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萱瀬・田下町、氷川神社のくんち、田下浮立
(2012年10月14日撮影) |
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福重・今富町、大神宮のくんち、今富浮立
(2005年10月16日撮影)
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くんち(くんち)
このくんち(宮日)あるいはおくんち言う呼称は、九州北部で多く使われているようです。その九州北部だけではなく、全国的には例えば「秋の例祭」、「秋の例大祭」の言葉も同じ意味と思われます。
国語辞典の大辞泉を引用すると、例祭について次の<>内が書いてあります。<例祭=神社神道において,大祭中もっとも重要な祭祀(さいし)。毎年,一定の日に行われる。>
さらに分かりやすく言えば、文部省唱歌・『村祭』の歌詞の一節=「村の鎮守の 神様の 今日はめでたい 御祭日(おまつりび)」にある「祭日」も同様で、この歌詞が先の国語辞典内容を良く表しているとも思えます。つまり、その地域や町村内の者で共同で祀っている鎮守(ちんじゅ、守り神様)=氏神(うじがみ)の祭り日といえるでしょう。
大村市内(8地区)にある神社や権現の総計は、数百社に及ぶと思われます。8地区別は大村市合併前の旧・村単位もありますが、町や集落単位でも神社や権現は多いです。中には、今富町の例ですが、大神宮、不動権現、高野権現、段の熊野権現と、一町内に4社も神社(権現)があります。
なお、ご参考までに市内に数多い神社で昊天宮(大村市宮小路2丁目)と、松原八幡神社(大村市松原本町)は、古代に創建された旧・大村領を代表するくらい古くて格式のある神社です。(市内発行の書籍類に先の松原八幡神社について「鎌倉時代創建」説を書かれたのもあるが、その従来説は間違いと思われる。この説について論じるのは本ページの主旨とは違うので別ページに書くことを計画中) 他の神社は、ほぼ全て中世時代か江戸時代の創建です。
開催日も行事内容も各神社で違う
また、一口に「くんち(宮日)」、「秋祭り」、「秋の例祭」、「祭り日」などと言っても、その開催日(期間)は、早い所では10月初旬、遅い所では11月中旬で約1か月の差があるほどです。開催日数も1日だけもあれば、数日間の開催もあります。このような差は、地域の氏神様を祭る日が、歴史的な経過があって、さらに旧暦と新暦の差、あるいは戦後相当経ってから休日(日・祝祭日)開催への変更などがあるからと思えます。
さらに、くんちの内容も神事自体は、どこも同じでも、その後の行事、例えば浦安の舞、子ども相撲大会、大人の相撲大会、郷土芸能、歌謡や踊り披露など、各地区・町内別で違いがあります。さらには、子どもの減少で子ども相撲が出来なくなり食事会に変えてる町内もありますし、懇親会や打ち上げ会と称しての宴会形式もあろうかと思います。
なお、上野の個人的感想ながら、先に紹介しています文部省唱歌・『村祭』の歌詞に最も近い雰囲気は、萱瀬地区・氷川神社のくんちと思われます。ここのくんちは、萱瀬地区(旧・萱瀬村)全体の秋祭りで、住民のほとんどが参加しておられるのではと思えるほどの参加数と多彩な行事内容が特徴といえます。次の項目から全部の紹介は当然できませんが、市内で開催されているくんちのいくつかの例を書いていきます。
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松原本町、松原八幡神社のくんち
(2013年11月16日撮影) |
大村史話に記述されているくんち例
この項目で紹介します大村史話・続編1(大村史談会)は、1986(昭和61)年3月25日の発行です。この中で322ページから335ページまで、「第16章 大村藩の民俗 その1 大村市歳時記」(河野忠博氏の執筆)があります。今回のくんちについては、332ページに、次の<>内の事柄が記述されていますので引用して紹介します。(原文は縦書きですが下記はホームページ上、横書きに直しました。なお、下記の太文字は原文通りです)
