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大村の歴史
彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり

彼杵郡家(彼杵郡衙)の推測地は”寿古町説”が有力
主 な 内 容
掲載状況
 はじめに
 ・関係年表(一部)
1)竹松遺跡発表内容の概要について
 ・(注)=用語解説
2)彼杵郡家(彼杵郡衙)の推定位置の概要経過と、所在地は“寿古町説”が有力である
3)大昔からの水害多発地帯に役所を構えるのか
 ・大昔からあることわざ「沢筋(川筋)に家を建てるな」の意味からして
4)竹松は米の生産量の関係からも小規模の倉庫しか置けなかった
5)竹松遺跡出土品は彼杵郡家(郡衙)の中心地=“寿古町説”を裏付けるもの
 ・彼杵郡家(彼杵郡衙)は寿古町が本庁、周辺の沖田町や竹松町周辺に関連施設があったのではないか (寿古町説の概要図)
 ・線刻紡錘車と漢字2文字について
  (1)線刻紡錘車の使用用途は、役所用ではなく、民間用ではないのか?
  (2)滑石の産地から目的港を書いたのではないのか?
6)なぜ竹松遺跡周辺には平安〜室町時代の経筒も石仏もないし寺院や城跡数も少ないのか
 ・竹松遺跡周辺に経筒、単体仏、線刻石仏、寺院や城跡数も少ないのは何故か
7)まとめ
 <彼杵郡家(郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり>の根拠
 資料
 (1)竹松遺跡発掘資料編
 (2)寿古遺跡発掘資料編
 あとがき
準備中

はじめに
 冒頭からですが、私が遺跡を発掘されている方々について、どう思っているかを先に書いておきます。私は、大村市内などで夏の暑い日に汗を拭きながら、真冬の北風が吹く時にはじっと我慢し、腰をかがめながら丹念に根気の要る作業をされている姿を十数回見ました。そして、このような県市町の専門の方々(学芸員さんなど)がいらっしゃるからこそ、素人でも歴史の大切さや面白さを教えて下さるのだと常に思い、私は尊敬し敬意を表しています。

 「歴史学は未来学(考古学は未来学)」との言葉通り、まさにあの発掘の姿こそが、その体現に至る延長線上だとも思っています。このようなことから、これから私の書く内容は、竹松遺跡についての長崎県教育委員会発表内容を完全否定している訳ではありません。また、そのようなことが出来る遺物、史料(資料)などを個人的に持ち合わせてもいません。

 しかし、今回話題になっている彼杵郡家(そのぎぐうけ、彼杵郡衙=そのぎぐんが)を探し求めてきた福重郷土史同好会や上野個人あるいは同じ郡地区に住む者として、発表内容についての率直な疑問点を書いていきます。 なお、今回の文章を書くに当たって、大野安生氏(当時、大村市文化振興課、学芸員)による2007年2月10日の福重郷土史講演会2007年3月28日の(好武城址や彼杵郡家の)説明会内容を主に引用、参照しています。

中央部が本庄渕(郡川の寿古町側)=「役所の前にある渕」と言う意味(左側の)土手西側方向に役所跡と推定されている小高い好武がある

 後の各項目に詳細に書いていきますが、結論から先に書けば長崎県教育委員会作成の遺跡展ポスター、チラシ、概要紹介文章の見出し(=「郡の都 〜古代・中世の竹松〜)、さらにテレビや新聞報道にあったような<彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」>に対して、疑問ありと言わざるを得ません。むしろ、彼杵郡家(彼杵郡衙)の推測地は”寿古町説”が有力だと言えます。

 全国にある郡家(郡衙)跡の広さは、各々の地形や条件によって一律的な敷地=2町×2町(約218m×約218m)などでは決してありません。しかし、現在の寿古町には、役所跡の敷地を推測させるような、それらの道や水路、さらには「役所の前の渕(淵)」を意味している本庄渕(ほんじょうぶち、本城渕)が、直ぐ近くの郡川にあります。

 また、寿古町では一軒の民家敷地=寿古遺跡から今まで大村市内になかったような輸入陶磁器が大量出土しています。この遺物は、その出土状況からして、他の場所と違う「特殊な場」を意味していると寿古遺跡発掘報告書には書いてあります。

 彼杵郡家(郡衙)
は、さすがに”まぼろしの邪馬台国”ほどではありませんが、長崎県央地域のどこにあったのかは、長年様々な説が浮上しては消えていきました。また、今回は、「竹松遺跡説」も登場しました。上記に書いたように、<彼杵郡家(郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり>と言う以上、私は寿古遺跡周辺を何らかの機会に発掘されない限り、真実は解明されないと思っています。

 むしろ、今、発掘されている竹松遺跡は、「彼杵郡家(彼杵郡衙)の推測地は”寿古町説”が有力」であることを裏付けているような気もしてきます。そのようなことを中心に、これから各項目で書いていきます。ホームページの性格上、重複した内容や写真、その他がありますが、ご了承の上、閲覧して頂ければ嬉しい限りです。

 あと、本ページとは別に、既に掲載中の<彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった>も関係していますので、参照願います。

関係年表(一部)
 
古代・肥前国の彼杵郡家(彼杵郡衙)を知るには、この当時の日本や九州の主な出来事なども知る必要があるかと思われます。それで、この項目では、古代の概要を把握するために概略年表を作成しました。まず、下表の「時代区分」は、あくまでも大まかな区分です。時代ごとに、その年代の分け方で色々な学説があり、さらに文化面でも学者さんや専門家で意見が分かれています。

 あと、「主な出来事」の欄は、今回のテーマと関係あると思われる事柄を列記しただけで、本来ならもっと多数の項目があります。下線(アンダーライン)のある文字行は、肥前国及び大村と直接関係あると思われる出来事です。以上のようなことから、下表は、あくまでもご参考程度にご覧願えないでしょうか。この表の作成にあたり、主に国語辞典の大辞泉を引用、参照しました。下記「」内が大辞泉からの引用です。また、主な出来事などは、これからも追加掲載していく予定です。


時代区分
文 化
主 な 出 来 事
旧石器時代

旧石器文化

約1万3千年前の野岳遺跡(大村市東野岳町)

縄文時代
(約12000年、13000年前

2300〜2400年前)
縄文文化
・約8000から7000年前頃の岩名遺跡(大村市今富町)
弥生時代
(約2300〜2400年前

約1700年前 )
弥生文化
黒丸遺跡(沖田町の遺跡含む)沖田町の遺跡発掘現地説明会ページ参照

古墳時代
(3世紀末頃

飛鳥時代
(6世紀末〜7世紀頃)

