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大村の史跡説明板・案内板シリーズ 旧松屋旅館(きゅう まつやりょかん)

(史跡説明板)旧松屋旅館(きゅう まつやりょかん) 
 名称:旧松屋旅館  様式:説明板
 場所:大村市松原本町77-1  設置者:松原地区活性化協議会
 設置年:正確には不明だが2012年頃か?  GPS実測値:32度58分31.64秒 129度56分38.95秒
 全体の大きさ:高さ178cm、横幅140cm  国土地理院の地図、 (国土地理院)地図検索用ページ
 本体の大きさ:高さ80cm、横幅90cm  グーグルアース用数値:32°58'31.64"N,129°56'38.95"E
(写真1) 中央部が旧松屋旅館史跡説明板、その奥が旧松屋旅館。手前の市道は旧・長崎街道で、この周辺は松原宿
(写真2) 松原八幡神社本殿  (写真3) 古い石垣内側の敷地は松原宿茶屋跡 

史跡説明板写真周辺の説明
 まず、(写真1と4)の旧松屋旅館は、旧長崎街道(現在は市道)にありますが、下段の史跡説明板の通り、江戸時代に旅館として営業していた訳ではなく、茶屋(休憩所)として使われていました。旅館としては、近代になって、明治時代から昭和40年代位の営業でした。

(写真4) 松原宿・寺子屋塾 (旧松屋旅館の中庭にて)
(写真5) 旧長崎街道・松原宿、左側は江戸時代は松原庄屋
(現在は松原小学校) 
 
 (写真6) 松原庄屋跡」の史跡説明板、 後方は松原小学校
 (写真7) 右側は長岡左近純生の墓と史跡説明板
 
 (写真8) 長岡左近純生の墓
 現在、旧松屋旅館では、松原宿活性化協議会主催の関係行事が、1年間通して、たくさん開催されています。つまり、地域起こしの拠点ともいうべき場所です。その行事の一例として、松原小学校の児童に一番人気の「松原宿・寺子屋塾」を始め、「松原宿のひな祭り」「松原宿 旧松屋旅館のイルミネーション」「松原朝市」などです。

 次に、(写真2)の松原八幡神社ですが、この長崎街道・松原宿の中心地ともいえる所で、先の史跡説明板から約50メートル東部にあります。(詳細は、史跡説明板の「松原八幡神社」ページから、ご覧願います) この松原八幡神社は、竹松にある皇天宮(神社)」とともに、平安時代頃からあり、その古い歴史と格式などから「大村の二大名神社」ともいわれてきました。

 そして、長崎街道が栄えた頃は当然のごとく、その後も含めて彼杵郡全域から参詣者があります。また、相撲の盛んな土地柄からして、境内にある土俵では、松原おくんちなどでは、相撲大会が開催され、賑わっています。

 (写真3)の中央部に写っている下部が古い石垣、上部が漆喰壁の内側敷地内(旧・上野酒店)は、、江戸時代、茶屋(休憩所)があった所です。

旧長崎街道・松原宿を北へ向かって歩く
 下段の項目「史跡説明板内容」には、松原宿は(北側は)変配橋付近から(南側は)旧松原村庄屋(現・松原小学校)近くの「よし川」となっています。しかし、このページでは、旧長崎街道・松原宿を北側へ向かって歩くとしたらという設定で、上記に書いていないことを中心に紹介していきます。

 まず、大村市街地から国道34号線を経て、「よし川」に架かる「よし橋」を渡ると、西側(左側)に旧長崎街道・松原宿の看板があり、この付近から北側(前方)方向を見ますと、旧長崎街道の雰囲気が良く残っています。(写真5を参照)

 さらに北側へ、100m近く進むと、左側(現在、松原小学校)の石垣の上に松原庄屋跡」の史跡説明板があります。(写真6を参照) ここにある南北約70mの石垣は、新旧の石や、つき方が見られます。その古いタイプは、江戸時代のものと思われます。 次に、北側方向へ、約100m行きますと、東側(右側)の住宅地の脇道から数メートルの所に戦国時代に活躍した武将の長岡左近純生の墓」と史跡説明板があります。(写真7と8を参照)

