大村の歴史 |
彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり |
はじめに | |
・関係年表(一部) | |
1)竹松遺跡発表内容の概要について | |
・(注)=用語解説 | |
2)彼杵郡家(彼杵郡衙)の推定位置の概要経過と、所在地は“寿古町説”が有力である | |
3)大昔からの水害多発地帯に役所を構えるのか | |
・大昔からあることわざ「沢筋(川筋)に家を建てるな」の意味からして | |
4)竹松は米の生産量の関係からも小規模の倉庫しか置けなかった | |
5)竹松遺跡出土品は彼杵郡家(郡衙)の中心地=“寿古町説”を裏付けるもの | |
・彼杵郡家(彼杵郡衙)は寿古町が本庁、周辺の沖田町や竹松町周辺に関連施設があったのではないか (寿古町説の概要図) | |
・線刻紡錘車と漢字2文字について | |
(1)線刻紡錘車の使用用途は、役所用ではなく、民間用ではないのか? | |
(2)滑石の産地から目的港を書いたのではないのか? | |
6)なぜ竹松遺跡周辺には平安〜室町時代の経筒も石仏もないし寺院や城跡数も少ないのか | |
・竹松遺跡周辺に経筒、単体仏、線刻石仏、寺院や城跡数も少ないのは何故か | |
7)まとめ | |
・<彼杵郡家(郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり>の根拠 | |
資料 | |
(1)竹松遺跡発掘資料編 | |
(2)寿古遺跡発掘資料編 | |
あとがき | 準備中 |
はじめに
後の各項目に詳細に書いていきますが、結論から先に書けば長崎県教育委員会作成の遺跡展ポスター、チラシ、概要紹介文章の見出し(=「郡の都 〜古代・中世の竹松〜)、さらにテレビや新聞報道にあったような<彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」>に対して、疑問ありと言わざるを得ません。むしろ、彼杵郡家(彼杵郡衙)の推測地は”寿古町説”が有力だと言えます。 |
関係年表(一部) 古代・肥前国の彼杵郡家(彼杵郡衙)を知るには、この当時の日本や九州の主な出来事なども知る必要があるかと思われます。それで、この項目では、古代の概要を把握するために概略年表を作成しました。まず、下表の「時代区分」は、あくまでも大まかな区分です。時代ごとに、その年代の分け方で色々な学説があり、さらに文化面でも学者さんや専門家で意見が分かれています。 あと、「主な出来事」の欄は、今回のテーマと関係あると思われる事柄を列記しただけで、本来ならもっと多数の項目があります。下線(アンダーライン)のある文字行は、肥前国及び大村と直接関係あると思われる出来事です。以上のようなことから、下表は、あくまでもご参考程度にご覧願えないでしょうか。この表の作成にあたり、主に国語辞典の大辞泉を引用、参照しました。下記「」内が大辞泉からの引用です。また、主な出来事などは、これからも追加掲載していく予定です。
|
2)彼杵郡家(彼杵郡衙)の推定位置の概要経過と、所在地は“寿古町説”が有力である 寿古遺跡から大量出土の輸入陶磁器の意味は また、この報告書には、輸入陶磁器の大量出土などについて<(前略) 須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。 好武城及び寿古遺跡の状況はきわめて特殊であり、当該期における遺跡の性格は、自ずと当地域 における特殊な場として考える必要がある。 (後略)>と書いてあります。 輸入品の積み下ろしは郡川河口周辺か |
3)大昔からの水害多発地帯に役所を構えるのか この項目は、地形から彼杵郡家(彼杵郡衙)の役所跡を考えていきます。<右図=郡川の河道跡を参照、この資料は『大村史談48号』102ページから引用し、分かりやすくするために上野の方で彩色した> この図の中央部に「竹松」の文字がありますが、竹松遺跡は、この文字より約1.5cm〜3cm上側です。竹松遺跡右側の水色の大きな川が郡川の本流、その右側上に佐奈河内川(さながわちがわ)と、下側に佐奈河内川の支流である野田川が見えます。 つまり、竹松遺跡周辺は、郡川の本流と佐奈河内川との合流地点の先になります。このことは、洪水時に大村市内最大の川である郡川と、福重地区内では大きなの川である佐奈河内川の合流した水が、一番集中している所ともいえます。 竹松遺跡の中には、大昔の河道跡(図の破線部分)もあります。また、この図から読み取れるのは、扇状地で平地の多い竹松地区の地形を作る上で、郡川や佐奈河内川の流路が行ったり来たりしているのが、良く分かります。 それに私は2013年1月30日、竹松遺跡現地説明会時に「ここは川の跡です」との説明も受けました。また、遺跡近くには階段状の田んぼの石垣もあります。平地ばかりの所に、何故あの丸形状の田んぼの石垣があるのでしょうか。 それは、一段低くなっている所が、河道跡ということです。あの石垣は、郡川が水害や氾濫によって回数多く上流から石を運んできたことを示しています。(この件は次でも書く予定) 郡川の氾濫や水害によって運ばれてきた丸形状の石垣 先にも一部書きましたが、郡川左岸の竹松地区には民家を囲む丸い形状の石垣が沢山あります。小路口町、鬼橋町、(竹松遺跡のある)竹松町などの旧家の周囲には、大抵この石垣が沢山あります。