古墳文化

飛鳥文化

白鳳文化
・「57年、倭の奴国王が後漢に朝貢し、光武帝より印綬を受けたという「後漢書」東夷伝にみえる印が「漢倭奴国王印」といわれる。(福岡県粕屋郡志賀島から出土した金印)」
・4世紀末か5世紀頃に黄金山古墳が造られた。

・「414 年、広開土王の功業を記念して建てられた石碑の建立。中国の吉林省の鴨緑江中流北岸にある。古代の日朝関係を語る重要な史料。好太王碑。 」
・「645(大化元)年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)が中心となって蘇我氏打倒に始まる一連の政治改革=大化の改新」を行った。
・「660年、唐・新羅によって百済(くだら)が滅んだ。」
・「663年、白村江(はくすきのえ)での日本・百済連合軍と唐・新羅(しらぎ)連合軍との戦い。日本は唐・新羅軍に攻略された百済の救援のために軍を進めたが大敗し百済は滅亡。」
・「680年、天武天皇により薬師寺建立を発願し、697年に持統天皇によって本尊開眼。」
・「701(大宝元)年、刑部(おさかべ)親王・藤原不比等(ふじわらのふひと)らが中心となって大宝律令を編集。」 この前後頃に肥前国は成立か。また彼杵郡家(彼杵郡衙)も変遷を経て現・大村市郡地区に置かれた。

奈良時代
(710年 - 794年)

天平文化

・「710(和銅3)年、元明天皇の藤原京から平城京へ遷都し、桓武天皇が784(延暦3)年、長岡京に遷都するまでの間に奈良に都が置かれた。」
・和銅年間(708〜715年)に太郎岳(郡岳の旧称)に三尊を祀る太郎岳大権現を創建
太郎岳大権現ページ参照
・732 年以後数年の間で肥前国風土記が成立か。
・741年、聖武天皇は諸国に国分寺建立の詔(みことのり=天子の命令)を発した。
・748年(天平念戊子八月)、紫雲山延命寺の創建。
(当時は山号はなし。山号は後世に付いた)<「大村への仏教伝播と紫雲山延命寺の標石など」ページ参照
・749(天平勝宝元)年、奈良東大寺大仏殿の本尊。(通称「奈良の大仏さん」)創建。752(天平勝宝4)年に開眼供養。

平安時代
(794年- 1185年)

弘仁・
貞観文化

・「794年(延暦13)、桓武天皇が平安京へ遷都。ここからから1185年(文治元年)の鎌倉幕府の成立までの約400年間を平安時代と言う。」
・「延喜式=弘仁式・貞観式以降の律令の施行細則を取捨・集大成したもの。50巻。三代式の一。延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長5年(927)成立。康保4年(967)施行。」
・「平安後期から鎌倉時代にかけて末法思想(仏教の歴史観の一。末法に入ると仏教が衰えるとする思想)が流行。平安末期の説によれば、永承7年(1052)に末法の世を迎えるとした。」
1007(寛弘4)年の在銘がある藤原道長奉納の経筒がある。(金峯山経塚、きんぶせんきょうづか)日本最古の経筒と言われている。
 (この末法思想の流行時期に全国各地で経筒や経塚が造られた。大村市福重地区からは現在までに4個の経筒が出土した。大村の経筒ページ参照。また信仰や目印のために経塚の上に単体仏が置かれた。これは石堂屋敷の単体仏の4体を始め福重には10体近くの単体仏が現存している。この数からして同数の経筒や経塚が当時造られた可能性がある。また大村への仏教伝播や仏教寺院の創建は古代と思われる)

鎌倉時代
(1185年 - 1333年)
鎌倉文化

・「1185(文治元)年、源頼朝が守護・地頭を設置したときから、元弘3年(1333)北条高時が滅亡するまでの約150年間を鎌倉時代というが、始期については諸説がある。 」


(注4):線刻紡錘車=「」と「」の2文字(注:文字部分はCG加工)<遺跡展チラシ写真より>

1)竹松遺跡発表内容の概要について
 今年(2013年)6月8日付け新聞各紙に竹松遺跡について、長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所から前日に発表された内容が報道されていました。この元となったのが、先の文化財調査事務所作成の遺跡展ポスター、チラシ、概要紹介文章と思われます。 その主な点は、次の(イ)(ハ)の項目です。

 (イ)(遺跡展チラシや紹介文章の見出しはいずれも)「郡の都 〜古代・中世の竹松〜」である)
 (ロ)
<9世紀後半〜10世紀前半=平安時代中頃の遺物> 2文字(「有家」)が墨で書かれた土器、2文字が彫ってある滑石製線刻紡錘車、「見」の文字が刻まれた土器

 (ハ)<中世>湖州六花鏡(こしゅうろくかきょう)(13世紀=鎌倉時代 中国の宋時代)

 今回、上記の詳細は、下記の概要項目を除き省略します。念のため、下記項目は全て新聞各紙の内容を参考に記述しています。

<報道内容の概要>(長崎新聞、西日本新聞、毎日新聞などより引用・参照。下線は上野が付けた)
 (1)線刻紡錘車が発見=「」と「」の2字の漢字があり。読みは「きのつ」である。

 (2)上記の2文字の意味は「木」=「杵」、「都」=「津」で「彼杵郡の港」と推測されている。

 (3)このことにより竹松遺跡周辺には古代肥前国(注1)・彼杵郡の郡衙(彼杵郡家) (注2)が置かれ、平安、鎌倉時代は彼杵郡の行政の中心地的役割(注3)を果たしていた可能性がある。

 (4) 中国などからの輸入された鏡を始め陶磁器が多数出土した。

・(注)=用語解説
(注1):古代肥前国は対馬と壱岐を除く現在の長崎県と佐賀県で、その「首都」は佐賀市大和町の肥前国庁跡である。
(注2):郡衙(郡家)=「律令制下の郡の役所」のこと。郡家=「律令制で郡司が執務していた所。郡の役所。こおりのみやけ。ぐうけ」(国語辞典の大辞泉より)ご参考までに福重郷土史同好会では彼杵郡家(そのぎぐうけ)で名称を統一している。
(注3):「竹松遺跡周辺には古代肥前国・彼杵郡の郡衙(郡家) が置かれ、平安、鎌倉時代は彼杵郡の行政の中心地的役割を果たしていた」は、大いに疑問があり、後の項目で詳細に述べる。
(注4):(右上側写真の)線刻紡錘車の2文字は、2013年6月23日〜25日開催の遺跡展チラシ写真から上野がCG加工したものである。この道具は役所用ではなく民間用ではないのかとの疑問がある。CGは「木」としたが、別の見方では「末」のようにも見えたので、念のため「末」のCG加工写真も作成したが、このページには掲載していない。