< (前略) 十月の中旬から十日間隔ぐらいに村々の氏神社の祭礼があり、その日を宮日(くんち)と呼び御馳走を作った。萱瀬宮日は十月十七日、最後の松原宮日が十一月十五日、近 い親戚は竹松・福重と次々に呼ばれて往来した。
特に松原宮日は最大の賑いで有名力士の奉納相撲、宿場中に小屋掛け(こやがけ)した様々の出店(でみせ)、どこの家でも酒食の饗応(きようおう)にありつける無礼講(ぶれいこう)、踊り出演など独特な神事風俗を持つ伝統行事だった。 (後略) >
上記について、萱瀬と松原の宮日(くんち)は、1986年当時の記述では定まった日に開催されていたようですから、その後も、しばらく間は同様だったのでしょう。さらに年数が経った頃から、当然現在も両方の神社とも休日(土・日・祝日)に合わせた日のようです。他の地区の開催日も、ほぼ同様と思われます。あと、神事や他の行事内容などについて、細部や項目については変化はあるものの、基本的なところは、ほぼ当時も現在も似た雰囲気でしょう。
松原八幡神社のくんち
上記項目にも書いていますが、松原八幡神社のくんちは元々、11月15日と決まった日でした。近年は、11月中旬頃の土・日曜日の2日間を開催日されているようです。記憶曖昧ながら、数十年前頃までは確か3日間ほどあったと記憶しています。また、この松原くんちは、農家にとっては「今年も稲も豊作(五穀豊穣)でした」、商工業者は「今年も商売繁盛でした」という感謝のお礼を松原八幡神社の神様へ伝える意味もありました。
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松原八幡神社のくんちの通りと出店
(2013年11月16日撮影)
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松原八幡神社のくんち、地元の刃物屋
(2013年11月16日撮影) |
松原くんちの内容についてですが、神事は昔からずっと変わらないものの、それ以外は例えば浦安の舞、女相撲甚句、子どもみこし、子ども土俵入り、子ども相撲大会、大人相撲大会、九州高校生選抜相撲大会など、その年によって開催されたり、されなかったりと様々あります。(先の内容は私が見た範囲内ですから、もっと多くあるはずです)
また、松原宿(旧・長崎街道沿い、神社から松原駅への市道沿い、松原出張所前の駐車場など)では、たくさんの出店(屋台)が連なります。一例をあげると、地元名産の松原包丁・松原鎌などの鍛冶屋、陶磁器店、木工細工店、焼き鳥・うどん・丼(どんぶり)・お好み焼き店などの食べもの屋、衣料品店、ゲーム店などです。
さらに、驚くのは各家々で、「(大村弁で)あんた、くんちに来らしたと、さあさあ(うちの座敷にも)上がって飲んで食べて行かっさんですか」と、親戚でもない方から声かけられ、ご馳走になることもありました。つまり、ここのくんちは八幡神社だけの祭りではなく、周辺の民家全体のお祝い事でもあったのです。
・農家の松原くんちと密着した例
地元の松原地区だけでなく近隣の福重・竹松地区でも、あるいはもっと広範に言えば大村市内の農家でも昔(自家用車や商品流通がマダマダ今のように発達していない頃)から現在も、松原八幡神社の開催日=11月15日(現在は11月中旬頃の土・日曜日)は、秋の一つの重要な節目です。
農家は10月初旬頃から稲の実り、稲刈り、掛け干し、脱穀、乾燥、籾摺り(もみすり)、供出(きょうしゅつ、政府に米を売る)の一連の流れが続き、まさしく農繁期です。また、昔は稲の品種の違いからか年によっては、刈り入れ作業が遅くなり11月末あるいは12月初旬まで田んぼで稲刈り、掛け干しなどが続く場合もありました。
このような時に、農家同士の話として「(大村弁で)うちは稲のしの(作業、締め)が松原くんちまで終わらんバイ。あんたとこは、どげんなあ?(自分のところは稲の刈り入れ作業が遅れていて11月15日の松原くんちの日までには終わりそうにない。あなたの所はどうですか?)」とか、「(大村弁で)今年は稲の早ようできて、松原くんちにゃ、ゆっくり行けますバイ(今年は稲の刈り入れ作業も早く終わって、松原くんちにはゆっくりと行ける)」などが飛び交います。(これは現在も同様です)