(左下の石垣写真参照、丸形状の石垣に注目) あの丸形状の石は、まさしく長年かけて郡川が、竹松付近での氾濫・水害時に上流から運んできた証拠の品でもあります。つまり、あの丸形状の石垣がある地域は、何万何千年前から水害多発地帯だったということでもあります。(現在は堤防などが整備されていますが、近代以前は、それこそ自然任せ、川の氾濫しだいの状況だったと言えます) 郡川の右岸側(福重など)にも丸い石や石垣はない訳ではありませんが、圧倒的な多さで竹松地区にはあります。 また、この郡川の氾濫や水害は、はるか遠い過去のことばかりではありません。1957(昭和32)年7月25日の大村大水害や、1962(昭和37)年7月8日発生の水害時にも同様のことが発生しました。私自身は子ども頃でしたが、平野部がまるで湖みたいに見えたのを覚えています。
あと、平野部の多い竹松地区は、稲作地帯もありますが、畑作が広い場所です。それは、上記の説明通り、元々、海や低湿地帯に何万年何千前から幾多の氾濫・水害によって、郡川上流から運ばれて来た丸形状の石や土によって扇状地として堆積した経過によって、竹松の農地は畑作が主だったのです。 以上の事柄から、この項目をまとめますと、次の(イ)〜(ハ)のことが言えるでしょう。 (イ)郡川左岸(竹松遺跡含む)は、大昔から川の流路が行ったり来たりして、水害も多かった。 (ロ)竹松地区(竹松遺跡含む)は、郡川がつくった扇状地のため、米作よりも畑作が多かった。 (ハ)水害の可能性のある所に役所の中心地は構えないと思われる。 大昔からあることわざ「沢筋(川筋)に家を建てるな」の意味からして 大昔からのことわざで「沢筋(川筋)に家を建てるな(尾根筋に建てよ)」との言葉があります。これは、どういうことかと言いますと、沢筋(尾根ではない谷筋や傾斜地)あるいは川筋(川沿いや過去に川が氾濫した所)などには家を建てない方が良いという教訓です。(ただし、現在は頑丈な堤防やダムによる治水もあるので一概に全て当てはまるものではない) このことは、当然、縄文・弥生・古代から近代まで、お金と同じように大事(貨幣価値と同等)だった米の貯蔵庫や、その管理をしていた役所の建物と大いに関係があります。つまり、貨幣価値と同じような米をどこに保管するかは、大昔から最重要テーマでした。そのようなことから、「沢筋(川筋)」に小規模は別としても、米作地帯から集めた大きな倉庫群を建て、その管理をした役所を設置したとは到底思えません。 |
4)竹松は米の生産量の関係からも小規模の倉庫しか置けなかった この項目は、米の生産量から役所跡を考えていきます。つまり、竹松の米収穫量(生産量)から、はたして竹松遺跡付近に大規模な米貯蔵所や、それを管理をする大規模な役所=彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地が置かれたのかを検証していきたいと思っています。下記の点線内は、『福重のあゆみ』の「江戸時代の福重、士農工商」ページの一部分です。 --------------------------------------------------------------------------------------- 米の収穫高
福重は、郡村の中の福重村・今富村・皆同村として、あるいは3村合併した福重村として栄えました。 郡村3か村の人口などの概要を下表に示します。(江戸時代末期の数字)
つまり、このようなことから推測しても古代に米の生産量の少ない竹松に小規模の倉庫は別としても、大規模な米の貯蔵倉庫は最初から置けなかったということです。さらに、その米などを管理する大規模な役所=彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地にもなりえないと思います。この米の貯蔵倉庫のことは、実はけっこう重要なことと私は推測しています。 なぜなら、既に何回となく書いていますが、米=金(貨幣価値)の時代に、米の生産量の少ない所に、何か特別な理由があれば別ですが、(逆に水害の多かった竹松遺跡周辺地域に)わざわざ重量物の米を大量に運ぶようなことを古代人がする訳がないと思われます。 先の項目に書きましたが、郡川の氾濫が多かった竹松遺跡付近に米の大規模貯蔵倉庫や彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地を置くことなどは、むしろ古代の人(役人)は、最優先で回避したとも考えられます。 ただし、念のために竹松にも水田はありますから、私は小規模な貯蔵倉庫や、それらを管理する小規模な役所があったことまで否定している訳ではありません。米の生産量との関係からも彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地を形成するような大規模な役所跡は、竹松遺跡周辺には存在しなかったのではないかと申し上げているのです。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
5)竹松遺跡出土品は彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地=“寿古町説”を裏付けるもの
彼杵郡家(彼杵郡衙)は寿古町が本庁、周辺の沖田町や竹松町周辺に関連施設があったのではないか
線刻紡錘車と漢字2文字について