右側(右岸):寿古町、中央部右側:郡川本庄渕、左岸:沖田町黒丸町、 (彼杵郡家本庄渕の右側周辺にあったと推測) 手前側は皆同町
寿古遺跡、輸入陶磁器(白磁)(大村市寿古町)

2)彼杵郡家(彼杵郡衙)の推定位置の概要経過と、所在地は“寿古町説”が有力である
 古代肥前国・彼杵郡は、現在の長崎県央部に実在した郡の一つです。ただし、その中心地とも言える郡役所の推測地は、まるで「幻の邪馬台国」みたいに過去から色々な候補地がありました。

  郡役所の名称は、彼杵郡家(彼杵郡衙)と呼ばれてきました。その推測地の代表例を下記に順不同で挙げます。ただし、地名は全て現在地名称です。(尺貫法の1町=約109m)

(1)東彼杵町説=最初、佐賀(肥前国の首都=国府、佐賀大和市)に近いので、推測地の一つだったが面積などの関係上、後で大村に移転した説に変わった。その証拠に、山は郡岳(こおりだけ、826m)、川は郡川(大村市内最長最大の川)、旧村は郡村(現在の郡地区)と、全て彼杵郡家(彼杵郡衙)の「」からの名称が残っている。

(2)沖田町説=「6町×6町の役所跡」と主張する説もあったが、あまりにも広大過ぎて逆に水田が成り立たない。また、郡川の左岸側で平地ばかりの地形から水害に遭いやすい地域でもある。しかし、ここには字(あざ)沖田条里遺構としての「蔵ノ町」など興味深い地名もあり、縄文・弥生当時から穀倉地帯である。

(3)寿古町(好武周辺)説
=ここだけが周辺部に比べて小高い地域、つまり水害に遭いにくい場所である。また、古代からあると思われる堀切(水路)や道跡(壁跡?)が、消えている所もあるが、現在も四方形として視認できる場所がある。(下記の概要地図参照)

 さらに年代が下り、この寿古町(好武周辺)には、彼杵庄園の管理事務所、戦国時代には一時期だが好武
も築かれたように彼杵郡家(彼杵郡衙)を経た後も長崎県央地域の政治経済の要衝としての役割を果たしていた地域である。

  また、民家建設前に発掘された寿古遺跡からは大量の輸入陶磁器が出土した。(下記項目や出土した輸入陶磁器の写真などは
彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった」ページの「3)寿古遺跡の遺物が語るもの」を参照)

寿古遺跡から大量出土の輸入陶磁器の意味は
 上記の3項目の件で、(1)(2)は何か遺跡発掘とか根拠あって説明されたものではありません。ただし、(3)寿古町(好武周辺)説は、個人住宅建設前に寿古遺跡として発掘され古代の輸入陶磁器が大量に出土しました。そのことは、寿古遺跡(県営圃場整備事業福重地区にかかる遺跡発掘調査報告、大村市文化財保護協会1992年3月発行)に詳細に報告されています。

 また、この報告書には、輸入陶磁器の大量出土などについて<(前略) 須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。 好武城及び寿古遺跡の状況はきわめて特殊であり、当該期における遺跡の性格は、自ずと当地域 における特殊な場として考える必要がある。 (後略)>と書いてあります。

 先の「特殊な場」との表現は、上野流に考えれば輸入陶磁器を大量に買える財力のある人々が当時の寿古にはいたと言うことです。それは、当時は限られていて(現代風表現で)役所、役人、商社、寺院の住職などと推測されます。

 ただし、個人や家族が使用する分だけなら、高価な輸入陶磁器が大量に出土する訳ではないですから、やはり役所または貿易商社みたいな存在があったと推測されます。

輸入品の積み下ろしは郡川河口周辺か
 また、大村湾に入って来た輸入品(重い陶磁器含む)の荷揚げ港としては郡川河口周辺と考えられますが、その距離は寿古町説の彼杵郡家(郡衙)まで約1kmの近さです。

 また、郡川の河川状況と水量から、あるいは何か所の井堰を越えて、さらに数キロ上流側(竹松遺跡周辺)に「彼杵郡家の港」があったとは到底考えられない川の状況でもあります。

“本庄渕”の名称は「役所の前の渕
」と言う意味である
 寿古町、好武の真横(東側)の郡川には、ほんじょうぶち」(本庄渕、本城渕)と呼ばれている渕があります。(上図の中央部右側の本庄渕を参照)この本庄渕は、「古代からあった役所や庄園管理事務所の前の渕との意味がある」と言われています。簡潔に言い直しますと、「本庄渕役所の前にある渕」です。これは、そのものずばり、彼杵郡家(彼杵郡衙)の寿古町説につながる名称でしょう。

3)大昔からの水害多発地帯に役所を構えるのか
 
この項目は、地形から彼杵郡家(彼杵郡衙)の役所跡を考えていきます。<右図=郡川の河道跡を参照、この資料は『大村史談48号』102ページから引用し、分かりやすくするために上野の方で彩色した>

 この図の中央部に「竹松」の文字がありますが、竹松遺跡は、この文字より約1.5cm〜3cm上側です。竹松遺跡右側の水色の大きな川が郡川の本流、その右側上に佐奈河内川(さながわちがわ)と、下側に佐奈河内川の支流である野田川が見えます。

 つまり、竹松遺跡周辺は、郡川の本流と佐奈河内川との合流地点の先になります。このことは、洪水時に大村市内最大の川である郡川と、福重地区内では大きなの川である佐奈河内川の合流した水が、一番集中している所ともいえます。

 竹松遺跡の中には、大昔の河道跡(図の破線部分)もあります。また、この図から読み取れるのは、扇状地で平地の多い竹松地区の地形を作る上で、郡川や佐奈河内川の流路が行ったり来たりしているのが、良く分かります。

 それに私は2013年1月30日、竹松遺跡現地説明会時に「ここは川の跡です」との説明も受けました。また、遺跡近くには階段状の田んぼの石垣もあります。平地ばかりの所に、何故あの丸形状の田んぼの石垣があるのでしょうか。

 それは、一段低くなっている所が、河道跡ということです。あの石垣は、郡川が水害や氾濫によって回数多く上流から石を運んできたことを示しています。(この件は次でも書く予定)

