中浦ジュリアンの叔母さん)
注:墓碑の頭部(元は正面)に「干十字」が刻まれている。
このように従来説では、「一瀬永正」の墓で、しかも建立年(造られた年)は、「天正4年(1576)の年号があるので、日本でも古いと思われていたが・・・」 しかし、
新説では、「干十字」の左右に文字があった。<この新説のことは大村市ホームページの「今富のキリシタン墓碑」紹介ページから参照した>
・慶長19年(1614)----この年号は、全国にキリスト教禁止令が出された1612年(慶長17年)の後である。つまり、キリシタン墓碑では新しい年代と思われている。
・しかも、「干十字」の横には、不明文字ながら人名の漢字もあるという。そこから元々は(従来説の)「一瀬永正のキリシタン墓碑」ではなく、別人の墓ということだ。
2)帯取殉教地跡
・慶長18年(1613)幕府より全国にキリスト教禁止令、各地で徹底
・元和3年(1617)5月22日、今富村・橋口の十二社権現で(下記)2人の神父が処刑された
(1)フランシスコ会のフラーデ・ペドロ・デ・ラ・アスンシオン神父
(2)イエズス会のジョアン・バティスタ・マシャード神父
本当の帯取殉教地(十二社権現跡)と、間違った場所に立っている記念碑
上記の通り、帯取殉教とは、当時の今富村、字(あざ、地名)の橋口にあった十二社権現で、2人の神父が処刑されたことをいう。その場所を証明しているのは、江戸時代(上野調べで1800年以前)に作成された大村藩領絵図です。下記右側の絵図(水色蛍光線は上野が分かりやすいように引いた)中央下部に「十二社権現」が図示されている。
また、(大村)郷村記によれば十二社権現のあった場所として字(あざ)橋口と書いてある。念のために、地名は「帯取」ではない。この地名間違いは、元々、戦国時代に宣教師がヨーロッパに書き送った文書の地名間違い(聞き間違い)から起こったのではないだろうか。
したがって、現在も長崎県や大村市ホームページに「帯取殉教地跡」記念碑の写真付きで紹介されている場所は、間違いである。なお、この間違いは何故起こったのかという点は、地元の今富町の方に聞かなかったこと、さらには考古学的な詳細調査をしなかったことに原因がある。
私は、今からでも間違い場所の写真や紹介文は止めて、本当に正しい場所と写真を掲載すべきだとの考えだ。直して、改訂していくことが重要だ。
質疑応答
<注:下記は上野が覚えている範囲内である。また、分かりやすくするために( )内の補足や注釈も含めてまとめている。質問事項は順不動である>
Q1:禁教時代に何が起こったのか?
A1:まずは指導者だった宣教師を国外退去や処刑した。それでも信者は密かに守っていたが、入牢(牢屋)、雲仙地獄へ追い込む、はりつけなどの弾圧や処刑が起こり、キリスト教を守るため信者の多くが殉教した。大村では帯取殉教だけでなく郡崩れ(逮捕者は603名、406名が打ち首)などもあった。この中には、信者でなかった人もいたという。
Q2:現在の「帯取殉教地記念碑」が間違いというならば、記念碑は、どうするのか?
A2:あの記念碑はキリスト教会関係の方々(民間)が立てたものなので、どうこう言えない。たぶん、そのままだろう。
Q3:(郷土史関係史料の)博物館みたいなものは建てないのか?
A3:良い提案だ。我々(福重地区)の長年の要望でもある。皆さんも郷土史ファンになって頂き、いずれ一緒に要望を願う。
Q4:禁教時代は、(信者は)どうしていたのか?
A4:私は高校時代にキリスト教の教えとして「愛・自由・平等」などを習った。そのような宗教が、戦国時代の堕落
(だらく)した仏教時代の頃に宣教師から民衆へ入ったので、一気に信者が広まったとも思える。その信者が、また元の仏教に戻ろうとしなかったのではないか。しかし、キリスト教を公然とやったら弾圧を受けるので、密かに仏壇の後ろにマリヤ像や十字架などを隠したりして信仰を守った例もあると聞いた。(潜伏キリシタン、隠れキリシタンなど)
Q5:処刑した時、首と胴体を分けたと聞いたが、それは何故か?
A5:(処刑した側は)キリシタンは処刑しても復活する(生き返る)かもしれないと恐れた。それで、首と胴体を分けたと聞いた。帯取殉教の2神父の首は大村湾に捨てられ、胴体部は今富に埋められたと思われる。
Q6:(大村領だった)長崎は何故、(秀吉から)没収されたのか?
A6:日本の土地をイエズス会の教会・宣教師(外国人)に寄進(贈呈)したからと思える。 (補足:貿易の収入も大きので大村領から取り上げた。長崎は後で幕府直轄の天領となった)
Q7:大村純忠に、(豊臣秀吉から)逮捕(処罰)は、あったのか?
A7:大村純忠
(生年1533年〜死去1587年6月23日)の死亡年は今は覚えていないので言えない。ただ、確か遣欧4少年の帰国(1590年)前に亡くなったと聞いている。また、秀吉が1587年、「伴天連追放令(バテレンついほうれい)」出す前に亡くなっていたと思うので、純忠(個人)には何の処分も無かったと思う。ただし、イエズス会へ寄付していた長崎を没収されたのは、大きな収入減となり、(大村藩にとっては)大きな痛手だったと思う。
最後に、1年生代表から、「今日は、今富キリシタン墓碑や帯取殉教地などを教えて頂き、ありがとうございました」などの丁寧なお礼がありました。
今回の講話を聴講して頂いた郡中学校の先生や1年生皆様、お疲れ様でした。皆様、今後とも、よろしく、お願い致します。
・関係ページ:
今富のキリシタン墓碑 、
十二社権現跡<(本当の)「帯取殉教地跡」、
・今富町の他の史跡一例:
福重飛行場 、
大神宮 ・
石割樫 、
黄金山古墳 、
尾崎城跡 、古戦場跡など