重井田町の天狗伝説 |
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重井田町の天狗伝説
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郡岳の天狗 太郎坊は大石を飛んだ
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天狗伝説の起こる背景 |
天狗伝説の起こる背景 全国の天狗伝説と同じような共通性が重井田町にもいくつかあります。今回は、その伝説の要因になったと思われる背景を書きます。 1)僧の行基が郡岳に太郎岳権現を開山 まず、山岳信仰と言う点から見てみましょう。この重井田町内には、郡岳(こおりだけ、826m)があります。この郡岳は、古くは太郎岳と呼ばれ奈良時代、僧の行基がこの山に登り太郎岳権現を開いたと言われています。(注1) それ以来、この太郎岳権現は山岳信仰の修験道の霊場となり、修験者(山伏)が集まる修行の場でした。この権現様は奈良時代からとすれば、これは大村だけでなく長崎県下でも最古に近いものと思われます。その後の話ですが、太郎岳権現は、現在の多良岳(982m)に移ります。
また、重井田町内には、修験者(山伏)の修行場として、御手水の滝(おちょうずのたき、通称:裏見の滝、滝の落差約30m)もあります。 この滝付近には、滝だけでなく巨岩の岩場があり、また、急な山道もあるため修験者の修行場としては、最適な所と思われます。 3)農業、林業地域 次に、この地域は農業や林業も営まれてきました。稲作は平坦地が少ないため、どちらかと言うと江戸時代前後より新田開発がおこなわれ、それ以降盛んになったと思われます。 林業の方は、郡岳周辺を中心に大きな林もあることから、古来より営まれてきたと考えられます。そのため豊かな森林が現在もあります。夏の時季、車で平地からこの方面に来れば分りますが、森林のおかげで、クーラーが要らないほどです。 4)「平家の落人伝説」の地 あと、この地には真偽のほどは定かではありませんが、「平家の落人伝説」もあります。現在は重井田ダム建設により、立ち退かれましたが、平清盛を祀ってあった家も存在していました。実際このことより名前に「清盛」の「盛」の一字をここからもらっていた私の同級生が3名いました。 このように「落人伝説」の真偽のほどは別としても、平安時代の頃のいわれと相まって天狗伝説が伝わりやすい土地柄だったのかなあと想像されます。 郡岳と太郎岳大権現についての補足説明 (注1):江戸時代、大村藩によって編纂された郷村記(大村郷村記)の『郡村之内 福重村』の『郡岳並坊屋鋪之事』の項に郡岳や太郎岳大権現について、下記の通り書かれています。「」内がその郷村記一部分の引用です。なお見やすくするために文章の区切りと思われる箇所に空白(スペース)を挿入しています。 「一 郡岳 当岳往古太郎岳と云 郡村の頂にあり 故に方今郡岳と唱ふ 此山峨々として麓を距る貳里余 萱瀬・千綿の諸岳山脈を是を伝ふ 夫山川は万物を生育するの具にして其一欠る時は土壌乾涸し 五穀生するあたはす 因て水面若しくは湫溢より上騰する浮遊の気風を得て山嶺に上り 冷気を請て聚凝し 或は靄雲と成て山脊を滋潤し 或は濃雲と成て水液を含蓄するもの山脊を衝触すれは忽破裂して雨を降し土壌をして肥腴富饒ならしむるなり ゆへに山川は国の至要たり 当山樹木森列として雲霧常に其頂を蔽ひ 又能驟雨を送る 因て郡村の土壌肥饒なり 曾て元明天皇の御宇和銅年中 管原寺大僧正行基菩薩筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀 釈迦 観音の三尊を拝し 太郎岳大権現と称す 今大村池田の里多羅大権現 往古垂迹の地にして今に頂上幽に石礎の蹟残れり 」 上記の大村郷村記の引用文に「和銅年中、菅原寺大僧正行基菩薩 筑紫巡廻の砌 当山の霊場を挙て弥陀・釈迦・観音の三尊を拝し太郎岳大権現と称す」と、ありますが、これを現代語訳すると下記の<>通りと思われます。ただし、私の素人訳ですので、あくまでもご参考程度にご覧下さい。()内は補足や注釈です。 < (奈良時代の)和銅年間(西暦708年〜715年の頃)管原寺、僧最高位の行基が、筑紫(九州)地方巡回の時、郡岳の霊場に登って、弥陀(みだ) 釈迦(しゃか) 観音(かんのん)の三尊をまつって拝む所として、太郎岳大権現と称した > つまり、奈良時代の始め頃、僧の行基が郡岳に登って太郎岳大権現を開山したということです。 (注:郡岳の詳細紹介ページは、ここからご覧下さい) (掲載日:2005年3月15日) |
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