郡川の氾濫や水害によって運ばれてきた丸形状の石垣

 先にも一部書きましたが、郡川左岸の竹松地区には民家を囲む丸い形状の石垣が沢山あります。小路口町、鬼橋町、(竹松遺跡のある)竹松町などの旧家の周囲には、大抵この石垣が沢山あります。(左下の石垣写真参照、丸形状の石垣に注目)

  あの丸形状の石は、まさしく長年かけて郡川が、竹松付近での氾濫・水害時に上流から運んできた証拠の品でもあります。つまり、あの丸形状の石垣がある地域は、何万何千年前から水害多発地帯だったということでもあります。(現在は堤防などが整備されていますが、近代以前は、それこそ自然任せ、川の氾濫しだいの状況だったと言えます)

 郡川の右岸側(福重など)にも丸い石や石垣はない訳ではありませんが、圧倒的な多さで竹松地区にはあります。 また、この郡川の氾濫や水害は、はるか遠い過去のことばかりではありません。1957(昭和32)年7月25日の大村大水害や、1962(昭和37)年7月8日発生の水害時にも同様のことが発生しました。私自身は子ども頃でしたが、平野部がまるで湖みたいに見えたのを覚えています。

竹松遺跡発掘事務所駐車場横にある丸形状の石垣(この石は郡川が幾多の氾濫時に運んできた証拠品。この種の石垣がある所は水害多発地帯でもあった)
  また、これらを教訓に大村市には、ハザードマップがあります。「ハザードマップ 郡川」ページには、竹松遺跡も含めて郡川左岸に近い地域は、薄い水色や黄色で塗られ、洪水時には要注意か避難すべき地域みたいな場所です。(この水色や黄色の場所は大村大水害時に郡川の氾濫水が上がった地域とほぼ同じです) 

 あと、平野部の多い竹松地区は、稲作地帯もありますが、畑作が広い場所です。それは、上記の説明通り、元々、海や低湿地帯に何万年何千前から幾多の氾濫・水害によって、郡川上流から運ばれて来た丸形状の石や土によって扇状地として堆積した経過によって、竹松の農地は畑作が主だったのです。

  以上の事柄から、この項目をまとめますと、次の(イ)(ハ)のことが言えるでしょう。

 (イ)郡川左岸(竹松遺跡含む)は、大昔から川の流路が行ったり来たりして、水害も多かった。
 (ロ)竹松地区(竹松遺跡含む)は、郡川がつくった扇状地のため、米作よりも畑作が多かった。
 (ハ)水害の可能性のある所に役所の中心地は構えないと思われる。

大昔からあることわざ「沢筋(川筋)に家を建てるな」の意味からして

  大昔からのことわざで「沢筋(川筋)に家を建てるな(尾根筋に建てよ)」との言葉があります。これは、どういうことかと言いますと、沢筋(尾根ではない谷筋や傾斜地)あるいは川筋(川沿いや過去に川が氾濫した所)などには家を建てない方が良いという教訓です。(ただし、現在は頑丈な堤防やダムによる治水もあるので一概に全て当てはまるものではない)

  このことは、当然、縄文・弥生・古代から近代まで、お金と同じように大事(貨幣価値と同等)だった米の貯蔵庫や、その管理をしていた役所の建物と大いに関係があります。つまり、貨幣価値と同じような米をどこに保管するかは、大昔から最重要テーマでした。そのようなことから、「沢筋(川筋)」に小規模は別としても、米作地帯から集めた大きな倉庫群を建て、その管理をした役所を設置したとは到底思えません。

4)竹松は米の生産量の関係からも小規模の倉庫しか置けなかった
 
この項目は、米の生産量から役所跡を考えていきます。つまり、竹松の米収穫量(生産量)から、はたして竹松遺跡付近に大規模な米貯蔵所や、それを管理をする大規模な役所=彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地が置かれたのかを検証していきたいと思っています。下記の点線内は、『福重のあゆみ』の「江戸時代の福重、士農工商」ページの一部分です。
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        米の収穫高
郡 村
 4062石 
大 村
 3144石
鈴田村
 1060石
三浦村
  855石
萱瀬村
  317石
   江戸時代初期の元和3年(1617年)の村高(米の収穫高)は左表のとおりです。郡村の中でも福重の生産力が優れていました。水田面積が広かっただけではなく、農耕地としての先進性、人口の集中もあったのです。(竹松は畑の割合が高い)
  
  福重は、郡村の中の福重村・今富村・皆同村として、あるいは3村合併した福重村として栄えました。 郡村3か村の人口などの概要を下表に示します。(江戸時代末期の数字)

江戸時代、郡村(福重、竹松、松原)の人口及び商工業者数など
村名
戸数
人口
馬数
武士数
麹屋
染屋
鍛冶屋
豆腐屋
紙屋
酒屋
綿屋
質屋
水車
福重
667
2421
236
107
10
11
14
-
-
-
竹松
705
2528
167
54
-
-
13
-
松原
410
1505
96
37
-
17
10
-
1
-
-








注: 福重は武士数が多いのが目立ちます。大村藩では禄米ではなく、田(知行地)を支給される家臣が多かったので、水田の多い福重には武士が多かったと思われます。
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 上表で肝心なのは、各村の全体戸数に対し、武士の数が「福重村=107名」、「竹松村=54名」で2倍ほども違います。これは当時、武士を養うには米の生産量が左右していましたから、米の生産量は、山や丘陵地帯が多かったにも関わらず福重村が竹松村より圧倒的に多かったことを物語っています。さらに言えば竹松村は、地形的には、ほぼ平地ばかりなのに米の生産量が少なく、扇状地のため畑作が多く、武士を多く養うことができない水田状況だったということです。この平地面積の割に水田が少ない状況は、江戸時代だけでなく古代も、あるいは灌漑施設の進んだ現在も、ほぼ同様のことと推測されます。

 それは、以前あった各農協(農業協同組合)の倉庫からも良く分かる事例と言えます。現在のJAながさき県央の前身になる昭和時代の竹松農協や福重農協時代でも、米の倉庫規模は、福重>竹松でした。そして、米の総量自体も福重対比で竹松は、圧倒的に貯蔵量(倉庫群)が少なかったと聞いています。

 つまり、このようなことから推測しても古代に米の生産量の少ない竹松に小規模の倉庫は別としても、大規模な米の貯蔵倉庫は最初から置けなかったということです。さらに、その米などを管理する大規模な役所=彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地にもなりえないと思います。この米の貯蔵倉庫のことは、実はけっこう重要なことと私は推測しています。

