写真・報告 その552 |
2022年 大村高校、鎮西学院大学「長崎街道インフラさるくin大村、松原宿<6月15日の活動> (概要報告) |
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(写真1) 前列は大村高校生、2列目や奥の列は大村高校生と鎮西学院大学生<旧松屋旅館にて> (この下側は旧・長崎街道が通る) |
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(写真2) 歩いた後の記念写真:大村高校生と鎮西学院大学生<旧・長崎街道の脇にて。奥は鹿の島と大村湾> |
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2022年、大村高校、鎮西学院大学「長崎街道インフラさるくin大村・松原宿<6月15日の活動> (概要報告)
注2:掲載写真は、順不同。写真整理番号には、何の意味もない。 はじめに-----旧長崎街道、松原宿、旧・松屋旅館について(上野の簡単紹介) 長崎街道は、デジタル大辞泉によれば次の「」内の青文字通りである。「江戸時代に整備された街道のひとつ。豊前国(ぶぜんのくに)小倉(現在の北九州市)と肥前国(ひぜんのくに)長崎(同長崎市)の約228kmを、25の宿場で結ぶ。海外から輸入された砂糖が運ばれたことから、シュガーロードとも呼ばれる。」 もっと、上記「」内を分かりやすく表現すれば長崎街道は、現在の国道みたいなものだった。その内、松原宿や松原地区内を通る範囲は、主には現在の松原小学校周辺から、隣の東彼杵町との境界まである。その中心地みたいな所が、松原宿である。この松原宿周辺には、昔の旅人が一休みした茶屋、道中の安全祈願した松原の八幡神社、喉を潤した泉=「池の川」、さらに,お土産にもなった包丁などをつくっていた鍛冶屋が街道沿いにズラリと並んでいた。 現在、この旧・長崎街道沿いには、史跡説明板や案内板も設置されていて、例えば「松原庄屋跡」 「長岡左近純生の墓」 「松原八幡神社」 「相撲取り墓」 「鹿の島弁財天」などもあり、見学する時の良い資料ともいえる。(詳細は、先の「」内名称をクリックして閲覧願いたい) また、長崎街道は、別名「シュガーロード(砂糖の道)」ともいわれ、古くから例えば「松原おこし」や「大村寿司」に使われてきた。その意味で、この松原を通る旧・長崎街道沿いは、そのシュガーロードの一例を見学できるだけでなく、食味も実体験できる場所でもある。 旧松屋旅館(写真5の史跡説明板より引用=下記の青文字) 変配川から、南の宿はずれのよし川までの五十二間(約六百四十メートル)が、松原宿と呼ばれ、七十一軒の家がありました。宿場中央部にある八幡神社の門前には、酒屋を兼ねる茶屋(旧上野酒店の地)が建てられました。 ここは、諸大名の通行する時の小休憩所にあてられました。その前にある旧松屋旅館も江戸時代、同じく休憩所として利用され、その後、明治、大正、昭和四十年まで長く旅館として使われました。当時のまま古き。よき時代の和風の建物の様式を残しています。 松原宿活性化協議会 ----------・・・----------・・・----------・・・ 主な活動項目 まず、下記項目は、上野が見学した範囲内で、時間に沿って活動項目のみを書いている。ただし、私は、旧松屋旅館からの活動状況しか見学していないので、その前後の状況は、分かっていないので、その点は、ご了承願う。 ・(バスから降車)上記の大学生と高校生が順に旧松屋旅館に到着 <旧松屋旅館にての講話や見学、旧・長崎街道を歩く> *あいさつ(旧松屋旅館と旧長崎街道を挟んで開催された) 下記の1)~3)の項目は、参加人数を3グループに分け、1階で1)の項目、2階で2)と3)の項目が実施された。 1) 松原地区活性化協議会と、松原の歴史、松原の真珠などの講話(スライド映写にて) 2)古道具などの展示と説明 3) 松原の鍛冶屋(包丁、各刃物、農機具などの鉄製品)の歴史や実物展示と講話 下記は旧松屋旅館から鹿島手前の海岸線まで歩いた 4)旧長崎街道を歩く ・鹿島前の駐車場でバスに乗車 ----------・・・----------・・・----------・・・ 主な内容 *あいさつ----(省略) 1) 松原地区活性化協議会と、松原の歴史、松原の真珠などの講話 <村川会長の講話の概要は下記点線内を参照。なお、構成上。一部順番や内容を趣旨を変えない範囲内で省略、再構成している> --------------------------------- 松原宿は、旧・長崎街道の約600m部分をいう。この通り沿いは、国道34号線が現在の所に移設されるまでは、大村市内で2番目に賑わった町であった。その頃は、この道をバスも通っていた。 