このような会話が何故交わされ、定着しているかについてです。それは、まず第一に昊天宮とともに松原八幡神社は、旧・大村領内の他の神社にない古くからの歴史と伝統による地域への浸透度合い、第二に八幡神社は農家にとって「今年の五穀豊穣の感謝と来年も同様に」と願う信仰心、第三に陶磁器・刃物・農機具・木工細工品・生活用品などのまとめ買い、第四に家族連れでの出し物見学や散策などレクレーション的要素など全て含まれている祭りから来ていると思われます。
つまり、農家にとって仕事上も生活上からも、松原くんちは密着した親しい祭りだともいえるでしょう。だからこそ大村市内外からの参詣客が昔から多かったのでしょう。ただし、何十年か前よりテレビや自家用車の発達、全ての用品が揃っている大型店舗の進出などによって、参詣客の数も、その家族の態様も大きく様変わりしました。しかし、松原八幡神社に対する毎年の五穀豊穣の祈願や感謝などの基本部分は、どこの農家も現在も変わっておられないと思います。
福重のくんち
大村市福重地区(旧・福重村)は、戦前戦後、現在も毎年秋に地区全体で、あるいは各町内でくんち(宮日)が開催されています。その中でも、今富町にある大神宮(だいじんぐう)と、草場町にある松尾神社(まつのおじんじゃ)で開催されるのが、福重のくんち(宮日)です。この二つの神社の開催年は、隔年ごとです。西暦で奇数年が大神宮で、偶数年が松尾神社です。
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福重のくんち(秋季例祭)、浦安の舞<1941(昭和16)年10月撮影>
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福重のくんち(秋季例祭)、相撲大会<1941(昭和16)年10月撮影> |
また、福重のくんちの呼称についてですが、ここ何十年間は、どちらかと言いますと、開催神社の名称から「大神宮のくんち」、「松尾神社のくんち」と言われるのが普通です。あと、戦前(上記2枚の白黒写真参照、194年1=昭和16年10月撮影、場所は大神宮)戦後、現在も「秋季例祭」とか「秋の例大祭」と、呼ばれている場合も当然あります。(上記2枚の白黒写真は、1941年(福重村写真集)『銃後の郷土』からで、その詳細説明は「大神宮秋季例祭 奉納 浦安の舞」、「大神宮の秋季例祭の相撲選手」ページを参照)
福重のくんち(宮日)は、現在は神事、懇親会(昼食)、その後、子ども相撲大会が主な流れです。しかし、上記写真でもお分かりの通り、戦前から、いつの時期まであったのか記録がないので不明ですが、浦安の舞とか大人(青年団)の相撲大会がありました。この中で、大人の相撲大会は、戦後になっても何十年間も続きました。そして、農業人口の減少などにより福重青年団が事実上活動できなくなる以前まで、続いていたようです。
開催日時についてですが、昔については記録不明なので毎年10月の定まった日だったのか、あるいは休日だったのか分かりません。しかし、ここ何十年間は、10月の第2か第3の日曜日(または祝日)開催がほとんどです。そして、上記の両神社とも、11時頃から神事、11時30分頃より懇親会(昼食)、13時前後から子ども相撲大会となっています。
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竈権現近くでの子ども相撲
(2011年10月9日撮影)
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本蔵権現の拝殿 |
本蔵権現横での子ども相撲
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・福重地区内、各町内のくんち例
最初からお断りを書きますが、上記項目の福重のくんち(宮日)は、私も子供の頃から現在まで何十回となく行ってますので、それなりに分かっています。しかし各町内ごとのくんちは、ほとんど行ってませんので今まで写真を撮った範囲内で書きます。