 なぜなら、既に何回となく書いていますが、米=金(貨幣価値)の時代に、米の生産量の少ない所に、何か特別な理由があれば別ですが、(逆に水害の多かった竹松遺跡周辺地域に)わざわざ重量物の米を大量に運ぶようなことを古代人がする訳がないと思われます。 先の項目に書きましたが、郡川の氾濫が多かった竹松遺跡付近に米の大規模貯蔵倉庫や彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地を置くことなどは、むしろ古代の人(役人)は、最優先で回避したとも考えられます。

 ただし、念のために竹松にも水田はありますから、私は小規模な貯蔵倉庫や、それらを管理する小規模な役所があったことまで否定している訳ではありません。米の生産量との関係からも彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地を形成するような大規模な役所跡は、竹松遺跡周辺には存在しなかったのではないかと申し上げているのです。

5)竹松遺跡出土品は彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地=“寿古町説”を裏付けるもの
 
竹松遺跡から出土した線刻紡錘車や輸入陶磁器などは、大変素晴らしいことです。また、謎の多い長崎県央地域の古代史について、大きな影響を与えるもので今後の発掘、出土に対しても期待が持てます。また、古代肥前国、特に、長崎県央地域に存在した彼杵郡や、その役所である彼杵郡家(彼杵郡衙)を考える意義は大なるものがあると考えています。

  既に「2)彼杵郡家(郡衙)の推定位置の概要経過と、所在地は“寿古町説”が有力である」項目で紹介しましたが、寿古町で出土した寿古遺跡は、個人住宅の建設前に竹松遺跡に比べれば圧倒的に狭い場所で、古代の輸入陶磁器が大量に発掘されました。

 重複しますが大村市教育委員会の報告書には、寿古遺跡の特徴点として、要旨「須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。

好武城及び寿古遺跡の状況はきわめて特殊であり、当該期における遺跡の性格は、自ずと当地域 における特殊な場として考える必要がある」と書いてあります。

  この解釈も既に書いていますが、やはり彼杵郡家(彼杵郡衙)を形成する上で、この場所は小高い所だったため、例え周辺部で水害が発生しても被害は遭わなかったからだと思います。

 また、郡川を挟んで隣町の沖田町も一時期、彼杵郡家(郡衙)の役所があったと想定されていましたが、竹松遺跡と同じく郡川の左岸は水害に遭いやすい地域です。ただし、沖田条里遺構から由来している字(あざ)で「蔵ノ町」などは、注目に値する地名とも言えます。

寿古遺跡、輸入陶磁器(青磁)(大村市寿古町)

彼杵郡家(彼杵郡衙)は寿古町が本庁、周辺の沖田町や竹松町周辺に関連施設があったのではないか
  私は、彼杵郡家(彼杵郡衙)の役所について、寿古町をさらに発掘しないかぎり、本当のことは解明されないと思っています。それは、竹松遺跡だけで、(遺跡展チラシや紹介文章の見出しにあった)「郡の都 〜古代・中世の竹松〜」とか、新聞各紙の記事「竹松遺跡周辺には古代肥前国、彼杵郡の郡衙(郡家) が置かれ、平安、鎌倉時代は彼杵郡の行政の中心地的役割を果たしていた可能性がある」などと、言えないのではとの意見を持っています。もっと明確に言えば、先二つの「」内容は、大きな疑問があります。

 彼杵郡家(彼杵郡衙)の推定位置の“寿古町説”は、寿古遺跡発掘調査報告書でも、かなり明確になっていますが、あと数か所、何らかの機会に寿古町の好武周辺の発掘がなされれば、それはより一層明確化するでしょう。

 また、2007年2月10日の福重郷土史講演会2007年3月28日の(好武城址や彼杵郡家の)説明会内容で書いています大野氏の説明内容を引用・参照すれば、私は「彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地=寿古町に(現代風表現で)本庁があり、周辺の沖田町や竹松町周辺に役所関連施設があったのではないか」と思っています。その意味で、竹松遺跡の出土品などは、彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地=“寿古町説”を裏付けているとも考えられます。

(注4):線刻紡錘車=「」と「」の2文字(注:文字部分はCG加工)<遺跡展チラシ写真より>

線刻紡錘車と漢字2文字について
(1
)線刻紡錘車の使用用途は、役所用ではなく、民間用ではないのか 
 紡錘とは、糸を紡ぐためのものです。はたして古代肥前国の役人が、糸を紡ぐことをしていたのでしょうか。古代の国の重要事項は、国の防衛と税の徴収が主たる業務だったと思われます。現代風に表現するなら財務省と防衛省の集合体だったと推測されます。とりわけ、平時の職責は税の徴収と国民の管理で、とても例えば紡績作業に従事していた可能性には疑問を感じます。

 つまり、この紡錘車の所有者や使用用途は、役所用ではなく、民間用でしょう。それを根拠に、もしも竹松遺跡が彼杵郡家(郡衙)の中心地と判断されたならば、それは早計だと言わざるを得ません。

 役所跡があるとするならば、古代の役所で使用されていた役所固有の文字がある石碑か木簡式の文字あるいは何か役所専用の道具などが出土するのではないでしょうか。また、太宰府市の大宰府跡や佐賀市大和町にある肥前国庁跡などに準ずる規模の役所(建物)遺構などが発掘されれば別ですが、それらは(2013年春現在)出土していないようです。

(2)滑石の産地から目的港を書いたのではないのか

  線刻紡錘車の漢字2文字が、「木」=「杵」、「都」=「津」で「彼杵郡の港」と言う解釈で正しければ、なぜこのような「港の名前」まで滑石に彫り込んだかとの疑問があります。所有者が竹松にいたならば、例えば「竹松村の竹松太郎」風に書くのではないでしょうか。 民間用の紡績器具ならば、普通に考えれば古代であっても所有者名ならばいざ知らず、自分と直接関係のない「港の名前」までは必要ないのではないかと思われます。

  滑石の古いものとして福重には、平安時代末期と思われる経筒3本(弥勒寺の経筒草場の経筒その1、草場の経筒その2)が現存しています。この滑石の経筒3本とも大村で産出できないため、その産地は西彼杵半島の大瀬戸周辺と言われています。 このことから、私の推測ですが、滑石の産地(大瀬戸当たり)の人が、発送先の港名=「彼杵郡の港」(=この場合は郡川の河口周辺を指す)を彫り込んだとは考えられないでしょうか。

