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2021年、(大村市立)郡中学校・1年生、戦争遺跡巡り(概要紹介)
(写真A) 郡中学校1年生戦争遺跡巡りの出発式(生徒主催の進行で進められた)
 (写真B) 戦争遺跡巡り中(福重地区住民センター横を通り、皆同砲台へ向う途中)
(写真C) 郡中1年生、皆同砲台跡を見学中 写真D) 郡中1年生、皆同砲台にて記念写真

(大村市立)郡中学校1年生、戦争遺跡巡り(概要報告)
(写真1) 現在の郡中学校の敷地=
第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡
(写真2)  皆同砲台の極一部 (皆同町)  
(写真3) 福重飛行場跡(右側)、今富町 
(写真4) 招魂碑(左側)、今富町
(写真5) 福重砲台跡(地下室への入口)、今富町 
(写真6) 福重飛行場跡近くにある誘導路橋の土台(今富町)
(写真7) 福重飛行場(当時:長さ950m、幅30m)

日時と参加数:
日時:2021年10月14日(10時10分〜11時50分
参加数:合計約220名(生徒215名、先生)
皆同砲台説明担当:上野
場所:郡中学校・運動場()出発式、その後は下記<戦争遺跡見学場所>名を参照

 注1:今回、1年生は各グループに別れ、さらに「時計回り」(学校ー皆同町ー今富町ー竹松本町ー学校)で歩くグループと、「逆時計回り」(学校ー竹松本町ー今富町ー皆同町ー学校)の分かれて、下記の戦争遺跡を主に見学した。

 注2:このページの掲載写真は順不同で、写真整理番号には何の意味もない。また、全クラスの写真の掲載はできていない。

 注3:上野は皆同砲台跡の説明担当だったので、他の遺跡での写真は撮影できていないので、ご了承願いたい。

戦争遺跡見学場所
 この概要報告ページでは、先のコース順で、「時計回り」(学校ー皆同町ー今富町ー竹松本町ー学校)で歩いた形で紹介している。ただし、「逆時計回り」(学校ー竹松本町ー今富町ー皆同町ー学校)でも戦争遺跡を見た順番が違うだけで、見学そのものは同じだった。史跡の詳細を知りたい方は、各史跡リンク先から確認して頂きたい。

 1) 現在の郡中学校の敷地=第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡。<(写真1)を参照 注:当時、この「三五二空」は郡中学校から宮小路まであって全体の敷地は目測で南北約950m、東西約350mあった>

 2) 皆同町、福重地区住民センターの裏山=皆同砲台跡は小高い丘の北側部分で南北(横幅)約160m、東西(縦)約70mにあった。<(写真2)を参照 注:当時の地上部分が一部そのまま現存している。この地上部の地下に倉庫・弾薬庫・指揮所などがあった>

 3) 現在の今富町や皆同町にある細長い農道、耕作地や住宅地=福重飛行場跡<(写真3、写真7)を参照 (注:当時の滑走路の大きさは長さ950m、幅30mの薄いコンクリートだった。現在はその内、長さ約890m、幅約2.5mの一直線の農道がある)

 4) 今富町、大神宮の境内にある招魂碑(戦死した軍人、空襲で亡くなった民間人の慰霊碑である) その手前側が顕彰碑で、これに福重小学校の児童の名前もある。<(写真4)を参照> (なお、この大神宮の境内には戦争遺跡とは関係ないが「石割樫(いしわりがし)」や「亀石(かめいし)」もある)

 5)今富町の帯取の丘、福重砲台跡(当時、直径約200mの範囲内に高射砲の陣地があったという)。<(写真5)を参照> (この周辺でアメリカ軍の激しい空襲で軍人多数と福重小学校の児童も亡くなっている)

 6)今富町、佐奈河内川の川床に残る誘導路橋の基礎(丸太の柱穴の残るコンクリートで今でも頑丈に残っている。大きさは長さ約30m、幅約1m) <(写真6)を参照 注:今まで草や川よしに隠れて1本しか見えなかったが、昨年の水害で現在は2個も見えているので今の内に見て欲しい>