江戸時代頃には、この(スライド)写真にある通り、当時の人は見たこともないような像やラクダなども通り、ワクワク感さえあったと思う。道路は、人も物も商売も変えていくので、国道34号が変わって以降、商店数も人口も(スライドの)図や表の通り減ってきた。商店については、今では極わずかになってしまっている。 (参考までにスライドの表より、1960年当時の松原地区全体の人口は約3,400人、松原小学校の児童数は575人もいた。しかし、2014年になると地区人口は2,163人、児童数は118名となった) ・松原の真珠 かつて松原は、真珠の名産地だった、田崎さんなどが始められた。最盛期は、たくさんの人も働いておられた。しかし、現在は、松田真珠さんだけになった。(下記「」内の青文字はは松田真珠の看板より引用) 「松田真珠(有) 会社概要 真珠養殖、50年 大村と佐世保でアコヤ貝を使用して日本の真珠を支えています。真珠製品の販売もしています。糸の取り合え、簡単な修理なども、相談に応じます」 ・松原宿活性化を目指して そこで、再度の活性化を目指して立ち上げたのが、松原宿活性化協議会である。この会の主な目的は、次のとおりである。古里復興(歴史ある「松原くんち」の参加など)、 街並み保存(・旧松屋旅館の存続維持、・歴史案内版の設置、・古民家の活用、・小道具や古写真の展示)、 地域の活性化(・ひな祭り、・地域関連団体との交流事業、・各種イベント、・市内小中学校の見学受け入れ、・寺子屋塾) ・人気の寺子屋塾 このような目的の沿って活動してきたところ、(スライドの)一覧表通りの実績となった。この中でも一番人気は、寺子屋塾である。(参考ページ:「2019年、長崎街道・松原宿<寺子屋塾>開校式(概要報告)」) 夏休み期間中、松原小学校の児童約70%(約70人)が、ここに来て長崎大学教育学部のゼミ、多彩な講師を招いて勉強している。それも、「楽しく」「時には厳しく」「刺激ある」内容となっている。 児童も寺子屋塾に喜んで参加しているが、その中でも松原地区の方々が作って下さるカレーライスが、大変美味しくくて、子ども達が大人気で食べている。 ・評価の高い地域活性化事業 このようなの松原宿活性化協議会の活動を評価して下さって例えば、次のような表彰状を頂いた ・2020年度文化庁認定の日本遺産『砂糖文化を広めた長崎街道~シュガーロード~』において構成文化財に認定。 ・長崎新聞新聞社など地方新聞46社と共同通信社が地域活性化に取り組む団体を全国に紹介する「第7回地域再生大賞」(2017年2月17日)を授賞。(このことは「まちづくりチャレンジ550」の本に収録されてもいる) 2)古道具などの展示と説明 旧・松屋旅館の2階に上がった直ぐの座敷には、古道具類が展示してある。例えば、江戸時代に人が乗っていた籠(かご)、銅鏡(どうきょう)、一升桝(いっしょうます)、十升桝(じゅうしょうます)、一斗枡(いっとます)、炭火アイロン、羽釜(はがま)、(縄で編んだ)おひつ入れ、(酒を入れる)とっくり・甕(かめ)、昔の計量器などを始め、まだまだ紹介できない位、沢山の物が展示してある。
また、部屋壁には、ここの旅館時代に使われていた宿帳(やどちょう)なども掲示してあった。ここで(写真8参照)、青い法被(はっぴ)を着て説明された方の話によると、「この宿帳は、ふすまの下張りに使われていた。それで、その下張りをはがしていたところ見つかった」という。つまり、当時は紙も貴重で、再活用(リサイクル)されていたとのことだった。 この旧・松屋旅館の1階・2階あるいは外の中庭含めて展示してある小道具、昔の農具や井戸(いど)などの古い設備は、現在の学生さんにとっては、見るも触るも初めての人も多いと思われた。(写真10参照) しかし、上野のような老人にとって、子どもの頃には自ら使ったり、あるいは私の父母世代以前ならば日常不断に使っていたのを見たことがあるものばかりだった。このような古道具類について、松原の2名の方が、手に持って、どのように使っていたかなどの説明を熱心にしておられた。 ここから、上野の方からも補足すると、単に古い、懐かしい道具というだけでなく、その全てがアナログ製品であって、例えば災害時など電気がなくても使えるものばかりである。また修理やリサイクルも可能でもあり、昔の人の知恵や器用さも詰まっている感じがした。 ただし、当然、全部がぜんぶ、現在の日常生活や仕事に使えるものではないが、今見ても、なかなか優れた道具類であることも、私は再認識した。 3) 松原の鍛冶屋(包丁、各刃物、農機具などの鉄製品)の歴史や実物展示と講話 (注:この項目は上野の記憶のみで書いているので間違いもあろうかと思うので、当日参加された学生さんなどのからの指摘があれば改訂したいことを前提に書いていく。そのため参考程度に閲覧願いたい) (写真10参照) まず、この講話があった部屋は、2階の奥(北側)にあって、そこの壁には「おもいで松原」との標題で、松原地区の昔の風景写真が、たくさん掲示してあった。