  つまり、現代風に言えば貨物の到着先と同じか、「大村の人から注文があったので、その行き先の港名」と言う意味合いです。これならば、「この紡錘車は彼杵郡の港行きのものだ」と発注者別に、あるいは到着予定の港別に区分けして、作業した可能性もあります。

中央部が本庄渕(郡川の寿古町側)=「役所の前にある渕」と言う意味(左側の)土手西側方向に役所跡と推定されている小高い好武がある

 このことは何も珍しいことではなく、現代でも職人さんの間では似たようなことがあります。実際、上野の自宅を建ててもらった大工さんが、同時に各地から家の注文があったのか、材木の一つに上野宅行きと書かずに「大村行き」と墨で書いておられました。この例と今回の紡錘車の漢字(港名)は、似たようなものと思われます。

・竹松遺跡周辺に「港があった」と解釈するのは無理がある
  郡川河口から上流側へ登るなら現在、先に紹介した本庄渕(寿古町側)を始め、約1kmの間に大きな堰だけも二つあるようです。さらに、この本庄渕から約1.3km上流に竹松遺跡周辺があります。郡川河口から竹松遺跡周辺まで距離合計すると約2.3kmあり、その間に水田用の堰や渕が、古代でもなかったとは言えません。

 むしろ、現代土木技術のなかった頃は、小さな堰が多く造られ農業用水に使われていた可能性があります。このような農業用の堰があれば船の行き来に邪魔であり、ましてや港の機能などはできないと思われます。そのようなことも含め、竹松遺跡周辺に「港があった」と解釈するのは無理があります。やはり、郡川河口周辺に港はあったと思われます。

 この項目をまとめて申し上げれば、紡錘車の文字の解釈=「彼杵郡の港」とは、竹松の特定地域を指したものではなく、むしろ郡川河口周辺と見た方が、港名としても、より一層文字の内容と合致するのではないでしょうか。

郡地方(松原、福重、竹松)の寺院群(『おおむらの史記』18ページより)

6)なぜ竹松遺跡周辺には平安〜室町時代の経筒も石仏もないし寺院や城跡数も少ないのか
 地域の
歴史は、例えば火山爆発や島の陥没などで場所自体が無くなって、その一瞬で終わる場合も無い訳ではありません。しかし、多くが過去、現代、将来と連動し、繋がってもいます。

 そこで、この項目のテーマは、「竹松遺跡周辺には古代肥前国・彼杵郡の郡衙(郡家) が置かれ、平安、鎌倉時代は彼杵郡の行政の中心地的役割を果たしていた可能性がある」と言うならば(あくまでも仮定の話ですが)、「そのことと連動し、何らかの形で繋がった同じ年代あるいは後世の事例や建物跡などが見られるはずだ」という内容の検証です。

 (右図の郡七山十坊などの寺院名と所在地を参照。竹松遺跡は中央部の「白水寺」文字の左側と下側付近で郡川の左岸) この図は、まるで水害多発地帯と米の生産量が少なかった場所を避けるように丘陵地帯に仏教寺院が多くあります。特に、今回の竹松遺跡周辺には、水害の影響の少ない、やや離れた極楽寺を除けば寺院は一つもないのです。また、この地図は、「水害の多い郡川左岸に寺院は建てるな!」と言わんばかりにも見えてきます。

竹松遺跡周辺に経筒、単体仏、線刻石仏、寺院や城跡数も少ないのは何故か
 逆に、寺院の数は福重に集中し、松原にもあります。さらに、福重には平安末期や鎌倉時代に流行した末法思想との関係で、経筒が合計4個、経塚の上に信仰と目印のために置かれた単体仏が10体近く現存しています。また。平安末期〜中世時代の建立と言われている線刻石仏13体、線刻不動明王像1体などもあります。

  これらは何を意味しているのでしょうか。つまり、彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地が郡川右岸の寿古町周辺にあって米の生産量が多いからこそ、古代から室町時代まで色々な寺院や、それと関係する経筒、単体仏、線刻石仏などが可能だったのです。そのような同時期や過去からの経過や条件がない竹松遺跡周辺では、古い石仏や寺院がないのです。

 741年、聖武天皇は諸国に国分寺建立の詔(みことのり=天子の命令)を発し、国単位で国分寺が各地で創建されました。(「関係年表」参照
)彼杵郡家(郡衙)には、郡なので国分寺は当然ありません。しかし、郡として整備が整い、確立していく中で国分寺に準じるような仏教寺院が各地に出来たとも言われています。

 この説も、さらには仮に「竹松遺跡周辺には古代肥前国・彼杵郡の郡衙(郡家) が置かれた」説も正しいとするならば、何故この竹松遺跡周辺には仏教寺院や古い石仏などがないのでしょうか。

 報道内容の「平安、鎌倉時代は彼杵郡の行政の中心地的役割」の「平安、鎌倉時代」は、それ相当の長期間です。その間、仏教寺院、経筒、単体仏、線刻石仏などは何もなかったでは、「中心地的役割」にはならないでしょう。また、古代からの役所跡と言えば土地条件など、大変良い所です。しかし、戦国時代の城跡(豪族の中心地)なども竹松遺跡周辺にはないのです。

 以上、この項目で述べてきた通り、全く過去と断絶して、中心地は発展しにくいと思われます。また、政治経済の中心地として存在したならば、その条件の良さを生かして、後でなんらかの建物(例えば寺院、城など)も多数建てられたのが歴史の繋がりとも言えます。そのようなことから、一時代の前後も見ていく必要があるのではないでしょうか。

7)まとめ
 
私は、これまで述べてきた事柄からして、長崎県教育委員会作成の遺跡展ポスター、チラシ、概要紹介文章の見出し(=「郡の都 〜古代・中世の竹松〜)、さらにテレビや新聞報道にあったような<彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」>に対して、疑問ありと言わざるを得ません。むしろ、彼杵郡家(郡衙)の推測地は”寿古町説”が有力だと思っています。ここで、この見解に至ったまとめを箇条書き風に再録すると、次の薄い黄色部分の(1)〜(8)となります。