このことは何も珍しいことではなく、現代でも職人さんの間では似たようなことがあります。実際、上野の自宅を建ててもらった大工さんが、同時に各地から家の注文があったのか、材木の一つに上野宅行きと書かずに「大村行き」と墨で書いておられました。この例と今回の紡錘車の漢字(港名)は、似たようなものと思われます。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
6)なぜ竹松遺跡周辺には平安〜室町時代の経筒も石仏もないし寺院や城跡数も少ないのか |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
7)まとめ 私は、これまで述べてきた事柄からして、長崎県教育委員会作成の遺跡展ポスター、チラシ、概要紹介文章の見出し(=「郡の都 〜古代・中世の竹松〜)、さらにテレビや新聞報道にあったような<彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」>に対して、疑問ありと言わざるを得ません。むしろ、彼杵郡家(郡衙)の推測地は”寿古町説”が有力だと思っています。ここで、この見解に至ったまとめを箇条書き風に再録すると、次の薄い黄色部分の(1)〜(8)となります。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
<彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり>の根拠 (1) 彼杵郡家(彼杵郡衙)の推定位置の経過からして所在地は“寿古町説”が有力である。 (2) 竹松遺跡のある郡川左岸は大昔から水害多発地帯で「行政の中心地」には不向きな場所である。 (3) 「行政の中心地」=米の大量産地であって竹松は米の生産量が少なく畑作物が多い。 (4) 仮に竹松遺跡に役所があったとしても、本庁を補完する役割で小規模であろう。 (5) 大宰府跡や肥前国庁跡に準ずる、あるいはそれらに似たような古代の役所跡を示す建物関係の遺構が、竹松遺跡からは(2013年春現在で)発掘、出土していない。 (6) 紡錘車は糸をつむぐための道具で民間用であり、役所用ではないので竹松遺跡に大きい役所の存在を示す決定的根拠ではない。 (7) 線刻紡錘車の漢字2文字は、郡川河口周辺の港を指していて竹松を示していない。 (8)「平安、鎌倉時代の中心地」とするなら、同時期や後世に古い寺院や石仏がほとんどないのは説明が付かない。(歴史が繋がらない事例は少ない) 竹松に古い寺院、石仏や城が少ない理由は経済力(米の生産量)と水害多発地域と関係あると思われる。 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
私は、歴史事項についても個々では「十人十色」のごとく、様々な意見があっても大いにいいのではないかと思っている一人です。ただし、県や市の教育委員会の発表は、一市民や郷土史愛好家レベルとは比べ物にならないくらいに影響力があることも確かです。マスコミ関係も、同様です。
福重郷土史同好会としても上野個人でも、このテーマは10年近く追い求め、探し続けた内容でした。沖田町説、寿古町説の確認のために当該地域を何十回となく歩行調査もしました。また、寿古遺跡から大量に出土した輸入陶磁器を写真撮影する機会もありました。 それらの到達点は、(2013年6月現在)竹松遺跡の発表後であっても、私は、より一層、彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地=“寿古町説”を強く持っています。むしろ、この寿古町説を竹松遺跡の出土品が裏付けているとも思っています。(この寿古町説は、既に掲載中の<彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった>参照) まだまだ、竹松遺跡の発掘は続くようですので、楽しみにもしています。併せて、何らかの機会に先の概略地図(寿古町説の概要図)で示している寿古町の赤い四角の点線内で発掘がされることを願っています。この点線内にある小高い丘(=水害に1回も遭っていない場所)のどこかに彼杵郡家(郡衙)の役所跡を示す何かが眠っていると、私自身は考えています。 そのようなことから、寿古遺跡周辺をさらに発掘しないかぎり、彼杵郡家(郡衙)の中心地については、決定的とか断定的には言えないのではないかとも思っています。また、これを機に、彼杵郡家(郡衙)の役所跡の話題も含めて、郷土史愛好家はじめ多くの方々に関心が高まることを願ってもいます。 |
資料
古代の街と港
寿古史跡は、竹松遺跡の広い面積に比べれば圧倒的に狭い発掘場所にも関わらず、今まで大村市内で例がない戦国時代以前の輸入陶磁器(白磁、青磁など)が大量に出土しました。その中には、未使用のものもありました。 |
||||||||||||||||||||||||||||
あとがき (この原稿は、準備中) |
||||||||||||||||||||||||||||
関係ページ:彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった 、 本庄渕 、 | ||||||||||||||||||||||||||||
(初回掲載日:2013年8月8日) |
|