その中には、例えば、船の完成した祝いの写真、松原宿の通りや地区内の風景写真などである。 また、講師と学生の間にあった飯台上の箱の中には、現在も鍛冶屋で造られている松原包丁・刃物、農機具などが、ズラリと並んでいた。そして、講師の方から、「松原の鍛冶屋」のテーマで、概要、次のような内容の講話があった。 ここの鍛冶屋の歴史は、古く源平合戦の頃か鎌倉時代に入った頃に、既に始まっていたといわれている。 そして、戦国時代や江戸時代を経る中で、急速に鍛冶屋は増えた。旧・長崎街道沿いには、多くの鍛冶屋が並んで、金槌の音が鳴り響いていた。 主に、造られていたのは包丁などの刃物類、鎌(かま)・鍬(くわ)などの農機具類が多かった。 しかし、時代や機械化などの進展によって、この松原の鍛冶屋も、わずかに残っているだけである。 講話の後、箱に入っていた各種の包丁や農機具類を学生さんたちは、各自で手にして見ていた。(写真11参照) 4)旧長崎街道を歩く 上記の1)〜3)の聴講や展示物の見学も終わり、2階の縁側で両校生の記念写真撮影をした。(写真1を参照)
・長崎街道の面影が残る通り かつて、この街道沿いには、鍛冶屋や商店が並んで賑わっていた。しかし、現在は、わずかな商店と、その面影が残るだけである。村川会長が述べられた内容、つまり、道路の主役が国道34号線に変わったことが、まざまざと実感できる通りでもある。 ただ、逆の見方をすれば、旧長崎街道が市街地内を通る所として、これほど雰囲気良く面影が残っている所も県内では少なく、そのまま観光資源になっている。長崎街道ウォーキングされる方の興味引かれる場所の一つともいえる。 ・相撲取りの墓 さらに数100m歩くと道路脇に大きな自然石でできた3基の墓碑が見えてきた。(写真13参照)これは、江戸時代に活躍した相撲取り墓である。(詳細は史跡説明板の「相撲取り墓」ページをを参照) ・変配橋(へんぱいばし)と変配川 相撲取り墓から数10m進むと、変配橋(へんぱいばし)と変配川が見えてきた。(写真14参照) ここで上野から数名の先生や学生さんへ、次の「」内の説明をした。「変配川という珍しい名前は、この川の中・上流域にある数本の川が、まるで配合(配置)されたように合流して流れ下っているからではないかと思う。 2020年7月6日の大村水害時、ここから数100m上流の庭先まで濁流がきて、周辺の水田は低地は、ほぼ全て冠水した。さらに上流域の水田の石垣や崖も崩れた被害があった」 (冠水・濁流の写真含めて詳細は、「2020年7月6日の大村水害時の松原地区」を参照) ・鹿島(しかのしま) 変配橋から数100m歩くと、今度は西側(左側)に夏季には賑わう松原海水浴場などのある海岸が間近になってきた。(写真15参照) しばらく、左耳に波音も聞きながら進むと、鹿島が近くに見えてきた。(鹿の島の詳細は、大村の島シリーズの「鹿島」か、史跡説明版シリーズの「鹿の島弁財天」を参照) この鹿島を背景に、一同、記念写真を撮った。(写真2を参照) その後、鎮西学院大学生は、バスに乗車された。大村高校生は、別のバスに乗るため、また、来た道を20分ほど戻って行った。 ----------・・・----------・・・--------- <上野の感想と補足> (この原稿は、準備中。しばらく、お待ちください) |
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・関係ページ:「2021年6月16日、大村高校、鎮西学院大学、長崎街道インフラさるくin大村<松原宿>(概要報告) 」 「長崎街道 松原宿ひな祭り」 「2019年、長崎街道・松原宿<寺子屋塾>開校式(概要報告)」 「松原庄屋跡」 「長岡左近純生の墓」 「松原八幡神社」 「相撲取り墓」 「鹿島」 「鹿の島弁財天」 |
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・2019年の関係ページ:「2019年5月8日、長崎街道さるくin大村・第1回講義(概要報告)」 、「2019年 大村高校、「長崎街道インフラさるくin大村<7月10日の講義> (概要報告)」 「2019年7月10日、郡川の飛び石と福重橋の歴史(概要報告)」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
「福重橋(郡川の飛び石」 、 「郡川」 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||
初回掲載日:2022年6月16日、第二次掲載日:6月19日、第三次掲載日:6月23日、第四次掲載日:6月27日、第五次掲載日: 月 日 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||