 また、さらに旧長崎街道を40mほど歩きますと、東側(右側)に目印にもなる松原郵便局があります。この郵便局の先が、大村市内で通称「五色塀(ごしきへい)」と呼ばれている石垣があります。

 この「五色塀の石垣」は、様々な色をした自然石を組み合わせ、その隙間(すきま)に漆喰(しっくい)が塗り込まれています。そのため、普通の石垣では見られないような色合い、特に雨上がりの時間帯には、なかなかの風合いさえ醸し出す石垣です。

 この石垣から約20m行った十字路周辺には 既に先に紹介した松原八幡神社松原宿の茶屋跡旧松屋旅館などがある松原宿の中心地です。

・相撲取りの墓や鹿島まで海岸近くを歩く
 さらに、旧長崎街道を進みますと、何十年か前までならば松原の鍛冶屋のあった通りです。また、数100m行きますと、いったん住宅街が途切れ、西側(大村湾側、左側)に墓地が見えてきます。

 (写真10) 左側の白板が相撲取りの墓史跡説明板(奥は大村湾)
 (写真11) 鹿島(南東側=松原海水浴場から遠望)
 この墓地の中で旧長崎街道の左脇に大きな自然石でできた(江戸時代に活躍したという)「相撲取りの墓」があります。(この墓碑については、史跡説明板「相撲取りの墓」もありますので、リンク先から、ご参照願います)(写真10を参照)

 この墓碑から少し歩きますと、変配川(へんぱいがわ)に架かる変配橋があります。今回紹介中の「松原宿の史跡説明板」内容では、ここが松原宿の北端になります。

 ただし、上野個人としては、さらに変配橋から300mほど先にある鹿島(しかのしま)(写真11を参照)まで歩く海岸線や松並木道も紹介したいです。 ここの海岸線は、江戸時代ならば自然に大村湾の柔らかい波が打ち寄せる砂浜、近くの松並木、歩く先に見えている鹿島など、風光明媚(ふうこうめいび)といいますか、絵になる長崎街道だったろうと思えます。

 なお、ご参考までに、この鹿島の中には、「鹿の島弁財天」、戦死された松原(村)地区の「招魂碑」あるいは「八大龍王」などもあります。

 ここで蛇足ですが、この鹿島を北東部の高速道路付近(高台)から眺望しますと、まるで一幅(いっぷく)の絵のように見える時もあります。

 以上、全体通して、旧長崎街道・松原宿は、見どころ一杯で、絵にも写真にもなる所といえるでしょう。

史跡説明板の内容
 このページ(写真1)の中央部に写っています旧松屋旅館の史跡説明板には、下記< >内の青色文章が書いてあります。なお、(写真12)をご覧の通り、原文は縦書きですが、ホームページ用に横書きに直しています。また、原文は、そのまま生かしたいのですが、ホームページの制約上や表現上から見やすくするため、改行や送り仮名などは、一部変えている場合もあります。

 注:本説明板の設置年は明示されていないが、設置者名は、「松原宿活性化協議会」と書いてある。このことから上野の推測ながら、この会の発足当初の頃、つまり、2004年頃に設置されたと思われる。

 (写真12) 旧松屋旅館の史跡説明板(CG加工) 
  旧松屋旅館
 変配川から、南の宿はずれのよし川までの五十二間(約六百四十メートル)が、松原宿と呼ばれ、七十一軒の家がありました。宿場中央部にある八幡神社の門前には、酒屋を兼ねる茶屋(旧上野酒店の地)が建てられました。

 ここは、諸大名の通行する時の小休憩所にあてられました。その前にある旧松屋旅館も江戸時代、同じく休憩所として利用され、その後、明治、大正、昭和四十年まで長く旅館として使われました。当時のまま古き。よき時代の和風の建物の様式を残しています。
  松原宿活性化協議会 >


補足


 (この原稿は準備中。しばらく、お待ちください)



・関係ページ:「松原宿・寺子屋塾」 「松原宿のひな祭り」 「松原宿 旧松屋旅館のイルミネーション」 「松原朝市」 「2019年・松原おくんち

(初回掲載日:2022年6月28日、第2次掲載日:7月5日、第3次掲載日:7月7日、第4次掲載日:7月10日、第6次掲載日: 7月15日、第7次掲載日: 月 日、) 


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