<彼杵郡家(彼杵郡衙)の「竹松(遺跡)中心説」に疑問あり>の根拠

(1) 彼杵郡家(彼杵郡衙)の推定位置の経過からして所在地は“寿古町説”が有力である。

(2) 竹松遺跡のある郡川左岸は大昔から水害多発地帯で「行政の中心地」には不向きな場所である。

(3) 「行政の中心地」=米の大量産地であって竹松は米の生産量が少なく畑作物が多い。

(4) 仮に竹松遺跡に役所があったとしても、本庁を補完する役割で小規模であろう。

(5) 大宰府跡や肥前国庁跡に準ずる、あるいはそれらに似たような古代の役所跡を示す建物関係の遺構が、竹松遺跡からは(2013年春現在で)発掘、出土していない。

(6) 紡錘車は糸をつむぐための道具で民間用であり、役所用ではないので竹松遺跡に大きい役所の存在を示す決定的根拠ではない。

(7) 線刻紡錘車の漢字2文字は、郡川河口周辺の港を指していて竹松を示していない。

(8)「平安、鎌倉時代の中心地」とするなら、同時期や後世に古い寺院や石仏がほとんどないのは説明が付かない。(歴史が繋がらない事例は少ない) 竹松に古い寺院、石仏や城が少ない理由は経済力(米の生産量)と水害多発地域と関係あると思われる。

 私は、歴史事項についても個々では「十人十色」のごとく、様々な意見があっても大いにいいのではないかと思っている一人です。ただし、県や市の教育委員会の発表は、一市民や郷土史愛好家レベルとは比べ物にならないくらいに影響力があることも確かです。マスコミ関係も、同様です。

竹松遺跡発掘事務所駐車場横にある丸形状の石垣(この石は郡川が幾多の氾濫時に運んできた証拠品。この種の石垣がある所は水害多発地帯でもあった)
  「幻の邪馬台国」ほどではないにしても、この「彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地は、どこにあったのか?」の説や議論は、戦後しばらくして、ずっと語られてきました。それは、先にも書いた通り、東彼杵町説、沖田町説、寿古町説などでした。今回、新たに竹松(遺跡)説が加わった感じになってきました。

 福重郷土史同好会としても上野個人でも、このテーマは10年近く追い求め、探し続けた内容でした。沖田町説、寿古町説の確認のために当該地域を何十回となく歩行調査もしました。また、寿古遺跡から大量に出土した輸入陶磁器を写真撮影する機会もありました。

 それらの到達点は、(2013年6月現在)竹松遺跡の発表後であっても、私は、より一層、彼杵郡家(彼杵郡衙)の中心地=“寿古町説”を強く持っています。むしろ、この寿古町説を竹松遺跡の出土品が裏付けているとも思っています。(この寿古町説は、既に掲載中の<彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった>参照)

 まだまだ、竹松遺跡の発掘は続くようですので、楽しみにもしています。併せて、何らかの機会に先の概略地図(寿古町説の概要図)で示している寿古町の赤い四角の点線内で発掘がされることを願っています。この点線内にある小高い丘(=水害に1回も遭っていない場所)のどこかに彼杵郡家(郡衙)の役所跡を示す何かが眠っていると、私自身は考えています。

そのようなことから、寿古遺跡周辺をさらに発掘しないかぎり、彼杵郡家(郡衙)の中心地については、決定的とか断定的には言えないのではないかとも思っています。また、これを機に、彼杵郡家(郡衙)の役所跡の話題も含めて、郷土史愛好家はじめ多くの方々に関心が高まることを願ってもいます。

 
(1):墨書土器
(2):滑石紡錘車
墨書土器(ぼくしょどき)<9世紀後半〜10世紀前半=平安時代中頃 >
 土師器(はじき)の外面に「有家」の2文字が墨で書かれています。これまでの出土例か ら、人名を表した文字だと考えられます。
滑石紡錘車<10世紀後半〜11世紀中頃=平安時代中頃)>(注:黄色文字部分は上野のCG加工)
 紡錘車とは、糸を紡ぐための道具です。 竹松遺跡出土の紡錘車は滑石で作られており、「木(き)」・「都(つ)」の文字が彫り込まれています。「木(き)」=「杵(き)」、「都(つ)」=「津(つ)」と読み、「杵の津(きのつ)」と理解されます。「津」は港を表す文字で、「彼杵の港(そのぎのみなと)」を示していると考えられます。彼杵郡の港を表す資料としては、県内で初めて発見された大変貴重なものです。
(3):刻書土器
(4):湖州六花鏡
刻書土器(こくしょどき)
 土師器に「見」の文字が刻みこまれています。「見」の上にはわずかに文字が刻まれている様子が見られ、2文字以上が記されていたと考えられます。 人名または地名を表していると思われますが、欠けてしまっているために詳し いことは不明です。
湖州六花鏡(こしゅうろっかきょう)<13世紀=鎌倉時代中国宋代>
  墓と思われる穴の中から発見されました。鏡の表面には繊維の跡も残っており、布で丁寧に包まれていたと思われます。また、中国製の青白磁(ぜいはくじ)の合子(こうす)(香料入れ)が共に収められていました。

 鏡には湖州真石家念二叔照子」読める文字が記してあり、これは元憲船の発見で有名な鷹島海底遺跡で発見された湖州鏡と類似しています。中国漸江省の鉱山から採れる原料を使用して作られています。 湖州六花鏡は、中世(鎌倉時代)の日本と中国や周辺地域との交流を示す貴重な資料です。

資料

(1)竹松遺跡発掘資料編
 
まず、先に右側=竹松遺跡から発掘・出土した遺物の資料について、説明します。

(イ)文章内容については、2013年6月23日〜25日に開催された竹松遺跡発掘調査途中成果報告会(現地での竹松遺跡・展示会、主催:長崎県教育庁新幹線文化財調査事務所・竹松現地事務所)で配布された紹介文書からの引用です。

(ロ)写真・画像関係は、1枚の滑石紡錘車(=これは配布チラシ画像から上野が文字部分をCG加工したもの)を除き、あとの3枚は、上野の方から大村ケーブルテレビさんへ、お願いして提供して頂きました。

 右表には、分かりやすくするために私の方で、上から順番に仮の番号や名称など、2段目に写真、3段目に紹介文を掲載しています。

 遺跡展での紹介文全体の流れは、下記点線内の通りですが、右写真説明文と重複するため下記では省略しています。
-------------------
<竹松遺跡・展示紹介文書より>
(こおり)の都
〜古代・中世の竹松〜

 平成24年度の竹松遺跡の発掘調査で、古代末〜中世(平安時代〜鎌倉時代) にわたる遺跡周辺の性格を物語る貴重な文字資料や、中国との交流を示す鏡が 発見されました。

<古代>
・墨書土器
<紹介文章は右上表の
(1):墨書土器(ぼくしょどき)の通り

滑石紡錘車<紹介文章は右上表の(2):滑石紡錘車
の通り

刻書土器<紹介文章は右上表の(3):刻書土器(こくしょどき)の通り

 これらの文字が記されたものに加え,住居跡・鍛冶炉(かじろ)跡・掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)跡と3,000個もの柱穴・井戸跡などが多数発見されました。このことから、古代の竹松遺跡周辺には彼杵郡の中心地
(注A)で、その役所などがあったのではないかと推測されます。

