(大村市立)郡中学校・2先生の空襲・戦争遺跡巡り(概要報告)
日時:2021年8月24日 13時00分~14時30分
参加数:2名、案内役:上野
場所:大村市福重地区と竹松地区にある空襲や戦争遺跡など。<一部、戦国時代の史跡や2020年の水害状況なども含む>(史跡名は下記「見学した所」を参照。なお、下記内容は口頭説明を中心に書いたが、一部今回の報告用に補足含めて記述した)
趣旨:郡中学校1年生は、今年10月のフィールドワーク「地域学習」が予定されています。今年は、郡中学校周辺で先の大戦時空襲に遭った所や戦争遺跡などの見学が検討されています。その見学で、どの場所や、どのコースが良いのか下見(下準備)として、今回の遺跡巡りとなりました。
なお、今回見学したのは、下記太文字の戦争遺跡名が中心です。また、先の空襲や戦争遺跡とは関係ないのですが、その周囲の戦国時代の史跡や2020年水害地なども含めて案内しました。ただし、あくまでも下見ですから10月のフィールドワークで、この通りになるとは限りません。時間・距離などの関係から、かなりの検討がなされるのではないでしょうか。
見学した所:下記の太文字が戦争遺跡、<>内文字は戦争や空襲と関係のない史跡名。(車上からの案内も含む)
1)福重地区
・沖田町---第三五二空(通称「草薙部隊(くさなぎ ぶたい)」(戦闘機の迎撃部隊)=現・郡中学校の敷地から宮小路周辺までの敷地(写真1を参照)
・皆同町---<今富城跡>、皆同砲台(海軍指揮所と思われる地面上部で空襲対策のコンクリート屋根・空気採り入れ口など) 、 (皆同町側の)福重飛行場跡(使われていた当時は長さ950m、幅30mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない.。「(皆同町側の)史跡説明板」あり )、 <皆同の侍の墓>
・今富町---(今富町側の)福重飛行場跡(使われていた頃は幅30m、長さ950mの薄いセメント舗装の滑走路があった。現在は長さ約800m、幅2.5mの直線の農道しか残っていない。滑走路全体の長さで今富町側の方が約80%であった。「(今富町側の)史跡説明板」がある。 佐奈河内川の川床には現在も誘導路端の橋脚を支えた丸い穴がいくつもあいた頑丈な幅約1m×長さ30m弱のコンクリート製の基礎=土台部が残っている)
、
<佐奈河内川の今富橋周辺は2020年の水害で大被害が遭った> 、<尾崎城跡(おさきじょうあと) 尾根部の先端所で一説では豪族の今富氏の居城で本丸から三の丸まであった城ともいわれている> <十二社権現跡と帯取殉教地の本当の場所(史跡説明板あり)> <間違い場所にある帯取殉教地と記念碑>
<大神宮>、<亀石>、<石割樫>、招魂碑(氏名が彫られた石碑には軍人だけでなく空襲で犠牲になられた民間人の名前もある) 、<黄金山古墳> 、<今富キリシタン墓碑> <中田橋周辺の市道(通学路でもある):2020年水害時にアスファルト舗装がめくれるほどの被害が出た。この周辺の水田も被害が大きい
今富橋(今富公民館)周辺の尾根や、字(あざ)「丸山」や市道脇6つの隧道(ずいどう)などには21航空廠廠の疎開(そかい)工場兼倉庫があった。防空壕にしては少し大きかった。
福重地区の空襲と戦争遺跡の概要
福重地区は福重飛行場を始め皆同砲台、福重砲台(通称:「今富砲台)、野田の機銃台始め、尾根伝いの土地形状が多い地域だったため各所に隧道(ずいどう)=防空壕が沢山造られるなど軍事施設が多かった。また、その防空壕は、21航空廠(航空機製造工場)の疎開工場(そかいこうじょう)もしくは倉庫としても使われていた。
そのような軍事施設が多かったためアメリカ軍の空襲も激しく11名以上の犠牲者があった。その中には当時の福重国民学校(小学校)の9歳の児童がアメリカ軍・戦闘機の機銃によって射殺されたなど痛ましい死亡もあった。また、福重地区内10町の内で7町が空襲に遭い民家41戸が全焼したことも分かっている。
2)竹松地区
・原口町---(下原口公園内にある)掩体壕(えんたいごう)=飛行機を空襲から守る分厚いコンクリート製の格納庫。(現在は底部が約1m地面に埋まっているため、戦前当時はもっと格納部分が高かった。戦後しばらくして遊具にもなり階段・手すり・滑り台・天井の見晴らし台などが新たに造られた)
・富の原1、2丁目、今津町----大村海軍航空隊(かつて長さ1600m、幅1400mの草地の飛行場があった。この飛行場から延びる誘導路や飛行機を隠す駐機場や掩体壕などもあった。そのため住宅地まで空襲が何回となくあった) 大村海軍航空隊の隊舎(本部庁舎)は現在の陸上自衛隊・竹松駐屯地の庁舎付近と思われる。大村湾側近くまで軍航空隊の敷地はあった。
竹松地区の空襲と戦争遺跡の概要
竹松地区は、大村海軍航空隊始め、草地の飛行場周辺にも飛行機の誘導路・駐機場・掩体壕などがあった。そのためアメリカ軍機は日本の戦闘機や爆撃機へ空襲しただけでなく、その周辺の住宅地まで激しい空襲があった。結果、犠牲者11名以上、燃えた家屋も171戸以上あったことが分かっている。アメリカ軍は、飛行場それだけでなく飛行場周辺の諸施設(誘導路・駐機場・掩体壕)も良く知っていて爆撃・空襲を繰り返したものと思われる。
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今回、空襲・戦争遺跡巡りに参加された両先生、お疲れ様でした。