まずは、寿古町にある竈権現(かまどごんげん)の秋例祭です。通常は、この周辺の皆同町と寿古町の氏子(うじこ)でまつられています。秋の例祭は、右側上段の写真でもお分かりの通り、妙宣寺さんが執り行います。その後、竈権現(かまどごんげん)前にある郡川の土手で子ども相撲などがおこなわれます。
先の説明通り、竈権現(かまどごんげん)は二つの町内にまたがった氏子(うじこ)のつながりによるものです。江戸時代に編纂された(大村)郷村記にも、次の<>内のことが書いてあります。<(現代語訳で)例祭は(毎年の)9月19日で妙宣寺が執り行っている>
あと、開催日については、上記<>内でもお分かりの通り、江戸時代から戦後の相当年代まで、決まった日に秋例祭はおこなわれていたのでしょう。ただし、現在は、休日開催の福重のくんちと同じ日の早朝などにおこなわれているようです。
なお、「2011年 寿古町にある)竈権現(かまど ごんげん)の例祭(概要報告)」ページでも紹介中の通り現在も続いている長い歴史のある秋の例祭といえます。
次に、野田町にある本蔵権現のくんち例です。ここは、先のページで紹介中の「御神立ち(おかみたち、大村弁:おかんたち)」、今回の「くんち」、次に紹介予定の「 御神待ち(おかみまち、大村弁:おかんまち)」の三行事は、町内各班、日時に違いはありますが同様の名称で開催されています。
しかし、その内容の取り仕切りは各班の締元(しめもと)がおこなうので、全て同じ様式でおこなわれているとは限りません。極端に言えば、例えば本蔵権現周辺の木の伐採含めた大掃除だけでも、御神立ち前にする班もあれば、中にはくんちの日の早朝からする班もあるなど様々です。
しかし、各班(締元)によって若干やり方の違いはあっても、班内各戸がくんちの日に集い、本蔵権現の神棚へ、お神酒、榊(さかき)、「ごくさん、ごっくさん」などをあげて拝礼するのは、どの班も同じようです。そして、それが終われば、参加者全員、野田公民館に集まり、お神酒、ビール、茶菓子などを頂きながら、(10月末頃に開催される)御神待ちの打ち合わせなどをして終了されているようです。
まとめ
先の項目でも述べました通り、私は福重地区(全体)で開催されている福重のくんち(宮日)は、過去数十回と見学し、中には写真も撮ってきました。しかし、同地区10町内のくんちの方は、一部の町を除き見学に行ってません。その原因は、開催日が多くの場合、重なっていることもあるからです。
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福重・今富町、大神宮のくんち、子ども相撲大会
(2013年10月14日撮影)
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さらに、そのような状況ですから、松原八幡神社のくんちと、(萱瀬・田下町)氷川神社のくんちを除き、大村市内全部のくんち状況まで、率直に言いまして調査できていません。しかし、「大村史話に記述されているくんち例」項目で紹介しました河野忠博氏の書かれた大村歳時記のくんち例でも、先生の地元・萱瀬を除き記述されているのは、松原、竹松と福重の宮日(くんち)のことばかりです。
河野先生は、戦前から毎年秋になれば萱瀬、松原、竹松、福重でおこなわれていた宮日(くんち)をずっと見ておられたからこそ、市内の歳時記の一つとしてまとめられたのではないかと推測しています。つまり、それだけ、先の各地区では賑やかに昔からくんち(宮日)が開催されていた証(あかし)でしょう。
この大村歳時記シリーズ(目次ページ)で取り上げている事柄は、昔から今現在も続いているものばかりです。しかし、核家族化、地域の結びつき・産業基盤・車・情報関係などの大きな変化、つまり時代の進展によって既に見られなくなった、あるいは極一部の地域しか継続されていない歳時記も多いと思います。
今回のくんち(宮日)は、上記のようなことに各地ではなっていませんが、少しづつ変化も見られます。今後も調べながら、このページに追加や改訂もしていきたいと思っています。また、何か情報がありましたら、教えて頂けないでしょうか。
初回掲載日:2014年10月14日、第二次掲載日:10月15日、第三次掲載日:10月17日、第四次掲載日:10月18日、第五次掲載日:10月21日、第六次掲載日:10月24日、第七次掲載日:10月28日