竹松遺跡展のチラシ

古代の街と港
 古代では、河川のそば、河ロの奥まった所に港
(注B)が築かれ、そこに郡の役所や役員の住居などの大きな街が栄えました。竹松遺跡も、郡川河ロの奥に有り、その立地にかなっており(注B)、彼杵郡の姿を思い浮かべることができます。

<中世>
湖州六花鏡<紹介文章は右上表の(4):湖州六花鏡の通り

 鏡に加え、大型の掘立柱建物跡とそれを囲む濠(ほり)・中国の陶磁器(貿 易陶磁器)などが見つかったことから、中世豪族の居館があったと考えられ ます。
-----------------------------------------
(注A):この「古代の竹松遺跡周辺には彼杵郡の中心地」という文章表現は、大きな疑問があります。この件は、このページ全体のテーマですので、「はじめに」の項目から順次閲覧をお願いします。

(注B):古代の港の地理的条件例として、郡川の場合、「奥まった所=竹松遺跡周辺」に港があったともとれる表現が、この紹介文にはあります。しかし、そのようなことはありえないと思われます。なぜなら、海(大村湾)や郡川河口から竹松遺跡周辺へ、船(舟)でさかのぼる場合、古代からある井堰や渕が最低でも3〜4ヶ所あります。

  この堰の一つがあったことは、班田収授の法で出来た沖田条里遺構の田んぼからでも直ぐ分かることです。そして、それらの井堰が船(舟)の邪魔になり、竹松遺跡付近に港があったとは思われません。それに比べ郡川河口(寿古町)に港があったことは、充分に考えられます。

 その一例として時代が下りますが江戸時代の(大村)郷村記に、萱瀬の木を上流から流し、寿古町の下河原(しもごうら、郡川河口)に玉木役所(燃料用の薪や木材集積所みたいな港があり、それを管理する役所)があったと記述されています。このようなことは何も江戸時代だけでなく、それよりずっと以前の古代も鎌倉時代も、港を構えるならば途中に井堰などがない、海に近い便利な所が最優先だといえます。逆に、海(大村湾)から不便な「奥まった所=竹松遺跡周辺」に港を造ることなどは、郡川の条件からしてありえないことだと思われます。

  以上のことから、「彼杵の港」があっても、それは竹松遺跡周辺ではなく、郡川河口=寿古町の下河原(しもごうら)付近だったと思われます。この下河原の港ならば、彼杵郡家(彼杵郡衙)、寿古町説との距離は直線で約1kmですから、こちらの方が立地条件も水運も便利な場所だったといえます。

(2)寿古遺跡発掘資料編
 
この寿古遺跡について、そのこと自体は、寿古遺跡(県営圃場整備事業福重地区にかかる遺跡発掘調査報告、大村市文化財保護協会1992年3月発行)に詳細に報告されています。下記に掲載している遺物写真は、既に「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった 」ページに掲載中のものばかりです。

寿古遺跡発掘出土品(大村市寿古町)
陶器の天目(お茶を飲むためのもの)

須恵器

無釉陶器のこね鉢
輸入陶磁器(青磁)
輸入陶磁器(白磁)

 寿古史跡は、竹松遺跡の広い面積に比べれば圧倒的に狭い発掘場所にも関わらず、今まで大村市内で例がない戦国時代以前の輸入陶磁器(白磁、青磁など)が大量に出土しました。その中には、未使用のものもありました。

  そのようなことから、先の大村市教育委員会の寿古遺跡報告書には、その特徴点として(要旨)「須恵器、輸入陶磁器、石鍋など古代〜中世前期の遺物が、これほど多量に出土する遺跡は大村市内にはない。 好武城及び寿古遺跡の状況はきわめて特殊であり、当該期における遺跡の性格は、自ずと当地域 における特殊な場として考える必要がある」と書いてあります。

「特殊な場」とは、どのような意味か
 寿古遺跡から発掘された「古代〜中世前期の遺物」の解釈として、何故わざわざ「特殊な場」と書いてあるのでしょうか? このことを素直に解釈すれば、それは、「普通の民家住居跡とか、市内に多くあった(地域ごとの豪族みたいな)支配者の館跡みたいなものでもなかった」、「それよりも、むしろ(当時、高級舶来品でもあった)輸入陶磁器を購入できる役所、役人、大きな寺院の住職などがいた所、あるいは貿易商社があった場所」と考えるのが、極自然とも思えます。

 そのことから、「彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった 」ページに書いている通り、そこは推定ながら彼杵郡家(彼杵郡衙)があった所と考えられます。だからこそ、その前にあった郡川の渕が、「ほんじょうふち=本庄渕、本城渕」(役所の前の渕と言う意味がある)と、長年呼ばれている所以だといえます。

 さらに言えば、役所にとって大事な金銭、米、武器や文書類を保管・貯蔵するには、水害に遭わない場所=小高い丘も絶対条件とも推測されます。港のあったと思われる郡川河口近くで小高い丘があったのは、地形的に寿古町の好武しかないのです。

 ご参考までに、この周辺が水害に遭っていない証拠は、寿古町の(かまど)権現前にある地蔵(寛延三 (1750) 年九月上旬に建立)が、260年以上も無傷のままの状態であることを見れば一目瞭然です。(郡川は戦後70年間と限定しても1957年の大村大水害を始め3回ほど氾濫していますから、先の約260年間には少なくても十数回は氾濫したと思われる)

 竹松遺跡や沖田町=郡川左岸周辺地域が水害に遭っても、寿古町の好武は小高い場所だったため被害が少なかったので、推定ながら彼杵郡家(彼杵郡衙)の役所が置かれたことは、先に述べた通りです。だからこそ、寿古遺跡からは、古代〜中世前期の輸入陶磁器が今までに例がないほど大量出土したのです。

 もっと、あからさまな表現を用いれば、財政的に役所関係だからからこそ高級舶来品の輸入陶磁器購入が、可能だったともいえます。この寿古遺跡から発掘された輸入陶磁器は、本件を考える意味で大きなインパクトのあるものとも言えます。

あとがき


  (この原稿は、準備中)


関係ページ:彼杵郡家(そのぎぐうけ)、寿古町は古代・肥前国時代には郡役所(長崎県央地域の県庁みたいな役所)だった  、 本庄渕 、

(初回掲載日:2013年8月8日

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