 以上の順番が、「時計回り」主な戦争遺跡の見学場所である。このコース順で見学が終了したならば、後の道は郡川(こおりがわ)に架かる矢次橋を渡ると竹松本町に入る。そして、この町内にできた新しい道路の歩道を歩くと、沖田町(上河原)に入り、次に国道34号線の歩道に出ると、郡中学校の正面入口となる。

 なお、もう一つの「逆時計回り」コースは、上記の番号順の逆から歩いていく順路である。そのため、戦争遺跡の名称やリンク先は、先の番号と重複するので省略する。

皆同砲台跡での主な質疑応答について
 上野が説明を担当した皆同砲台跡で、1年生と数十回、質疑応答したので、その特徴的なことのみを下記「」で書いている。
Q1:ここは城跡だったのか?
A1今富城跡だ。今日はテーマが違うので、詳しくは福重ホームページ富城跡を検索して見て欲しい。

Q2:(遺跡として)残っているのは、ここだけか?
A2:配布資料にも書いたが横幅(南北)約160m、縦(東西)70mの敷地だった。この広さに、見学中のここだけでなく、他の場所にも地下に弾薬庫・倉庫・指揮所(会議室)が、あと何か所か残っている。また、地上には炊事場や兵隊のいた建物もあったが、今は建物などは何も残っていない。

Q3:ここの地下は、どうなっているのか?
A3:この小高い所の地下には、今でも天井・壁・床ともに頑丈なコンクリートでできた当時のまま残っている。他の場所にある地下室も同様の造りで何か所か残っている。

Q4:なぜ、この場所に砲台が造られたのか?
A4:良い質問だ。主に二つの理由があろう。その1=近くに福重飛行場があったから、その飛行場や飛行機を守るためだ。 その2=今富町にあった福重砲台も同様だが、どこの砲台とも小高い所、見晴らしの良い所に設置された。

Q5:この砲台からアメリカ軍機を撃ち落とせたのか?
A5:地元の言い伝えでは「いくら砲台から撃ってもアメリカ軍機が高過ぎて、またスピードが速過ぎて1機も撃ち落とすことはできなかった」と聞いている。戦争当時、1機でも撃墜できれば、それだけでも大きな話題になったろうが、そのような話しはないようだ。

Q6:史跡巡りイベントは、やっておられるのか?
A6:定期的なイベントはしていないが、依頼があれば今回のように案内・説明をしている。

 今回の戦争遺跡巡りに参加された先生や生徒さん、熱心な見学と長距離のウォーキング、大変お疲れ様でした。
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 下記の「関係ページは上記のような戦争遺跡(=「 」内)とプラスして周辺にある名所旧跡=<>内の名称もリンク先として掲載しているので、参照願いたい。

*関係ページ
 ・沖田町---郡中学校の敷地の所にあった第三五二海軍航空隊(「三五二空」、「草薙部隊」)跡

 ・皆同町---「皆同砲台」 「福重飛行場」の一部 、 <今富城跡> <皆同の侍の墓

 ・今富町---「福重飛行場」 佐奈河内川の川床福重飛行場跡近くにある誘導路橋の土台」 帯取の丘にある福重砲台」 、
 <大神宮> <招魂碑> <石割樫(いしわりがし)> <亀石(かめいし)> <尾崎城跡(おさきじょうあと)> <十二社権現跡と帯取殉教地の本当の場所(史跡説明板あり)> <間違い場所にある帯取殉教地と記念碑

 なお、このコース周辺は、2021年7月6日に発生した「大村水害」の被害場所でもある。特に、佐奈河内川の今富橋周辺の田畑は、水害のままの状態でもある。

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*総合学習関係・概要報告ページ
 2021年度、郡中学校の総合学習関係・概要報告ページのリンク先は、下記の通りである。ただし、あくまでも上野が案内や講話したことのみである。そのため、総合学習関係の全部ではないので、ご参考程度にご覧頂きたい。

(1)2021年8月24日、2先生の空襲・戦争遺跡巡り

(2)2021年10月6日、1年生、総合的学習・ガイダンス

(3)2021年10月7日、「郡地区の空襲と戦争遺跡」講話

(4)2021年10月7日、8日、先生の「戦争遺跡」下見

(5)2021年10月14日、郡中学校1年生、戦争遺跡巡り 注:このページである)



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